26

さっきからコーヒーカップの中で、ぐるぐるとスプーンが回りっぱなしだ。
けれどそこに視線を落とすわけでもなく、大きな瞳は呆れて物も言えないといった様子であたしの顔をじっと見据えている。
ついでに言うと、スプーンを動かす反対の手は、あたしに訴えるように誇張して頬杖をついている。

陶器で出来たカップに当たるカチャカチャという音が、未だ鳴り止まない。
店内に流れるクラッシックの音楽に、その音が次第に合っているように聞こえてくるのは、気のせいだろうか……。


「菜奈って、いくつよ?」


とうとうあたしの話に痺れを切らしたようで、瑞穂はようやくスプーンを動かす手を止めて言った。


「失礼だな……」


ムクれたあたしに、瑞穂はこれ見よがしに溜め息を吐き出す。


「だってさ、そーんな状況で全く何にもないなんてありえる?
あたしには信じらんないわ」

「ありえない、って言われても……。
仕方ないじゃん。手ぇ出さないって、海斗が約束したんだし」


「ふーん」と、納得はしていない顔つきで、瑞穂はコーヒーを口にする。


「しかもさ。菜奈、色気なさすぎない?
何? 好きなものを食べに行こうって言われて、うどんってどういうこと?
もっと女の子らしいお洒落なお店、選びなよ」

「だって……海斗はクラス会でお酒飲んでるから、胃がもたれてるかな、とか思ったし。
あたしも寝不足だったから、胃に負担のないモノのがいいな、って。
それにそのお店、美味しいって有名なんだけど」

「有名とか、そういう問題?
海斗クンも何にも言わないの?
好きなモノの返答が、うどんって言われて」

「……確かにちょっと笑ってた、けど」


そう答えたあと、昨日のことを思い浮かべてみる。


いや。ちょっとじゃないな。
結構、笑ってた……。

でもそれを今、瑞穂に言うとまたうるさいから、黙っておくけど。


「て、ゆーか。
海斗クンってさぁ、菜奈のこと、大事にしてるんだか、本当にゲームで落とそうと楽しんでるんだか、どっちかよねぇ?
……まぁ。前者を祈るわね……」

「………。
祈る、って……」






――前者。

確かに……。
海斗の気持ちは、本当のところ良く分からない。

だけど昨日。
戻ってきてくれてから、何だか少し違うかな、って感じたんだもん。
今迄よりも、優しさを感じるっていうか……。

瑞穂の言う、大事に、なんて……ありえるのかな?
少しはそういうのも、期待してもいいのかな……?


帰りの電車の吊革に揺られながら、そんなことを考える。

車窓の向こう側に、渋谷の街並みが映り始めた。
背の高い、見慣れたビル群。
続けて流れ見えてくる、スクランブル交差点。

いつもと変わらない景色。
けれど定時で仕事が終わった今日は、ビルの合間に落ちていく真夏の陽と夕闇の色合いが、ちょうど美しく見える。


そう言えば、ココで海斗と初めて会ったんだ。
二人で渋谷駅に投げ出されて……。
カッコイイけど、最悪な男。
もう、随分前のように感じるから、不思議……。

今はこんなに、好き、なんて……。


ホームに電車が滑り入る。
流れる駅構内と人影をぼんやり見つめていると、聞き覚えのある音楽が耳に入った。


あ、ヤバい!
携帯、バイブにするの忘れてた!


肩にかけたバッグの中で、音を立て始めた携帯電話。
乗客達に迷惑にならないように電源を切ろうと、慌ててバッグの底から取り出す。
けれど電源のボタンを押す前に目に入った名前が、頭より先に身体を反応させた。

あたしは、今開いたばかりのドアから無意識に降りていた。
車両の前に並んでいる乗車客達をすり抜け、すぐに通話ボタンを押して携帯に向かう。


「もしもしっ?」

『菜奈?』


きゅうっとする。
海斗の低い声。

その甘い痛みに、思わず携帯を持つ指先に力が入る。


どうしたんだろ? 珍しい……。
昨日会ったのに、電話してくるなんて。
こんなのって、めちゃめちゃ嬉しい!


「うんっ。どうかした?」

『オマエ、もう仕事終わった?』

「うん、今帰りだよ」

『今日、これから暇?』


どきっとした。

本当にどうしたんだろ。
当日に誘ってくるなんて、初めてだよね?


「暇だよ。家に帰るだけだし」

『今どこ?』

「えっと、渋谷。駅のとこ」

『なんだ。近くにいるんだ? ちょうど良かった。
明治通りのマックの前辺りにいろよ。迎えに行く』

「うんっ! 分かった!」


返事をしながら、顔が綻んでいく。


渋谷で咄嗟に降りて良かった。
電車に乗ったままだったら、こんな風に電話に出られなかったし。
会えなかったかもしれないし。


『麻紀をさー、家まで送ってくから。
店に新しいボード、取りに行くついでなんだけど』


麻紀さんを送ってく?
家まで?


「うん」


答えながら、ちくりと小さく胸が痛む。
せっかく海斗から誘ってくれたのに、他の女の子が一緒なんて……。


でも……それはもしかして、一応あたしに気を遣ってるから、とかなのかな?
いくらついでに送るっていっても、麻紀さんは元カノなんだし。
しかも、七里までは距離もあるし……。


そう考えていると、海斗が言った。


『つか。ボード取り行ったらさ、あの辺で何か美味いモノでも食って帰ろーぜ」


トクンと、心臓が高鳴った。
疼くような甘い響きと痛み。


「行くっ!」


慌ただしいあたしの心臓。
海斗の言動ひとつで、気分は一転してしまう。


嬉しい!

ホント、どうしたんだろ。
こんな風に誘ってくれるなんて。

これはゲームなんかじゃない、って信じたい。
少しはあたしのこと、気にかけてくれてるのかな、って。
そう思ったら、自惚れ過ぎかな……?






マックの前で待つこと15分。
麻紀さんを一緒に乗せた海斗の車は、あたしの目の前で停まった。

助手席には、てっきり麻紀さんが乗っていると思っていたのに、彼女は最初から後部座席に座っていて。
あたしは空いている助手席に乗り込んだ。


それはやっぱり、あたしに気を遣ってくれて、なのかな……?
付き合っていた時は、もちろん、今あたしが座る場所が、麻紀さんの指定席だったんだろうし。
今はどんな思いでそれを見ているのかな、なんて……。
そんなことさえ気になってしまう自分がいる。

海斗が注文したという新しいサーフボードの話や、サーフィンの話は、あたしにはさっぱり分からなかったし、ついていけなかった。
そこでも気を遣ってくれているのか、分かりやすく教えてくれたり、違う話題を振ってくれたりはするんだけど……。
海斗が一番楽しそうに話すのは、やっぱりサーフィンの話なんだな、と、痛感した。
何も分からない自分が、酷くもどかしい。

未知花さんも……彼氏がサーファーだったし、いつも一緒に海に来てたんだから、色んなことを知ってるんだろうな……。

つまらないことを、また考えてしまう。
何だか本当に情けない。

横浜新道を降りると、大船の観音様が見えてくる。
白衣の石像はオレンジ色に照らされて闇に浮き立ち、新緑に取り囲まれたその姿は優しい面持ちで、より一層神々しさを増している。

ようやく見えた海は飲み込まれそうな黒さで、月と街の明かりが水面を薄っすらと黄色く染め上げていた。




既にお店は閉店しているようで、中の灯りは最小限に点されているのが外のガラス窓から窺えた。
独特なベルの音を響かせドアが開かれると、夏の夜の熱気から一転して心地良いひんやりとした空気が流れてきた。


「おー。いらっしゃい」


出迎えてくれたのは、如何にもサーフショップのオーナーといった感じの、お洒落な年配の男性だった。
麻紀さんのお父さんだ。
どことなく、彼女と似ている。

こんなお父さんなら自慢だよね、と思えるくらい格好良い。
焼けた肌に広い肩幅。鍛えた身体、という感じに締まっている。
髪型も服も若々しく、それが良く似合っていて、良い歳の取り方っていうのはきっと、こういう人のことを言うんだと思う。
多分、ウチのお父さんと同じくらいの年齢なんだろうけど……全く違う。


「お久しぶりっす」


海斗の挨拶の後に、あたしも「こんばんは」と、ぺこんと頭を下げた。


「ああ、こんばんは」


オーナーは少し驚いたように目を大きく開けて、あたしに挨拶を返してくれた。
そして海斗に、ニッと笑顔を見せる。


「何だ海斗、可愛い子じゃないか。
板、届いてるぞ」


微笑んだその顔は凄くニヒルな感じ。
おまけに可愛い、だって……。
それがまたこの年代なのに、スマートにさえ感じさせるのって凄いかも。


「いーから、見せてよ」

「はいはい。こっち」


あたしについては触れんなよ、といった感じで海斗が流すと、オーナーは性格を見越したようにニヤリと笑って、あたし達を奥へと案内してくれた。


ずらりと並ぶ、白いサーフボード。
その横に別に立てかけてあるものが一枚だけあった。
他のボードよりもずっと目を引く。
すぐにそれが海斗のモノだと分かった。


「わー、カッコイイね」


真っ白なボードに、センスの良い筆記体のロゴ。
真ん中のストリンガーというウッドを挟むように、ブルーのラインが二本引かれている。

シンプルだけれど、深い海を思わせるような美しいブルー。
海斗に、似合う色。


「だろ?
でもさ。デザインもいいんだけど、ここのシェイパーがスゲエんだよ。
独自の理論があってさぁ、センス良いんだよな。ロッカーも絶妙で……」


んん?
シェイパー? ロッカー?

せっかく説明してくれても分かんないんだけど……。
少しは勉強しようかなぁ……。


熱く語り始めた海斗は、夢を語るみたいに瞳がきらきらしてる。
そういう顔を見てると、あたしまで嬉しくなって、つい顔の筋肉が緩む。


なんか、可愛いっていうか。
子供みたい……。


会話を邪魔するように、ふいに、広い店内に何かの音が響いた。

海斗が視線を落とした。
その仕草で、すぐにそれがその本人の携帯の着信音と分かる。

ポケットからすくい上げた携帯。
そのディスプレイ目にした瞬間、笑みを浮かべていた海斗の表情が変わった。

驚いたように一瞬、表情を固めて目を見開いた。


――何……?


「あれ? 出ないの?」


電話に出ないまま、そのまま携帯をポケットに入れた海斗に、麻紀さんが不思議そうな顔をして訊いた。

ポケットの中で繰り返されている電子音。
会話の止まってしまった店内に、くぐもったその音だけが鳴り響く。


「ああ。いーの」


海斗が苦笑いしながら答える。

ぐっと、大きな不安の波があたしを下から突き上げてきた。


……未知花さんだ、きっと。


確証もないのに、瞬時に分かってしまった電話の相手。

海斗は眉根を寄せたまま、歪んだ瞳で目の前の真っ白なボードを見つめる。

冷房の効き過ぎた店内で、いつの間にか指先が冷たくなっていることに、こんな時気付く。
まるで血が通っていないような感覚のその指を、拳を作ってぎゅっと握り締めると、じんと痺れた感覚が襲う。


だって――。
海斗にあんな顔をさせるのは、彼女しかいない……。


ぷつりと音が止まった。

麻紀さんとオーナーは、腑に落ちないように顔を見合わせた。
そんなシンとする中で、また、同じ音が鳴り出した。

びくり、と、あたしの身体もその音と共に強張った。


「何か、急用じゃないのか?
電話出た方がいいんじゃないか?」


オーナーのその言葉にも、海斗は電話を取ろうとしない。
ただそこに虚しく着信音が響き渡って、それがあたしの心拍数を上げ、苦しくさせる。


何で出ないの?
あたしに気を遣ってるの?
そんなの、余計に嫌だよ……。
何でもない振りして出てよ。

そんな顔、しないで……。


さっきから握りしめ続けている掌は、痛いくらい力が入り込んで仕方ない。


「あたしっ、喉乾いちゃった!
コンビニ行って、お茶買ってくるね!」


急に思いついたように明るく言って。
無理矢理笑顔を作ってから、あたしはすぐに背中を向けた。


泣いちゃ駄目。
泣いちゃ駄目。

心の中で繰り返す。


カララン、と。入り口のドアを押すと、同時に頭上でベルが鳴った。
温かみのあるこのドアベルの音が、あたしの心内を刺激してくる。


本当に涙が出そうだよ……。


南風に乗って、海辺のじっとりと湿気を含んだ生暖かい空気があたしを包み込んだ。
息苦しいほどの潮の香り。

ドアが閉まっても着信音は消えなくて。
聞きたくなくて、あたしはすぐに足を速めた。






咄嗟に出てきたのはいいけれど、この辺の土地勘なんて全くなくて。
コンビニの場所なんて到底分かるはずがなかった。
都心のように少し歩けばすぐにコンビニが見つかるような場所なんかじゃないのも、よくよく考えれば分かること。

海沿いに続く道を、ただひたすら歩いた。

耳鳴りのように波の音が絶え間なく繰り返されて。
黒い海に月の色が丸く映り込み、それが小さな光の粒みたいに集まっては離れ、水面を輝かせている。
向かいに見える江ノ島は、黄色や赤や青の、色とりどりの電飾の上に浮いているようだ。
そこへの道のりは、車のランプが並び、ここから繋がっていることを幻想的に教えてくる。

そんな湘南の夜の景観は綺麗過ぎて、目に余る。
一人で見つめるあたしは、感動よりもただ哀しい気持ちにさせられるだけ。

ようやく道沿いにコンビニを見つけると、500 mlのペットボトルを4本買い、すぐに店を出た。
駐車場には、同い年くらいの男女数人が、座りこんで楽しそうに喋っている。
女の子の高い笑い声が耳について、あたしは足を速めた。
手に持つコンビニ袋が、カサカサと音を立てる。



長く感じた道のりは、帰りとなると、なぜかあっと言う間だった。
行きも通った見覚えのある景色のおかげかもしれない。
遠目から、店の明かりが見えてくる。


うん。大丈夫。
もう、普通に出来る、よ。


ドアの前に立つと、ペットボトルの入ったビニール袋の取手を握り直す。


……大丈夫。


もう一度自分に言い聞かせ、店のドアを引いた。


「おかえり」


ドアベルの音に、カウンターにいるオーナーがすぐに笑顔を向けてきた。
けれど、一人だけ。


「一人で道に迷わなかった?」

「あっ、はい。
海沿いにあったので」


あたしはそう答えてから、ペットボトルを一本オーナーに「どうぞ」と渡した。


「ありがとう。
二人なら今二階に行ったよ。
何だか麻紀が海斗に返す物があるとかで。
奥の階段から上がっていって」


――返す物?


「はい。すみません」


ぺこりと頭を軽く下げてから、あたしはオーナーの言う通り店内を横切り、奥の階段へと向かった。


海斗と麻紀さんって、やっぱり仲がいいんだな……。

焼きもち、というか……少し羨ましいな、と思う。
二人の関係に。


照明の点いていない階段は、二階から漏れる明かりで薄っすらと照らされている。
それを頼りに、静かに上がっていった。

途中、カーブして踊り場のようになっている板に差しかかった時だった。


「未知花、帰ってきてるんだってね?」


耳に入った麻紀さんの声に、あたしは足が止まった。
階段の上を見つめる。


――未知花、さん……?。


急激に、ドクドクと心臓が脈打ち始める。


「何で麻紀が知ってるんだよ?」

「未知花から、電話があった」

「……そっか」


溜め息混じりの、海斗の声。


階段の先の部屋から漏れてくる海斗と麻紀さんの会話は、響くようにここにいるあたしの耳まで届く。
黙ってこうしているなんて、まるで盗み聞きしているみたいだ。
けれど、こんな会話をしている状況で、二人の前に出ることも出来るはずもなくて……。
それより前に、あたしの足も身体も、固まったように動かない。


「海斗の賭けは勝ったんだね?
願掛けは、叶ったんだね?」

「………」


賭け?
願掛け?

――何?


麻紀さんの問いに、答えのない海斗。
そんな海斗に、不安の波音があたしの中に大きく広がっていく。


「コレ……返す、ね」

「麻紀が持ってたのか……?」


海斗の口から、ふう、と、一緒に吐き出された息の音までもが聞こえる。


「ごめんなさい……。
海斗がずっと大事に持ってたのが悔しくて……。
付き合ってた時に、部屋から持ち出したの。
盗んだなんて言えなくて……それでなかなか返すことが出来なくなって……」


持ち出したって、何?
返すことが出来なくなった、って――?

麻紀さんがそんなにまでするくらいのモノ?

それは――きっと、未知花さんと関係があるモノ、ってことだよね……。


不安と高鳴る心臓の動きを押し殺すように、静かに息を飲む。


「……そっか」

「本当にごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

「何で? 怒らないの?」

「オレが悪い……。
ゴメンな、麻紀」

「なっ、何で海斗か謝るのっ?」

「オレが、麻紀の気持ちをちゃんと分かってたら、こんなことにはならなかったろ。
あの時のオレは、そういう気持ち、見ないようにしてた。
だからオマエの本当の気持ちなんて、これっぽっちも分からなかったし、分からないようにしてたんだ。
ホント、最低なヤツだよ」


沈黙が流れた。

掌に入る力と一緒に、唇をぎゅっと横に結ぶ。


海斗と麻紀さんの、昔の関係……。


「ううん。あたしは、それでも良かったの。
海斗の気持ちは最初から知ってたし、好きだったから、一緒に横にいられれば、それで。
それにね、あの時、気のない振りをしてたあたしが悪いの。
プライドが邪魔して、きちんと向き合えなかったの。
飽きた、なんて言って、結局振ったのはあたし。
怖かったんだ、ハッキリ好きじゃないって言われるのも。
ただ、そこからカッコつけて逃げたの。
海斗は最低なんかじゃないよ」


麻紀さんの言葉のあと、ほんの少し沈黙が流れる。
そして、海斗が言った。


「きちんと向き合ってれば、オレ達、何か変わってたのかな……」

「ヤダな。
そういうこと、言わないでよ」


ふっと、声のない麻紀さんの笑みが零れた息の音が聞こえた。


「あたし達の関係は変わらないよ。
だって、海斗は絶対にあたしに恋愛感情なんて持たないもん。これからもずっと、ね。
あたし達は、大事な友達、っていう関係。
その絆を大切にしていければいいって思ってるよ。
あたしは本当に海斗のことが大好きだったから、幸せになって欲しいと思ってるの。
今は、それだけだよ。それ以上の気持ちはきちんと整理出来てるよ。
海斗は? 海斗の気持ちは、今どこにあるの?」

「………」


海斗の返事は――ない。


何で――。
何でそこで黙るの?

それは、まだ未知花さんが好きだから?
昨日、整理出来なかったってこと?

――じゃあどうしてあたしのところになんて来たの?



カタンと、テーブルの椅子を引くような音が響いた。
すぐにそこに座る様子が窺えるような小さな音が聞こえ、その音の後に麻紀さんが言った。


「どの選択を取るにしても、海斗自身が決めることだよ。
間違ったりしないで、絶対に。
もう、後悔なんてしないで」

「……ああ」


低く、呟くような海斗の返事。


――選択

――間違い

――後悔


麻紀さんのその言葉は、未知花さんとのこれからのこと、だよね……。


海斗が後悔しない選択――。


その選択肢の中に、あたしは少しでも含まれてる?


小さな光を見出せたかと思ったのに。


胸を押さえる掌に力を込め、瞼をぎゅっと閉じる。

息さえ上手く出来なくて。
細く息を吸ってから、同じように細く吐き出す。


数回繰り返すと、そっと瞼を開き、階段の上から漏れる部屋の光を睨むように見つめた。
暗い中に輝く光。


――それでも、あたしの気持ちは変わらないでしょ……?

昨日あたしのところに戻って来てくれた。
その1%の可能性でも信じたいよ。


もう一度、握った掌にぎゅっと力を込めてから、ペットボトルの入った袋を掴んで、その暗い階段を光に向かって上り始めた。

update : 2008.01.30