25

「ごちそうさま!」


お米の最後の一粒まで綺麗にたいらげた海斗は、空っぽのお皿の前で満足そうに微笑んで手を合わせた。


何だか、幸せ。

自分の作ったご飯を美味しそうに食べてくれて。
こんな笑顔を見られるなんて。

同棲とか結婚とかしたら、毎日こういう温かい気持ちが貰えるのかな?
それならそんなのも悪くないな、なんて。
そんなこと考えるの、飛躍し過ぎかな?


馬鹿だな、と思いながら、テーブルの上の食べ終えた食器を重ね合わせる。

海斗はテーブルに頬杖をついて、ただ眺めているだけ。
足まで伸ばして、リラックスモード全開。


信也の時は――こういうの。食べ終わった後、お皿を下げるくらいは手伝ってくれたけど。
海斗は全く俺様。
確かにそんな海斗は想像出来ないし、ね。


そんな想像出来ないはずのそれを、頭に思い浮かべながらお皿を持って立ち上がると、何だか妙におかしくなって、含み笑いをしてしまった。


「何いきなりニヤニヤしてるんだよ? 怖いし」


海斗は、眉を寄せて下から見上げてくる。


「べ、別にっ」

「やーらしー含み笑い。何か変なこと考えてたんだろ?」

「だから何でよ! もう!」


コイツってば、小学生か、っつーの!
こうやってたまに、あたしのこと、女の子扱いしてくれない。
からかって楽しんでる、ガキみたい。


あたしはぶすくれながら背中を向け、さっさと流し台へ皿を運ぶ。


何だか背中にまた視線を感じるんですけど……。
気のせい?
て。またどうせ笑ってるんでしょ?


睨みつけるように、肩越しに顔だけ振り向いた。
けれど、予想とは違う顔つきが、あたしを見ていた。


「美味かったよ。オマエの飯」

「……え?」

「つか。睨むなよ。
マジで。久々、こーゆーの食った気がする。
外食ばっかだし」


だから……。
もう、ヤダ……。
そういう不意打ち、やめてよ。
泣きそうに、なる。

期待を裏切ったその優しい顔が、たまにぐっさり刺さっちゃうんだよ、もう。
分かってて、やってるでしょ?


可愛い顔なんて作れなくて。
睨んだときの瞳と変わらないままの表情で、あたしはまたくるりと背中を向けた。

だって。
ホントに歯を食い縛ってないと、涙が出そうで……。


「菜奈」


名前を呼ばれて、ドキッとする。


「……何?」


振り返らずに、返事をする。
流しに丁寧に置いた食器が、小さくかちゃんと音を立てた。


「なぁ。ごめんな。
ありがと、な?」


――何?

ごめんな、と、ありがとう、って……。
それ、どういう意味?


胸がぎゅうっと締め付けられた。
色んな意味を含み、どうとも取れるその言葉。

けれど、きちんと訊き返せない、勇気のない自分。
今ここで終わってしまうのが怖くて。
好きじゃない、と言われるのも、もう嫌。
本当はそんな言葉なんて聞きたくない。それがいくら分かり切っていても。
それに今、そんなことを言われたら、絶対に泣くのなんて我慢出来ないよ。

未知花さんとは、どうなってるの……?


海斗に染み付いている煙草とアルコールの香りが、部屋に微かに漂っていて、そんな気持ちをどうしても思い起こさせる。
一緒にいる時間くらいは深く考えず楽しく過ごしたいのに、簡単にそうさせてはくれないみたいで――。


蛇口を上げた。
音を立てながら勢いよく水が流れ出て、皿に付着していた汚れが流れ落ちていく。
色のついた水が、流しの上に丸く広がりながら、吸い込まれる。
それを、見つめる。


「海斗」

「ん?」

「シャワー使ってきていいよ」

「えっ?」


驚いたような声を上げる海斗の方へ、ゆっくりと振り向く。


「ヤダな。変なこと考えないでよ、朝っぱらから。
煙草臭いから入ってきな、って言ってるの。
シャツも洗濯しておくし。今から干しておけば、お昼前には乾いちゃうよ。
Tシャツくらいなら海斗が着れそうなのがあるから、乾くまでそれ着てればいいし」


そう言いながら、あたしってなんてズルイ奴と思う。
自分で未知花さんのところに行かせたクセに。
その痕跡を感じるのが苦しくて、落として欲しいと思うなんて……。

本当は、嫌で堪らないの。その匂いが。
それを、何とも思ってない素振りをするのも。

気遣ってあげているような、イイ子の振りをして。
ズルイ奴……。
自分で自分が、嫌になる。


「あー……うん」


答えた海斗の目は、ほんのり赤く寝不足を示す。
そんなところにも、チクリ、と胸が痛くなる。


「それにさ、寝てないでしょ?
少し、休んだら?」


さらりと言いながら、あたしはまた流しに向かった。
食器用のスポンジに洗剤をつけ、皿を洗い始める。

海斗はそこで黙ってしまった。
あたしはもう、それ以上言わない。

後ろで、立ち上がった気配がした。

足音が近づいてきたかと思うと、あたしのすぐ背後で海斗は止まった。
手元に、影が出来ている。海斗の、背の高い薄い影。
それだけで、ドキドキしてしまう。
何だか余計に振り向けなくて、あたしは黙ったまま皿を洗い続ける。
出しっ放しの水が途切れることなく、音と一緒に流れていく。

ぽん、と。
掌があたしの頭の上で跳ねた。


「オマエも、な」

「え?」


やっぱり、振り向いてしまった。


「風呂、借りるな?」


そう言った海斗は、すでに後ろ姿だった。
手から、白い泡が滴り落ちる。


オマエも、って……どういう意味?
あたしが寝ないで待ってたの、やっぱりバレてるのかな……。


狭いあたしの部屋は、場所なんて教えなくても分かるくらいのもので、海斗は勝手知ったる、のように迷うことなくバスルームに向かった。

1LDKのあたしの部屋は、一応はバストイレ別。
けれど、一般的なひとり暮らし用のアパート部屋なんて、洗面脱衣所というドアの付いたスペースなんてあるはずがない。
バスルームのドアの前で海斗が服を脱ぐ衣擦れの滑らかな音が聞こえてきて、心臓がまた早鐘を打つ。
ガチャガチャとバスルームに入った様子が窺え、シャワーの音が聞こえ始めると、妙にホッとしてしまった。
だってやっぱり、近くで服を全部脱いでいるかと思うと、落ち着かない。

あたしはさっと洗い物を済ませると、海斗が使うタオルとTシャツを用意した。
ほとんど使っていない、パジャマ用のダボダボのTシャツ。
これならきっと、海斗でも着られると思う。

それを持ってバスルームに近づくと、床には脱いだ服がそのまま散らばってあった。
まさか脱いだ服をたため、とは言わないけど。
何だか、こういうところは海斗っぽい。

ふふっと思わず笑って、床の服を拾い上げる。


えっと……。
さすがに全部洗ったら、着るものなくてマズイよね?
シャツだけのがいいよね?


一瞬悩み、シャツだけ洗濯機に放り入れる。
今の今まで海斗が着ていたそれは、ほんのり温かさを感じた。

洗濯機の電源を入れる。
勢いよく水が出始め、海斗の使うシャワーの音と混ざり合う。

音につられてちらりとドアの方を見ると、バスルームのドアの刷りガラスに、海斗の肌の色がぼんやり浮かんでいる。
ドキッとして、慌てて目を逸らした。

心臓がバクバクしてる。
落ち着かせるように、息を吸い込む。


ヤダ! もう!
あたし、何やってるの?
この年になって、こんなことにドキドキさせられるなんて……。


だって、こんなの初めてでも何でもないこと。
今迄付き合ってきた人とだって、こうして過ごしてきたのに。
こんな感情ばかり受けるのは、相手が海斗だからなのかな……。


さっきから緊張したりドキドキし過ぎて、疲労感がどっと湧いてきてしまった。
やったことと言えば、たかだか食器を洗って洗濯機を回しただけなのに。

ラグに座り込んで、テーブルに顔を平伏せる。
一息つく気分で、小さく息を吐いた。


海斗といるだけで、心臓が忙しくて。
胸がぎゅっとして、苦しくて。
でも、幸せなんだ……。


膨らんで満足した胃袋と、エアコンから噴き出す気持ちの良い冷たい風の心地良さに、あたしは瞳を閉じた。
自然と入ってくるシャワーの水音がサラサラと聞こえて、気分もふうっと軽くなる。


こんな風に、お風呂から出てくるのを待つなんて、本当の恋人同士みたい。
くすぐったい感じ……。


そんなことを考えていると、あたしは眠れなかった昨日の夜の代わりに、いつの間にか深い眠りの入り口へと入っていった。








瞼の裏が赤く色付いている。
瞬間的に、朝だな、と思った。
太陽の光が、眩しい。


……んーと。
何してたんだけ? あたし……。


目元に手の甲を当て、まだ半分は眠り込んだままの頭を緩やかに働かせてみる。


……あれ?
海斗がいたよね……?


その回答で完全に頭の中は叩き起こされて、ぱっと瞼を開いた。

目に飛び込んだ光景に、思わず声が漏れそうになった。
無理矢理それを飲み込むと、喉が小さく鳴った。
驚き過ぎた心臓は、急激に大きく響き始める。

咄嗟に目を瞑って、もう一度考えてみる。
けれど結果は同じ。
再度瞼を開くと、目の前には海斗の綺麗な寝顔がある。


嘘ぉ!
何で一緒に寝てるの!?
しかも海斗ってば、裸じゃんっ!


海斗がテーブルで寝てしまったあたしを運んでくれたのか、ベッドの上にいた。

そこに二人、横になっていて――。
いつも使っているあたしのタオルケットを、一緒に掛けていて――。
目の前の海斗は、服を着てなくて――。


いや。
あたしはちゃんと服を着てるから、何もないのは明らかなんだけど。
て、いうか。
そんなことをした覚えもないし!


少しでも落ち着かせようと、深呼吸する。
よくよく見ると、海斗は上半身は裸だけれど、乱雑に掛けてあるタオルケットの端から、デニムを穿いた足が飛び出ている。


ちゃんと、下は穿いてるじゃん……。


ホッとして、あたしと20cmくらいしかない距離の海斗の寝顔を見つめた。


一緒に寝てるなんて……。
かなり、緊張するけど……。

それでもその緊張とは違った気持ちが、あたしの胸の中を大きく占領している。

嬉しいな、とか。
幸せだな、とか。
何だかくすぐったくて、温かくて。

海斗が好き、っていう気持ち。


同じ枕に頭を乗せた海斗は、あたしの方へ向き、気持ち良さそうに眠り込んでいる。
腕は肘から直角に曲げられて、大きな掌があたしの顔との僅かな間を邪魔するように置かれている。

節のある指が、海斗の手だな、と、思う。
力の入っていない掌。
丸く短い爪のついた指先まで、愛おしい。

その先には、筋の浮き立った腕。
男の人だなぁ、なんて。あたしとはあまりにも違う腕の太さに、ドキッとする。

まだ開きそうにない瞼。
そこから伸びる長い睫は、陽に透けている。
高い鼻は鼻筋も通っているし。
規則的な寝息を漏らす、薄っすらと開かれた唇が色っぽくて。

寝顔も綺麗な、海斗。


こんなに間近でじっくり顔を見るなんて、初めてかも……。


触れたくなって、ふっと、手を伸ばした。
柔らかく指先に絡むふわふわの髪。
閉じた瞼にかかる少し長めのそれをゆっくりと掻き上げると、ふわりとシャンプーの甘い香りがあたしの鼻を掠めていく。
あまり広くない額が現れると、きりっとしているはずの眉が、少し歪んだ。


やぁ……っ。
可愛いっ……。


その表情が生意気そうないつもとは違っていて、堪らなく可愛い。
顔が綻んでしまう。
つい、ふふっと、息を漏らしてしまった。

海斗は、あたしが触れていても、まだ深い眠りに入り込んでいる。


起こしちゃ悪いよね?
今のうちに、あたしもシャワー浴びてこようかな。


身体を起こし、立ち上がろうと腕に力を入れると、ぎしり、とベッドが軋む音を立てた。

いけない、と思うと、今音を立てた右手首を後ろから掴まれた。

驚いて、瞬時に振り返る。


「何だよ。もう行っちゃうの?」


海斗は、楽しそうに口の端を上げている。


寝てたと思ってたのに。
思い切り目は開いてるし!
笑ってるし!
し、信じらんないっ!


「ちょっ……! 起きてたの!?」

「まさか。今起きた。
よく寝た……」


ふわぁ、と、海斗は、大きな口を開けて欠伸をする。


今?
良かった……。
触ったのとか笑ったのとか、バレてないよね?


胸を撫で下ろし、もう一度立ち上がろうとする。
けれど、何故か海斗はあたしの腕を掴んだまま。

ベッドに横になったままの海斗に、視線を落とす。


「えーと。手、離して?」

「もうちょっといいじゃん?」

「ええっ!?」

「何だよ。
オレのこと、じろじろ見て、触ってたクセに」


二ヤリと。
分かっているような意地悪な顔で笑う。


全部バレてるじゃん!

て、ゆーか。
何? 何? いきなりっ。
もうちょっといいじゃんって、それって……。


ふっ、と。
右手を掴まれたまま、反対の手が伸びてきて、あたしの頬に触れた。
今迄寝ていたせいか、異様に熱く感じる海斗の指先の温度。
見つめる先の瞳には、もちろん、あたしが映し出されていて……。

胸がきゅーっと締め付けられる。
この上ないくらいの、甘い気持ち。


どうしよう、と、思った。
このまま抱きしめられたい気持ちのが、勝ってるから。
コイツが恋愛感情ないのが分かっていても……今のあたしは、手を出されても拒めないところまで来てる。


触れられている指先が、ゆっくりと頬から耳先をなぞっていく。
びくりと身体が反応する。
あたしは、ぎゅっと目を瞑った。

その瞬間、掴まれていた手は解放されて、耳に触れていた手があたしの髪をぐしゃぐしゃと撫でた。


――あれ?


離れていった掌の感触に、まるで肩透かしを食らったように閉じていた瞼を開いた。

隣で素早く起き上がった身体は、簡単にあたしの背を追い抜く。
あたしは、黙って見上げた。


「どっか行く?」


見上げた顔は、そう言って優しく微笑む。


「……え?」

「崩れた肉じゃがのお礼に。
オマエの好きなトコ行ってー。
何か好きなモノ、ご馳走するよ」


お礼……?


「………。
崩れた、は、余計です」


そう、また可愛くなく答えるあたし。

でも。
嬉しい。


海斗はくしゃっと顔を歪めて笑うと、またすぐに優しい顔つきになった。


「じゃあ、さ」

「うん?」

「次は崩れてないやつ、食わせろよ?」


海斗はそう言うと、先にベッドから降り、あたしが寝ている間に干したらしきハンガーにかかる自分のシャツのところへと、さっさと歩いて行った。
あたしはすぐに言葉が出てこなくて、黙ったままその姿を目で追った。

随分二人で眠り込んでいたのか、時計の針は午後1時を過ぎていた。
ブラインドも閉めていないままのベッドルームは、夏の暑い西日が窓から差し込んで、起きたばかりのあたしの頭を余計に覚まさせてくれる。


それって――。
次は、って――。


今後の関係を示す言葉。
まるで仲の良い恋人同士みたいな――。


隣で寝てたり。
あんな風に触れてきたり。
期待させるような言葉だって、平気で言う。
これが海斗にとっての、女の落とし方?

だけど。
何か。
前より優しいな、とか、そんな風に思ったら駄目?
期待し過ぎちゃ駄目?

朝、ゲームだって言われたばかりなのに……。


――未知花さんは、今週フランスに帰る。


昨日、何を話したかは分からないけど。
期待……していい?
未知花さんのことは、きっぱり忘れたって。


何だかね。
少し。
海斗に近づけた気がしたの。

ほんの少しずつでも、これから――。
二人の距離が縮まってくれるかな……。


そんな甘い時間に、僅かな期待があたしの胸の中へと生まれ始めた。

update : 2008.01.23