24

ゆらゆらと揺れる深い海に身を任せたような感覚だった。
波が打ち寄せては引くように、行ったり来たり。
地につかずにふわふわと浮いた感じで。
まるでテレビの砂嵐を見ているように、モノトーンの何もない世界が広がっている。
自分が今、何をしているのかも分からない。
どこに向かうのかも。
ただ、酷く不安定で……。


微かにどこからか何かの音が聞こえた。
腕に、緩い振動が伝わってくる。

それがテーブルの上にある携帯のバイブレーターだと思った途端、何も考えなくて済んだ夢の世界から現実にと引き戻された。


――海斗!?


開くことを拒否していた重い瞼を、パッと大きく見開いた。
ばねのように勢いよく身体を起こして、暗い部屋の中で緑色に点滅する携帯を引っ掴みサブディスプレイを確認する。


――着信、菅野くん


見た瞬間に溜め息が出て、そんな自分に呆れかえった。
何てヤツ――あたしは。


手の中で鳴り続ける携帯電話の点滅を、ぼんやりと見つめる。
小さな光は、霞んでいくつも滲んで見える。


いつまで泣いてたんだろ……?


めちゃくちゃに泣いて、泣いて、いつまでたっても涙は止まってくれなくて。
自分の中も、もう、ぐちゃぐちゃで。
あまりに疲れたのか、テーブルに伏せてそのまま寝てしまったみたいだ。


二つ折りの携帯を開くと、そこだけ切り取ったみたいに明るく感じ、眩しさに目を細めた。
あたしは、そのまま通話ボタンを押した。


「……もしもし」

『ああ、ゴメン、菜奈ちゃん? 菅野』

「うん」

『今日ごめんね、行けなくて。大丈夫だった?』


その言葉に、今日あった色んなことがまた克明に蘇る。
未知花さんとのことも。
海斗とのことも。
一気に。

目の奥が熱くなる。
あたしはぎゅっと目を瞑り、押し出されそうな何かを飲み込んで答えた。


「うん。大丈夫だよ」


まるで今のあたしに、言い聞かせるような言葉だと思った。
言った後、きつく唇を結んだ。

菅野くんは、そんな不自然さに気付かず、良かった、と言った。


『それでさ、悪いんだけど、海斗いる?』

「え……」


――海斗?


『アイツの携帯に電話したんだけど、全然出ないからさ。
電源切ってるみたいだから。
一緒にいるとこ悪いなーとか思ったんだけど、アイツの担当の店が、顧客さんとトラブルあって、明日までに何とかしなきゃいけないからさ。
菜奈ちゃんに繋がって良かったよ。
海斗に替わって貰えるかな?』


替わって、って、どうしよう……。


「あの……海斗、いないんだ」

『え?』


菅野くんは、不思議そうに声を上げた。
そしてほんの少し間を持たせてから、当然のごとく訊いてくる。


『今日会うって言ってたけど、違うの?』

「そうなんだけど……」


声が先細り、そこから先は止まってしまった。
また色んなことが一気にあたしの中に流れ込んできて、その記憶と感情の波達がぐっと喉を圧迫して、それ以上なかなか声が出せない。


『菜奈ちゃん?』

「………」

『何かあったの?』

「………」

『ねぇ?』


菅野くんの口調が少し強まる。
どうにかして、あたしも言葉を出そうと努力する。


「菅野くんに、お願いがあるの……」


口を開いたらどうにも涙が滲み出てきて、あたしは唇を噛んだ。


『……何?』

「今、海斗に連絡入れないで欲しいの」

『え?』


海斗はクラス会にちゃんと着いたのかな……。
今頃、未知花さんと話をしているのかもしれない。
5年振りに会えたのだから、その機会を逃さないで欲しい。
きちんと納得出来る答えを見つけてきて欲しい。

たとえ、あたしのところに戻って来なくても……。


『――何? それ……』


菅野くんは、怪訝な声を上げた。


「勝手なお願いなのは、分かってる。
仕事だってことも」

『だから、どういう意味?』

「………」

『菜奈ちゃん?』

「ごめん、なさい……」

『………』


菅野くんも黙り込み、携帯電話越しに沈黙が流れる。
溜め息のような息が吐き出された音が聞こえると、「分かった」と、続けて低い声が言った。


『仕事の件は、こっちで何とかするよ』

「本当にごめんなさい……」

『菜奈ちゃんは、このままでいいの?』

「えっ?」


思わず声を上げると、菅野くんはほんの少し間を置いて言った。


『……ううん。ゴメン、何でもない。
仕事のこと、余計な心配かけてごめんね。こっちの問題なのに』

「ううん。あたしが……ごめんなさい……」


ふっ、と、微かに笑ったような音が聞こえた。
そしてすぐに「じゃあね」と、菅野くんの電話は切れた。


あたしは少しの間、そこから流れてくる通話中の音を、耳に押し当てたままでいた。


――コノママデイイノ?


菅野くんの言葉が、痺れた頭に電子音と共に何度も反響する。


いいわけなんてない。

だけど今日、海斗が未知花さんを選んでしまったら……。
あたし達は、もうそこで終わりだ。

もともと恋愛感情なく始まったあたし達。

そして。
さっき、あたしはそれを海斗に告げたばかり。


灯りもつけていない部屋は、薄いカーテン越しに入る街の灯りと、月の細い光で薄っすらと照らされて、あたし一人きりなのを誇張させられたように思えた。

あたしは徐に立ち上がり、ラグの上に置かれたいつも使っているバッグの元へ近寄った。

腰を屈め、バッグの中の内ポケットに、指を滑らせた。

ひやりと指先に感じる、冷たい感触。

――あの日からずっと、お守りのように持ち歩いていた、南京錠の鍵。


あたしはそのまま窓に向かうと、カーテンを開き、月に掲げた。
細い束になって差し込む月の光で、鍵の輪郭が金色に光って浮かび上がる。


他人から貰った鍵に、馬鹿みたいな嘘の願掛け。

あんな始まりのあたし達に相応しいような、偽物の恋人の証。


それでも。
偽りでも。
嘘の願掛けでも。
今のあたしは、そんなものにさえ縋りたくて仕方なかった。


――戻ってきて。

だって、一緒に鍵、つけたじゃん。
二人の名前だって、書いたじゃん。

あたしは、一緒にいたいよ。

海斗と一緒にいたい。
海斗が、好き。

好きなのに――。


月に願いを掛けるように、仄白い光にかざす。

暫くずっと、そうしていた。
手が痺れ始めると、ようやくそれを降ろし、ぎゅっと掌の中に閉じ込めた。

けれど手の中に閉じ込めた鍵と違って、人の心はそんな風には掴めない。


今――。
海斗は、未知花さんと一緒にいる?
会ったらきっと、色んな想いや気持ちが蘇るんだろうな……。


ふと、信也のことが頭を掠めた。
信也と再会した、同窓会のコト――。

姿を目にした瞬間に、込み上げてきた懐かしいような捉えどころのない気持ち。
胸を突くような。
締め付けるのに――それでいて、膨らんだような。

思い出した甘い気持ちと、身体が覚えていた記憶。
二人で抜け出した、あの夜――。

お互いに忘れられないで、その上顔を合わせたら、そんな気持ちが蘇るのだって当たり前で。
あたしがこうしている今、二人は気持ちが重なり合っているのかも知れない。


ぎゅうっと、胸が強く締め付けられる。
苦しくて苦しくて仕方のないその胸を、鍵を握った手で押さえ込んで、大きく息を吐き出す。


けれど、戻ってきて欲しいという気持ちとは裏腹に、時間は刻々と過ぎていく。
眠ることなんて出来なくて。
あたしは窓の外の月の影を、長い長い時間ただ見つめて待った。

流されてくる薄い雲に時折隠されながらも、月はその形も位置も、変わらないままでいる。

徐々に白みを増していく空の色は、涙が零れそうなほど綺麗で。

明るくなり始めた空に光る星の最後の一つが、その紫色のグラデーションの中にゆっくりと溶け込んでいくまで見つめていた。

そしてそれは海斗が戻ってこなかったことを示していて。
頬にまた、涙が伝わっていった。

温さを持つ粒が、次々と溢れ出してくる。
もう涙なんて、さっきの時点で枯れ果てたと思ったのに。

あたしはそれを拭わないまま、力が抜けたように身体を窓に凭せかけた。
額に伝わるガラスの冷たい感触が、瞼に熱のこもったあたしには、心地良くさえ感じる。

そのまま、重たい瞼を閉じた。
目を瞑っただけで、神経が研ぎ澄まされたみたいだ。
朝の街の音が、自然と耳に流れ込んでくる。
電車が線路を揺らす音。
ここからは見えないはずの、大通りを走り抜ける車の音も。

ふ、と。
何か予感のようなものがして、閉じたばかりの瞼をすぐに開いた。

遠くから聞こえる車の音に、何かの音が混ざった気がした。

空耳ではないその音は、徐々に近づくようにハッキリとし始める。


……足音?


ドクンと、大きく心臓が跳ね上がる。


まさか……。


足音が、更に近づいてくる。


――海斗!?


海斗じゃないかもしれないのに。
あたしの心臓はその音に合わせて急激に高鳴っていく。

説明も理由も、答えることなんて出来ない。
ただ、予感だけ。
あたしは考える前に立ち上がり、短い距離の玄関へと向かって走っていた。

玄関のドアの前まで来ると、アスファルトを蹴る音が、金属の階段を上がる音へと変わった。

音が、止まった。

あたしの前。
ドアを隔てた向こう側で。

甲で涙を拭うと、ドアノブに手を伸ばした。
ばくばくと心臓が身体中に鳴動し、緊張で指が悴んだみたいに上手く動かない。
それでも、どうにかゆっくりと鍵を外す。

カチッと、鍵が外れる音がその場に響いた。
きっとそれは、ドアの向こうにも聞こえている。

それなのに。
街の朝の音が微かに聞こえるだけで、ドアの向こうの気配は動かないまま。
あたしも、動けない。

目を瞑って、深呼吸をしながら、緊張した気持ちを整える。

そして瞼を開くと、ドアを開けた。

同時に見えた姿に、胸がぎゅうっとする。

見上げた瞳が合わさる。

すぐに触れられるほど、近くにいる。
今、あたしの目の前に。海斗が。


「ただいま」


そう言った海斗はふっと、柔らかい表情を見せた。


――不思議と。
さっきまでの涙は消えていて。
海斗がどんな答えを出すのかなんて、まだ分からないのに。
それでも目の前にいる現実に、苦しいよりも安堵感のようなモノのほうが大きく膨らんで。
あたしは、海斗に微笑み返した。


「……おかえり」


海斗は、あたしに小さく頷いた。
返された笑顔は、いつもよりずっと優しく見えて。
その瞳が、あたしを見つめてくる。

そうかと思うと、急に笑顔が消えた。


「オマエ、もしかしてずっと起きてたのか?」

「えっ……」


あっ、ヤバい!
服、昨日と一緒じゃん!


「ち、違うもんっ!
せっかくの料理が無駄になったから、ムカついてっ。
昨日はあのあと、そのまま布団に転がったら寝ちゃったんだもん。
だからこんなに早く目が覚めちゃったの!」

「……ふぅん」


ニヤニヤと、全て見越したように、海斗は笑う。


ヤダ、もう……。
全部、バレてそう……。
泣いてたんだもん、目も赤いよね。
ああ、顔だって、絶対にぐちゃぐちゃ……。


そんな顔をじっと見られているかと思うと、恥ずかしさで顔が熱くなった。
思わず両手で頬を押さえて俯く。

けれど顔を覆ったはずのあたしの手は、すぐに海斗によって外された。
ゆっくりと優しく、頬から下げられていく。

触れられた手は、大きくて熱い。

見上げた顔は、優しい顔に変わっていて。

海斗はあたしの手をぎゅっと握り締め、部屋へと引き込んだ。
そして、ドアが閉められる。

さっきから忙しない心臓は、海斗のそんな態度に更に動きを速めさせられる。


どうしよう。
ドキドキが止まらないよ。

どういうつもり?
何で手なんて取るの?
何で優しい顔なんてするの?


――あたしのところに戻って来てくれた嬉しさと、海斗の気持ちを訊く怖さ。


狭い玄関は、二人の距離を縮めていて、繋がれた掌の上の腕も触れ合って、そこから海斗の温もりを感じる。

手がぱっと離されて、海斗が靴を脱ぐのに身体を屈めると、ふわっと、煙草の香りが鼻を掠めた。
いつもと違う、ほろ苦いような香り。

未知花さんとずっと一緒にいたことの、残り香。

喉から頭の奥までつんと入り込み、息苦しくなった。
胸も、痛い。

あたしは、先に部屋に足を踏み入れた海斗の背中を見つめた。


「未知花さんと、会えた……?」


その言葉に、ぴたりと海斗の足が止まる。

ほんの、一瞬の、間。


「……うん」


背中を向けたまま、低い声がそう答えた。

緊迫した空気が、あたし達の間に音もなく流れて、海斗のその言葉の先はないまま。


それ以上何も言わないその背中は、こんなに近くにあるのに。
手を伸ばせば、すぐに届く距離なのに。
それなのに、あたしからは遠く感じられる。


ねぇ。
何で、それ以上言ってくれないの?
未知花さんとは、何を話したの?


僅かな時間がゆっくりと流れていくように感じる。
苦しくなって、あたしは唇を横に結んだ。


あたしが、そこまで深く訊くことが出来ないのを、きっと海斗は分かってるんだ……。
ズルイよ……。
ズルイ……。


「何でココに戻ってきたの?」


上目遣いに睨みながら、背中に尋ねた。

また、ほんの少しの沈黙が流れると、海斗は向こう側を向いたまま答えた。


「まだ。ゲームの勝負、ついてないしな?」


――え?


そう聞こえたかと思うと、すぐにあたしの方へと振り返った。


「飯食わせてもらう約束だし? つか、残ってる?
あー、マジで腹減った!」


拍子抜けするほど、調子良く大袈裟に海斗は言った。


「早く食わせて!」


はにかんだ、子供みたいな笑顔をあたしに向ける。


ズルイ。
マジでズルイ……。
こんなときに、そんな顔……。

これ以上、訊けないようにしてるんでしょ。
今、やっぱり未知花さんとのことを話してくれる気はないんだね。

だけど、だけど……。
その言葉は、これからあたしと一緒にいてくれるってコト、だよね?


「言っとくけど、失敗したから」

「えっ?」

「煮込み過ぎて形崩れまくり。
それでもいいんだったら、ドウゾ……」


少し拗ねたように言ってみせたあたしに、「マジかよ?」と、海斗は顔を歪ませる。
だけどそれは、すぐに楽しそうな顔つきに変わった。


「オマエらしーな」


クククっと笑う海斗は、いつも通りの少し意地悪な顔。
でも、そんないつもの態度に、ほっとする自分がいる。


「味は美味しいはずだもんっ」


あたしもいつも通りを装って、部屋に上がる。

そしてすぐにキッチンに向かって、肉じゃがの入った鍋に火を掛けた。
冷えた鍋底に炎が勢いよく当たり、かたかたと音を立て出す。


未知花さんの綺麗なケーキとは違う、形の崩れたあたしの肉じゃが。

あたしと未知花さんとじゃ、全然違うけど――。
でも……。


――『まだ。ゲームの勝負、ついてないしな?』


……うん。
それでも、いいよ。
あたしのこと、今は好きじゃなくても。
いくらズルくても。何も言わなくても。

それでも、今、海斗はあたしの目の前にいる。


たとえ海斗にとってはゲームでも。
今はまだ、傍にいたいの。

頑張りたいの……。

update : 2008.01.16