23

こういう時って、どうして時間の砂の流れはいつもよりゆっくりなのだろう。
流れ落ちずに、まるで誰かがそこで塞き止めてしまったみたいに。

片付けをして未知花さんと別れるまでも、電車に乗っている間も、夕飯の買い物をする時間も、スーパーからの慣れた帰り道さえ、いつもよりもずっとずっと遠く長く感じて。

腕からぶら下げた肉じゃがの材料達も、未知花さんのケーキも、足も、胸の奥も、重石をぎゅうぎゅうに詰め込んだみたいに、ひたすら重たくて。

あの時――久保さんに『甘いの大好きじゃん?』と言われてあたしから視線を外した海斗の顔と、未知花さんの固く決心したように言った顔が、交互に脳裏に思い浮かんで、消えてくれない。


海斗は――どうするつもりなの……?

わざわざウチに来る時間まであたしに確認したのは、時間をずらしてクラス会に出席したかったから?
それとも、未知花さんと会うのが怖いから、わざとあたしとの約束を確実にして、行けないようにしたの?


鍋の中でくつくつと小さな音を立てる肉じゃがは、柔らかな白い湯気と、醤油と砂糖の甘辛い香りを放っている。

いつもならそんな香りに誘われて、ひとくちふたくちと、口の中に放り込むはずなのに、ぐるぐると渦巻いたままの胃袋は受けつけてくれる余裕もない。

鍋底から湧き上がってくる沸騰された気泡の移り変わりを、あたしはぼんやりと立ったまま見つめた。


分かんないよ。
あたしはどうしたらいいの?
海斗は、あたしのところに来てくれるの?

それともやっぱり、未知花さんのところに行くの……?


掌をぎゅっと握り、テーブルに目を転じた。
さっき未知花さんからもらったケーキの箱が、そこで存在を主張している。


あのケーキが、未知花さんが作ったモノ、って聞いたら――海斗は、食べるのかな……?
いつも食べてた、って、未知花さんのスイーツは、海斗にとって特別なの?


あたしは見ていられなくなって、すぐに鍋に視線を戻した。


海斗は、そんなに未知花さんのことが好きだったの……?
今、も……?
まだ、忘れられない……?


ぽたりと、大きな雫が鍋の中に落ちて、熱い気泡を弾いた。


ヤバい……。


きゅっと唇を結んだけど遅くて。
大きな涙の粒が次々に滴り落ちていくのを止めるように、低い天井を見上げてから、固く目を瞑った。

頬に涙が、つうっと伝わる。

鍋音だけしかしない部屋の中にインターフォンの音が響いたのは、その時だった。

閉じていた筈の瞼を開く。


まさか……。
海斗……?


手の甲で目を擦って涙を拭うと、壁の時計を確認する。

――17:32
約束の時間にはまだ早い。

それなのに、あたしの足は玄関へと急いでいた。


開いたドアの先には、あたしの期待通りの人物が怪訝そうな顔で立っていて――。

視線が合わされると、その顔は口の端をほんの少し上げて意地悪そうに微笑んだ。


「匂いだけは美味そうだな?」


海斗のいつもの口調に、なんだか、どっと、身体の力が抜け落ちる。
安堵感と複雑な何かが、あたしからすうっと力を奪っていったみたいな感じがして、ドアに身体を寄せて、そこに凭れた。


「匂いだけじゃ、ないし」


あたしの口から勝手に出てくれる言葉は、相変わらず可愛くない言葉。
それでも、海斗はやっぱりそれが当然のように受け流す。


「じゃあ、それを証明してもらおうじゃん?
中、入れて?」

「どうぞ」


憎まれ口のようなやりとり。
だけど、こんな風のがあたしを安心させてくれる。

だって。
その言葉は、あたしの料理を食べに来てくれた、ってことでしょ?
クラス会になんて行かない、ってことでしょ?
未知花さんには会わない、って。


ドアに凭れるあたしを横からすり抜けて、海斗は部屋に足を踏み入れた。
それを見送るように眺めてから、玄関のドアを閉める。

ドアのロックをかける音が、かちゃり、とする。
その音を聞くと、ほっとしたせいなのか、小さな息が漏れた。

落とした視線を上げて振り返る。


えっ?


――ドキッとした。
目が合ったから。


何で、じっと見てるの?


「な、に?」

「目、赤くねぇ?」

「えっ……」


ヤバい。泣いてたんだった。
そんなに赤いかな……?


思わず、両手で頬の辺りを覆うように押さえる。


「これは……さっき、たまねぎ切ったら涙が止まらなくなっちゃったから……。
だから、まだ赤いのかも」


怪しい?
だけど、急すぎて他に何も思い浮かばないよ。


妙に心臓がドキドキと音を立てる。

海斗は返事をせずに、ほんの少しの間あたしを見つめると「ふうん」と、視線を向こうへとやった。


「あれ?」


海斗は不思議そうな声を上げた。


「オマエもケーキ買ってきたのか?」

「え?」


テーブルの上に置いてある未知花さんから貰ったケーキの箱に、海斗の視線は注がれていた。


「あれは……」


言いかけたけれど、その先がすぐに出てこない。
言い淀んでいる間に、あたしの両手の上へと強引に小さな箱が乗せられた。

軽くて、ほんのりと甘い香りがする。


「コレ……?」

「お土産」

「ケーキ?」

「そう。オマエ、好きだろ?」


胸がきゅうっとする。

しかも。
見上げた顔は、あたしに向かって優しく微笑むから余計に厄介。

こんな小さな優しさが、今のあたしには大きすぎるよ。

温かいモノが込み上げてきて、堪らない気持ちになる。


「まぁ、いっぱいあるなら好きなだけ食べればいいじゃん?
太って困るのオマエだし?」

「海斗は、食べないの?」

「………」


あたしの質問に、意地悪そうに上がっていた口元は下がって、表情から笑みが消え失せた。


「オレ、マジで甘いモノ好きじゃねーんだ」


困ったような表情から、苦笑いにそれは変わって、海斗はそう答えた。


やっぱり、好きじゃないって――
それは――……。


心臓がぎりっと捩じれたみたいに痛んで、温められたはずの気持ちは氷水に浸したように急速に冷えた。


「じゃあ……何で?」

「え?」

「何で、未知花さんのお菓子は食べてたの?
この間、みんな言ってたじゃん?
いつも、食べてたって……」


言葉尻が少しだけ掠れる。


もうここまできて、このまま訊かないでいるなんて出来ないよ。


海斗は、予想通り目を丸くして驚いた表情を見せた。


「何で、オマエが名前知ってんの?」


怒ったような、困ったような、それでいて苦しげな表情。
あたしはそんな海斗の顔を見て、またずきりと胸が痛む。


「麻紀さんから、少しだけ聞いた。
海斗が、凄く好きな人だったんでしょ……?」

「………」

「未知花さんが好きだったから、甘い物が苦手なのに、皆の前では好きな振りして食べてたの?」


押し黙る海斗に、追い打ちをかけるように訊いた。
訊きたくないのに、訊きたい、本当のこと。


くつくつと、鍋の中身が煮える小さな音だけが部屋の中に響いている。


海斗は、ふう、と、小さな溜め息を吐き出す。
そして一言、言った。


「そうだよ」


その言葉に、一瞬、息が止まった。
それなのに、心臓は壊れそうなほど、ばくばくと身体中に大きな音を響かせる。

簡素なその一言は、必要以上に大きな意味を表す海斗の昔の気持ち――。


「そんなに……好きだったの……?」

「……あの時は、な」


そう答えた海斗の表情は、やっぱり苦しげで。

あたしに嘘を吐いたわけじゃなかった。
でも、嘘だった方が全然マシだよ。
嫌いなものを好きな振りして食べるなんて。
そこまでするほど、彼女のことが好きだったなんて。


あたしの中の黒い物が、際限なく溢れ出してくる。
底のない沼みたいに、深い、深い嫉妬。


だってきっと。
あたしがケーキを作ったって、海斗は食べてなんてくれないよ。
それが分かり切ってるんだもん。


「今も、忘れられないんじゃない……の?」


不安と闘いながら、あたしは訊いた。

海斗はほんの少しあたしを見つめてから、視線を落とし、また息を吐き出した。
つい今しがた吐いた溜め息と同じ、空気に混じり合う静かな音で。

そして、あたしと目を合わさないまま答えた。


「そんな気持ちも分かんなくなるくらい、昔のコト、だよ」


――何、それ……?
分かんなくなるくらい?
どういう意味?
何で曖昧なの?


「意味、分かんないっ」

「分かるわけないだろ! オマエに!」


吐き捨てるように、冷たく言い放たれた。
瞬時に向けられた顔は、少し怒ったように眉が上がって、あたしを見据えた。


分かるわけないって――。
そんなの……。
確かにそうだけど……っ。


「それって、やっぱりまだ好きってことじゃないの!?」


思わず、大きな声が出た。


その言葉に海斗は、図星なんじゃないかと思えるくらい大きな瞳を瞬きもせずに見開き、あたしを見つめる。

緊迫した目つきで見つめ合い、また沈黙が二人の間に流れる。

先に海斗が、あたしから視線を外した。


「確かに、スゲエ好きだったんだよ」


どこか遠くを見ているように、海斗は言った。


「兄貴みたいな神原さんを裏切ってでも、アイツが欲しいって思ったよ。
アイツも、オレと同じ想いでいてくれてるんじゃないか、って感じてた。
だけど結局、何にも言わずに勝手にアイツはいなくなったんだよ。
わけ分かんないまま残された方は、たまんねーよ。
そんなんでさ、簡単に忘れられるわけないだろ?
いっそ、好きじゃないって、嫌いだって言われた方がよっぽど良かったよ。
好きだった気持ちは通り越して。忘れた、とか、そんなの気持ちさえ自分自身でも分かんなくなったんだよ」


少し目を細めて、眉根を寄せたその顔は本当に苦しげで。
あたしは何も言葉が出ない。

海斗の――強い気持ち。

訊きたかったけど、やっぱり訊かなきゃ良かったなんて――。
もう、今更、遅い……。


「ゴメン。
とにかく、もう昔のコトだから」


――昔のコト……。

そう言う海斗は少しだけ口元を上げて見せたけど。


だけど。
海斗の中ではきちんと終わってなんていないじゃん。
スッパリと綺麗に忘れられてるなら、そんなに苦しい顔なんてしないでしょ?


押し込めていた感情が、無理矢理に隙間を割って出てきて、止めたくても止められない。

自分でも馬鹿だって、思う。
けれど、頭で考えるよりも先に、言葉が出てしまった。


「未知花さんは、海斗のこと、今でもまだ好きなんだよ」

「何だよ、それ」

「菅野くんのウチで新しくオープンするお店があって。
この間の日曜日、スイーツの試食を頼まれたの。意見が欲しいって。
そこで商品開発をしてるパティシエが、未知花さんだったの」

「は? 菅野の店? パティシエ?」

「さっきも会ったんだ、彼女と。
その時に言ってたの。高校を卒業してからも、ずっと忘れられなかったって。
帰ってきたのは好きな人に会うためだって。
それ、海斗のことだよ」

「――……っ」


海斗は言葉を詰まらせる。
ほんの少し口を閉ざした後、舌打ちするように小さく言った。


「今更過ぎるだろ……」


ぐしゃぐしゃっと、苛ついたように頭を掻きむしると、大きな溜め息が吐き出される。
いつもはピンとした広い背中が少し丸くなって、海斗の内側の葛藤が表されていた。
そんな姿に、また胸がぎゅっと痛くなる。

それなのに。
口からはまた勝手に言葉が吐き出される。


「未知花さん、今日のクラス会で海斗に会うって言ってた」

「……え?」

「海斗が今日、クラス会に行かないであたしのところに来たのは、未知花さんに会うのが怖いから……?」

「………」


黙ったまま、海斗はあたしを見つめる。

答えられないのは、そういうこと。
それが、海斗の、答え――。


「行ってきなよ。
ちゃんと、自分の気持ち、確かめてきなよ。
海斗が、それほどまでに好きだった人でしょ?」

「オマエは……それでいいのかよ?」

「いいも悪いもないでしょ?」


そこで一旦、言葉が詰まった。
喉が大きな何かに圧迫されて苦しい。
それ以上の言葉が、なかなか出てくれない。

だけどそれを押し出すように、震える唇で言った。


「あたし達、最初から恋愛感情なんてないんだから」


はっきり言えるとすぐに、今にも滲み出そうな涙を堪えるために、奥歯を噛み締めて唇を横に結んだ。

最後の言葉をかけるために、瞼と掌を一度ぎゅうっと、固く閉じて力を入れた。


「だから、会ってきて」


声を絞り出して、海斗の背中を強く押した。


「………」


返事がない。
背中に触れている掌から、海斗の中の葛藤が伝わってくる。
ドクドクと速い、心臓の鼓動。


海斗が、あたしの方を向かなくて良かった、と思う。

だって、もう、限界で。
視界が滲んできたよ。

これ以上何か言葉を発したら、絶対に溢れて止まらなくなっちゃうよ。

未知花さんのところになんて、行って欲しいわけがない。

だけど。
知らない振りして二人を会わせないようにするなんて、あたしには出来ないよ。

未知花さんは、もうすぐフランスに帰っちゃうし。
海斗が未知花さんと会わなかったことに、後悔なんてして欲しくない。

それにきっと、黙っていたら、あたし自身も絶対後悔したと思うから。


今、あたしの掌にある海斗の温度。
そこから離れて欲しくないと、身体の奥で泣いて叫んでいるのに。
それはそう思った瞬間に、簡単に消えてしまった。


「……行ってくる」


俯いて顔の上げられないあたしの頭上から、海斗の声が降ってきた。
目の端に映っていた海斗の姿も、すうっとなくなった。

玄関のドアの重たい音が、部屋中に耳鳴りのように虚しく響き渡る。

その閉められたドアの向こう側から、微かに海斗の足音が聞こえて。
ゆっくりと金属の階段を下りる音が、途中で速められたのまであたしの耳に届いた。


――行っちゃった……。

やだ。
やだ、やだっ!

ホントのホントのホントは――行かない、って言って欲しかったのに!


「……っ」


声にもならない声が食い縛った歯の隙間から漏れると、急激に身体中の力が消え失せたように膝から崩れ落ちた。

フローリングに鈍くその音が立てられたのに。
その痛みさえ、胸の痛みには勝てなくて。


もう、やだ……。
馬鹿じゃん、あたし……。
きっと、海斗は戻ってなんてこないよ……。


堪えようと抗う気持ちに反して、ぼんやりと少しずつ視界が滲んでいく。
頭の中まで一緒に霧がかかったみたいに、意識も霞む。

ぽたり、と。膝の上に一粒温かいものが零れ落ちたのを感じると、ぶわっと涙が膨れ上がった。
その温かさがリアルで、心の弱い部分を撫でられて刺激を受けたみたいに――。

もう、止まらなくなってしまった。
さっきまで抑え込んでいた全部。
塞き止められていたものが決壊したみたいに、一気に流れ出て。

止め方も分からない涙と、嗚咽だけが唇から漏れていった。

update : 2008.01.09