22

「菅野くんに乗り換えもアリだね」

「絶っ対、言うと思った」


瑞穂の軽い言葉に、あたしとミカは申し合わせたように呆れ口調で揃えて言った。
けれどそんな態度にものともせず、瑞穂は頬杖をついて楽しそうに微笑む。


「えー。だって、実家があの有名なフレンチレストランのオーナーなんてさぁ、玉の輿じゃん?
その上、優しいし男前だし。
菜奈のこと、気に入ってるしさぁ」

「だからっ。あたしが好きなのは海斗だし!」


月曜日の瑞穂とミカとのランチは、案の定、あたしの相談がメイン。
本気で悩んで落ち込んでいるのに、瑞穂は相変わらずだ。
ちゃんと分かってんのかな、とか、時々思う。


「で。肝心の海斗くんから連絡きたの?
菅野と会ったあとに」


パスタをフォークに絡めながらミカが訊いてきた。
でも、答えはどうも分かっているような顔つきをしている。


「きてない、よ」


きっと予想されている返答そのままを、仕方なく答える。
瑞穂とミカが『やっぱりね』という意味で顔を見合わせると、余計にズンと重たい気分にさせられた。


……やっぱり。
あたしと菅野くんのことなんて、少しも気にならないのかなぁ、海斗は。


「その、福島さんだっけ?
あたしが下の名前、菅野に訊いてあげようか?
そうしたらハッキリするじゃん、海斗くんの好きだった人かどうか」


フォークに綺麗に絡めたパスタを口に運びながら、ミカが言った。
あたしは小さく首を振る。


「ううん。
自分で本人にちゃんと訊こうと思う。
何か、人づてなのも嫌だし」

「そういうトコ、やっぱ変に真面目だよねぇ、菜奈は。
どの道、海斗くんみたいなタイプは菜奈に向かないんだよ。
自分でちゃんと、分かってんの?」


ミカはまるで何かに怒っているように言った。


菅野くんも言っていたように、ミカは海斗とのことをあまり歓迎してないみたい。
もちろん、あたしのことを心配して、なんだろうけど……。


あたしは、持て余した気持ちを拭うように、グラスに付着した水滴を指でなぞって言った。



「分かってる、よ。
それでもしょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから」


ちらっとミカを見て、アイスコーヒーに手をつけた。
食前にテーブルに運ばれてきたグラスは、既に中の氷がとけかかっていて、カランと小さな高い音を立てた。
ミカの溜め息が、その音と混ざり合った。


「菜奈がそういう気持ちになっちゃったなら仕方ないけどさ。
それなら、菅野のペースに上手く乗せられないようにね」


――菅野くんの?


「だから、菅野くんはあたしのこと、別に本気じゃなくて……。
海斗とのことも、協力してくれるって」


異論を唱えるように言うと、ミカは眉間に皺を寄せ渋い顔つきを見せた。
それに示し合わせたように、瑞穂がまた意味ありげな顔つきでにやりと笑う。


「菜奈はさー、結構鈍いからね」

「はぁ?」


瑞穂の言葉に思わず反応して変な声が出ると、テーブルの上に置いてあったあたしの携帯が鳴り出した。


――着信、菅野くん


携帯を覗き込んだ瑞穂とミカは、ディスプレイの表示を見て「噂をすれば、だね」と茶化すように言った。


だから。
違う、って、言ってるのに。


そんな瑞穂とミカを横目に電話を取った。
何だか二人の前だと会話しにくいけど、仕方ない。


「もしもし」

『菜奈ちゃん? 菅野だけど、今大丈夫?
昨日はありがとうね』

「うん。こちらこそ、ご馳走様でした」

『あのさ、土曜日なんだけど、俺、どうしても行けなくなっちゃって。
福島さんと二人でも平気かな?』

「え……っ」


福島さんと二人!?


あたしの戸惑った反応に、受話器の向こうから申し訳なさそうな声が言った。


『あー、やっぱり、俺がいないと行きづらいかな?』


それは、そうなんだけど……。
一度引き受けたのに、今更行きたくないなんて言えるわけもないし。
大体、まだ福島さんが未知花さんだって決まったわけじゃないし。
菅野くんがいないと行けないなんて言ったら、それこそ瑞穂とミカに何か言われそう……。


「大丈夫だよ」


複雑な心境のまま、答えた。
自分に言い聞かせているようにも感じる、その言葉。


『ごめんね。
大宮にウチのブランドの新規店舗がオープンするんだけど、オープニング準備の手伝いが足りないから、担当外の営業も何人か休日出勤で出てくれって言われて。
昼前くらいからなんだけど、時間もそんなにないし』

「そうなんだ?」

『元々は、俺からお願いしたのに、ホントにゴメン』

「気にしないで。
大丈夫だから」

『ああ、そういえば、その日って、午後に海斗と約束でもしてるの?』


ドキッとした。
海斗との、約束――。


「うん……」

『アイツ、その日はどうしても用事があるからって、仕事断ってたから。
もしかして、菜奈ちゃんと何か約束でもあるのかと思って』


海斗が?
嘘……それってもしかして、あたしとの約束のため……なの?


「ホ、ホントに?」

『うん。
なんやかんや言ってもさ、結構海斗も菜奈ちゃんのこと、大事に思ってるのかもよ?』


――そうなら嬉しいんだけど。


菅野くんの言葉に、気分はほんの少しだけ軽くなった。
あたしとの約束を本当に大事に思ってくれているなら、どれだけ嬉しいか。

やっぱり、色んなことを気にし過ぎなのかもしれない。


だけど――。
そんな気持ちを持とうといくら思っても、今のあたしには不安な気持ちは全部拭い去れなかった。












――海斗は。
あの約束をした日から、やっぱり電話もメールも一つだってよこさなかった。

そういうのにマメじゃないのは、分かってるんだけど。
こんなにもやもやした気持ちのままで会うまでの日々を過ごすのは、あたしにとっては不安が募って苦しいだけだった。
菅野くんとの話のこともやっぱり気にならないんだ、とか、思い知らされたようで……。

そう思うのに、自分から連絡を取ることができなかった。
我慢して強がってる自分って馬鹿、と思うのに。
かけてきてくれるんじゃないか、って、どこか期待もあって。
そんな小さな希望は、簡単に裏切られることも、分かってるのに。



店の入り口まで来ると「お待ちしておりました」と、黒い制服をパリッと着こなした店員が、オーク材の重厚なドアを引き開けてくれた。
まだこの時間は開店準備中らしく、中へ先だって案内をしてくれ、あたしは少し後ろをついて歩いた。

通された店内の廊下の窓から、つい今しがた通り過ぎてきた庭園が垣間見えた。
そこから見える景色は、先週と少しも姿を変えていない。
都心にあるとは思えないほど、静寂を保っている。

ふわり、と。赤い薔薇の花びらが、南風にさらわれるように舞っていった。
ガラス越し――青い空に、浮かぶ真紅。
それは瞬く間に消えてしまった。


福島さんが未知花さんじゃないかというあたしの中の疑念は、あれからずっと晴れないままだ。

写真の顔が似てる、とか、フランスに行った、とか、ご両親の離婚で名字が変わってるかもしれない、とか――当てはまる部分も多いし。
だけど、それを否定したい自分もいるんだ。
そんな偶然があるわけない、とか、写真だってちょっと見ただけだし、ただ何となく似てるだけじゃないかな、とか――。
そんな思いがぐるぐると続いていて、堂々めぐりで。

だけど――。
ちゃんと、今日は。
名前を訊いて、彼女かどうかハッキリさせたい。
それでどうなるわけでもないけど。
それでもこんな気持ちでいるよりは、いくらかマシだ。


考えている間に、厨房の前へと辿り着いた。
案内をしてくれた店員にお礼を言い、そっと中を覗くと、彼女は真剣な顔つきで調理台の上のケーキと向き合っていた。

これから二人きりの時間を過ごすことに、緊張が走る。
息を飲む込み、あたしは思い切って厨房に踏み込んだ。


「福島さん」


声をかけると、彼女は動かしていた手を止め、嬉しそうな顔でこちらに振り向いた。


「菜奈さん!」

「こんにちは。お邪魔します」

「ありがとう、来てくれて!」


彼女の笑顔をみたら、何故かほっとした。
そういう不思議な力がある、人を惹きつけるような笑顔。


特別な言葉もなく、当然のように自然にあたしたちは試食と改善の作業を始めた。

来る前はあんなに考え込んで憂鬱な気分だったのに。
始まってしまったら、そこに集中して、そんなことを考えるなんて忘れていたくらいだった。

先週より数段、見た目も味も良質に変化を遂げたスイーツ達。
彼女の手から生み出されたそれは、やっぱり彼女そのものを表しているように思えた。
美しく、柔らかく、繊細で、口に含むと甘く満たされて――。


時間はあっと言う間に過ぎて、一段落ついた頃にはお昼をとうに回っていた。
結局、名前も訊けていないままの状態だった。





「遅くなっちゃったけど、時間大丈夫?
ごめんなさい。もしかして、何か用事とかあった?」


使い終わったお皿やボウルを流しに運びながら、福島さんが言った。
あたしも片づけを手伝おうと、台の上にある使用済みのお皿を重ね合わせる。


「ううん、大丈夫。
用事はあるけど、夕方からなの」

「良かった。
あ、そっか。土曜日だしね。もしかしてデート?」


ドキッとした。
その振動で、手に持っている重ね合わせたケーキ皿が、カシャッと小さな陶器の音を響かせた。


「デート……ってゆーか、夕飯、ウチに食べに来るの」


あたしの答えに、にっこりと福島さんは微笑む。


「そっか、いいなぁ。
尚貴くん、幸せね」


ええっ!?
違うんだけど!


「菅野くんは――」

違うの、と、口から出かかったけれど、そこで一度言葉を飲み込んだ。


先週、菅野くんのお父さんの前で恋人の振りをしたことは、福島さんにも内緒なの?


言うか言わないか悩んでいると、福島さんは少し遠い目をしながら言った。


「好きな人が自分のこと、好きって想ってくれることって……実は凄いことよね……」


その顔は凄く切ない顔つきで――。
あたしの胸に、重くその言葉が圧しかかる。


好きな人が自分のこと、好きって想ってくれること――。
本当にそうだ……。

あたし達は……そんな関係になれるのかな……。


「福島さんは、彼氏、いるの?」


ドキドキした。
探っているような自分に嫌悪感も込み上げる。
名前さえ、結局まだ訊けていないのに。


一瞬、福島さんは曇った表情を見せた。
けれど、すぐにあの笑顔へと戻った。


「彼氏なんて、もうずっといないわ」

「え……?」

「高校卒業してからずっと。
ふふっ。寂しい人生でしょ?」


ドクドクと、あたしの心臓は不穏な動きを見せ始める。


高校卒業してからずっと、って――。


あたしは何でもない素振りで、ありふれた当たり障りのない言葉を探す。


「福島さん、凄く綺麗だし、フランスでもモテるでしょ?」

「全然よ。それに向こうではスイーツに専念しててそれどころじゃないし。
女一人でやっていくのも結構大変なのよ。余裕なんかなくて。
たまに寂しくなるわ」

「でも……菅野くんが、この間好きな人がいるって言ってたよね?
その人は……?」


あたしの質問に、彼女は瞳を伏せて黙り込んだ。
ごくっと、自分の息を飲む音が響いた気がした。
彼女に聞こえてしまったのではないかと思うと、福島さんは視線を少し上げた。


「馬鹿みたいなのよ、私。
高校の時好きだった人がまだ忘れられないの。
もう、五年も経つのに」

「え……」

「馬鹿みたいでしょ?
いい加減、忘れなきゃと思うんだけど、ね」


そう言って、福島さんは自嘲した。


高校の時に好きだった人――。


嫌な予感は一気に高まる。
片付けの手も足も、そこでピタリと止まってしまった。


「会いに、来たの……?」


あたしのその質問に、彼女は一瞬だけ躊躇した表情を見せたけれど、薄い笑みを浮かべて一言、答えた。


「……うん」


ドクン、と、また大きく心臓が鳴った。


何でこんなに嫌な予感がするの?
まだ、彼女が未知花さんだと決まったわけじゃない。

それなのに、更に心臓の動きは速まって、あたしを苦しくさせる。

黙っていると「会いに来たんだ」と続けて彼女は言った。


「親の離婚話で、って言うのは口実っていうか……結局は帰ってくるきっかけが欲しかっただけなの。ずっと会う勇気が出なかったから。
きっともう、彼はあたしのことなんて何とも思ってないと思う。
それでも、やっぱり自分にケジメをつけたくなったの」


ハッキリとした口調と、凛とした顔だった。
それは彼女の強い意志に見えた。


「未知花……さん?」


思わず口を割って出てしまった。

ハッと気付いた時には、彼女は不思議そうにあたしを見つめて、次の言葉を紡いでいた。


「私、名前言ってたっけ?」


彼女はにっこりと微笑んだ。


ああ。やっぱり――。

そうだって、予想していた。
だけど、違っていて欲しいと強く願う自分がいたのに。


彼女が未知花さん。
海斗が唯一、好きになった人。

そして、彼女は今も海斗のことが忘れられなくて、会いに来たなんて――。


「菅野くんが、そう呼んでたから」


喉の奥に痞えていた塊を飲み下して、どうにも回らない頭を働かせながら言った。


「あっ、そっか。
せっかくだから名前で呼んでね。
私も菜奈さん、て呼んでるし」

「……うん」


声が震える。
どうしよう、普通にしなきゃ。
変に思われる……。


ふらついた気持ちを立て直そうと、ぎゅっと掌を握り締めると、彼女が言った。


「あっ、そうそう。今日、尚貴くん来るんでしょ?
良かったら余ったケーキ、持って行かない?」

「えっ?」

「試作品で申しわけないけど、一緒に食べて」


一緒に――?


甘い物が苦手なはずの海斗が、昔食べていた未知花さんのスイーツ。


「うん。ありがとう」


断ることも出来ず、そう言って、無理矢理に口の端を上げる。


棚からケーキ箱を取り出した未知花さんは、何の気なしにケーキを詰め始めた。
ひとつひとつ、未知花さんの手によって箱の中に収められていく様を、ただ見つめた。


「尚貴くんって、ケーキとか好きなの?」


最後の一つが箱の中にきっちり収まると、未知花さんはケーキからあたしへと視線を移した。
何の疑いもない、あの柔らかい笑顔で。


「えっ? ああ、うん」


思わず、そう、適当に答えてしまった。
未知花さんは、ケーキ箱の蓋に指をかけ、かさかさと紙折る音が立つ。
箱の両脇の爪がきっちりとはまると、音がなくなった。
彼女の指も、止まった。


「私の好きな人も――甘いものが好きなの。
昔ね、私が作ったお菓子、いつも食べてくれてたの。
失敗しても、それでも全部食べてくれたことが、凄く嬉しかったんだ」


彼女は、懐かしそうに少し目を細めて話した。
それは本当に彼女の想いが伝わってくるもので、そんな表情が可愛らしく、愛おしくさえ見えた。


――甘いものが好き。


「そ、そう……」


平静を繕って答えた。

だけど、ちゃんと笑えてるかな、って、自分じゃ分からないよ。
本当の海斗も、分からないよ。


それ以上言葉が出ないでいると、彼女はハッとした顔をした。


「あっ、ごめんね。
こんな自分の話ばっかり」

「ううん」

「菜奈さんって、不思議と話しやすくて。
誰かにこんな風に吐き出したかったのかもしれない」

「うん」

「日本の友達とはずっと会ってなくて……」

「そうなんだ……?」

「フランスに行ってから、一度もこっちに帰ってこなかったから。
ちょうど、クラス会もタイミング良くあるって聞いて。
彼にもだけど、皆に会うのも今日、五年ぶりなの」


えっ?
今、何て?


「今日?」

「うん。今日、夕方からクラス会があるの。
そこで、彼に会うんだ」


――嘘。
今日?
クラス会?
会うって――?

だって、あたしとの約束が――。


「会って、自分の気持ちもハッキリしたいの」


彼女は、固く決心したような顔つきで言った。

あたしは、次の言葉が出なかった。
――出せなかった。


海斗が仕事を断ったのは、あたしとの約束のためじゃなく、未知花さんと会うため――?


視界が狭まるように一瞬目の前が暗くなって、眩暈がした。
ぎゅうっと締めつけて痛む胸を押さえて、あたしは宙に浮いたようにふらつく足もとに力を入れる。

大きな不安は更に身体の奥からあたしを蝕んでいった。

update : 2007.12.31