21
「こんにちは。福島です」
歌うように名前を綴り微笑む彼女は、写真の中の未知花さんと似ていたから――。
だけど、まさか……。
そんな偶然ってある!?
まだ幼さを残していた、高校生の頃のあの写真。
でも、目の前に立つ笑顔の彼女は、もっとずっと大人の女性だ。
長い黒髪を一つに束ね、真っ白なコックコートにエプロン、コック帽が清廉とした雰囲気の彼女によく似合っている。
ハッキリした顔立ちはナチュラルメイクなのに、それがかえって彼女の美しさを引き立てて見せ、薔薇のような鮮やかで艶のある唇が、落ち着いた中にも妖艶さまで共存させている。
言葉も出せず、そこに立つ彼女をただ見つめる。
彼女は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐにそれを柔らかな笑顔に変え、言った。
「どんな小さなことでもいいから言って下さいね。
それが商品向上に繋がりますから」
「……はい」
一言は返せたものの、やっぱりその先は何かを言っていいのかさえ分からずに、あたしは黙り込んでしまった。
そんなあたしの前に、福島さんは三種類のケーキが乗ったお皿をすっと差し出してきた。
視線が奪われた。
こんな形のケーキは初めて見る。
艶のある渋皮がついた大粒の栗の乗せられたモンブランは、上から見るとハートの形。
柔らかそうな生クリームがツノを立てたドロップ形ケーキは、リボンを形取ったチョコレートに、アクセントカラーのラズベリーがポイントになっている。
ピンクとオレンジのグラデーションになっているムースケーキは、オレンジ、キウイ、イチゴ、パイナップル、ブルーベリーと色鮮やかに装飾され、とにかく色彩が美しい。
「凄く、綺麗……」
数秒前までのことを掻き消してしまうほどの見事なケーキに、見とれて呟いた。
目を惹く可愛いデザイン。
女の子はきっと、こういうのって、好き。
ぼーっと見とれていると、福島さんが言った。
「少しずつ食べてみてくれますか?」
「あっ、はい。いただきます」
慌ててフォークを手に取る。
崩して食べるのがもったいないな、と思うくらいの完成された美しいケーキ。
それは口に入れても同じ印象だった。
広がる甘さは繊細で、上品でいて食べやすく、舌がとろけるほど美味しい。
まるで作品そのものが、彼女を表しているように思えた。
「……美味しい」
思わず言葉を零したあたしに、彼女はただ嬉しそうな笑顔を見せた。
正面に座る菅野くんも、あたしの反応に満足したように微笑んだ。
お店のケーキを褒められれば、嬉しいのは当然なのかもしれない。
「菜奈ちゃんって、本当に美味しそうな顔するよね」
「え? あ、うん。そうかな?」
「可愛いなぁ」
ええっ!?
口に運ぶ途中のフォークを持つ手が止まる。
そんな風に言われたら、食べられないんだけどっ。
て、ゆーか。
やっぱり菅野くんってあたしのこと、からかってない?
福島さんは、微笑ましいとでもいった感じの笑顔を浮かべているし。
何だか誤解されてそう……。
未知花さんにそっくりな彼女にそう思われることは、あたしにとってはあまり良い気分ではない。
昨日の麻紀さんの言葉が思い出される。
神原さんとの関係を壊してでも、未知花さんを選ぼうとした海斗――。
「えーと、菜奈さん?
場所、移してもいいですか?
良かったら厨房の方で、意見を聞きながらアレンジしたいの。
これ以外の種類もあるから、それも試食してもらえますか?」
あたしの変わった様子に、福島さんも菅野くんも気付かないようで、「じゃあ、厨房に行こう」と、席から立ち上がった。
『菜奈さん』と、あたしを呼んだ彼女。
名前さえ名乗っていなかった自分に気が付いて、恥ずかしくなった。
溜め息が漏れそうなのを飲み込んで、あたしも席から立った。
菅野くんはエスコートするようにあたしのすぐ横に来ると、耳元に口を近づけて、囁くように言ってきた。
「菜奈ちゃん、ここからが本番だから」
「本番?」
「話、合わせてね」
「うん?」
本番、って、それは沢山試食するから、ってこと?
福島さんと菅野くんの後に続いて従業員用の入り口を潜ると、落ち着いた店内からは想像し難いくらい忙しそうに動き回るスタッフ達の姿があった。
ちらりと見えた厨房は、調理台に白いお皿がずらりと並び、シェフの手の中のフライパンからはフランベの赤い炎が音を立てて上がっている。
その脇を通りぬけ、更に奥の小さな厨房へと通された。
「わぁ。厨房なんて初めて」
初めて入る厨房に感動して、不躾にもぐるりと見回す。
真ん中にある作業台の上には、出来上がっているケーキ達が顔を揃えるように沢山並んで目立っていた。
入って左側にはステンレス製の背の高い業務用冷蔵庫と流しにレンジ。
右側には如何にも本格的な大きなオーブン。
作業途中らしきボウルや、生クリームのホイップ。新鮮な色を見せる生のフルーツも山盛りになって置いてある。
ふふっと、小さな笑い声が聞こえて、はっとして、その笑顔の持ち主の顔を見やる。
「あ、ごめんなさい。尚貴(なおたか)くんの言う通り、可愛い人だなって。
どうぞそこに掛けて下さい。今、用意しますね」
にっこりと微笑んで言う彼女は、あたしよりもずっとずっと大人に見える。
あたしはまた自分の子供っぽさに恥ずかしくなった。
自分の道を進んで、極めて、頑張っている彼女。
夢もないままOL生活をしているあたしとは、全然違うと思わされる。
「あ、尚貴くんもどうぞ座って下さい」
「はいはい」
福島さんは、菅野くんにも丸いパイプ椅子を手で指して座ることを促した。
『尚貴くん』って、菅野くんのことか。
そういえば、合コンの時に貰った名刺に書いてあった気がする。
「菜奈ちゃん、座って?」
にっこりと、菅野くんにも座るようにと促される。
「ありがとう」と椅子に腰かけようとすると「尚貴」と低い声が聞こえた。
声のする方へ振り向くと、入り口には上品そうな黒いスーツに身を包んだ、すらっとした中高年の男性が立っていた。
一瞬で菅野くんのお父さんだと分かるくらい、彼と雰囲気も顔つきも似ている。
「ああ、親父」
菅野くんは、その場で男性の方だけ向いて言い、あたしはやっぱり、と思って、屈みかけた身体を正した。
「こんにちは。お邪魔してます」
挨拶をして下げた頭を戻すと、菅野くんのお父さんの視線は舐めるようにあたしを見ていた。
菅野くんと似た細めの目は鋭くて、組んだ腕からは見定められているような気もした。
……あれ?
あたし何か感じ悪い態度だったかな……?
上から下まで見られた後、菅野くんのお父さんは、すっとあたしの前に立った。
「君は?」
「あっ、すいませんっ。
工藤菜奈です。菅野くんの――」
『友人です』と言うつもりが、その言葉は本人によって遮られた。
「俺の彼女」
――えっ!?
一瞬、何が何だか理解が出来なかった。
菅野くんのお父さんが「彼女?」と怪訝そうな声で聞き返したところで、ようやくその言葉を頭が理解する。
……彼女って!?
どういうこと!?
どう答えていいのやら、困惑して菅野くんへと顔を向けると、目配せするようにあたしにウインクしてきた。
それって、話を合わせて、って意味!?
さっき、話合わせてとか、ここからが本番だとか、それってもしかしてコレのこと!?
や。もしかしてじゃなくてそういうことだよね?
な、なんか、上手く嵌められた気がするのって気のせい?
引き攣っているだろう笑顔を、菅野くんのお父さんに向けるしかなかった。
そのあたしの笑顔は予想通り無視され、逸らされた視線はそのまま菅野くんへと冷ややかに向けられた。
緊迫した空気がぴんと張り詰めた。
誰も言葉を発しない中に、カチャカチャと向こうの厨房の音や声が流れ込んでくる。
そんな張りつめた中で、菅野くんだけはまるで何も気にしていない澄ました顔をしていて、それは父親を故意に煽っているようにも感じた。
二人の様子を見ているだけで、巻き込まれたあたしとしては、きりきりと胃が痛んで、脈拍が上がった。
何かあたしから話しかけた方がいいのかな、とも思ったけれど、やたらなことは言えないから黙ったまま我慢した。
沈黙が随分と長く感じる。
視線の行き場にも困って床に落とすと、菅野くんのお父さんの靴が視界の端で動いた。
「どうぞごゆっくり」
あたしに対して冷たく突き放すような言い方だった。
言葉の最後が発音された時には、既に後姿になっていた。
厨房の入り口から出ていく姿をその場でただ見送り、見えなくなると、一瞬でも恋人のふりをしたあたしは、どっと疲れが湧き出たみたいに大きな安堵の息が漏れた。
「ごめんね、菜奈ちゃん」
確信犯、という顔つきをみせながらそう言う菅野くんを、上目遣いで睨んだ。
「もう……っ。
このことだったの?」
「だってさー、最初から言ったら引き受けてくれなかったでしょ?」
「そうだけどっ。
酷いよ、さっき――」
『海斗とのこと協力してくれるって言ったのに』と言おうとして、ハッとしてそこで口ごもった。
福島さんが、もしかしたら未知花さんではないか、という疑念が過ったから。
もし、彼女が未知花さんだったら……。
こんな曖昧な関係のあたし達のことなんて、知られたくない。
あたしは口を噤んだまま、椅子にすとん、と、腰を下ろした。
すると「ありがとう」という高い声が頭の上から聞こえた。
「何だか助かっちゃった」
その声の方を座ったまま見上げると、福島さんはほっとしたような笑顔を見せた。
――ありがとう、って?
不思議に思っていると、菅野くんもあたしの隣の椅子へと腰を下ろした。
そして、彼はテーブルに頬杖をつきながら言った。
「親父はさ、福島さんと俺をくっつけたかったワケ」
――え?
「くっつけたかった?」
疑問符をつけたあたしの言葉に、菅野くんは渋く笑って見せた。
「福島さんの作るスイーツを絶賛しててさ、ウチの店に引き込みたいんだよ。
兄貴はもう結婚してるから、俺とくっつけちゃおうって魂胆。
俺が店に関わってなくても、福島さんと上手くいけば、店に入らざるを得ないだろ?
ミエミエなんだよなー」
「ちょ……っ、それであたし!?」
「だから、ごめんねー、って」
菅野くんは悪びれた様子もなく、片手を顔の前に立て、ごめんね、の仕草をして微笑む。
「それにさ、福島さんも好きな人がいるからさ。ね?」
菅野くんはそう言うと、あたしから福島さんへと確認を取るように視線を移した。
どきっとした。
――好きな人……。
あたしも思わず福島さんをみつめた。
「いえ、あたしの場合は……」
二人の視線を一気に浴びた福島さんは、少し困ったように苦笑いをして、そこで口ごもった。
そしてすぐに、「時間もないんで、作業を進めましょう」と、あからさまに話を切った。
それ以上の話をしたくないのは取って分かった。
もちろん、初めて会ったあたしになんて、そういう込み入った話なんてしたくないのも分かる。
あたしはそれ以上の話に興味があったけど。
菅野くんももうその話に触れず、福島さんが未知花さんなのかも分からないまま、落ち着かない時間が始まった。
けれど三人とも同じ年のせいか、初めは敬語だった関係も、簡単に打ち解けてしまった。
話も合うし、明るい性格の彼女は、女のあたしにとっても凄く魅力的な女性。
そしてその時間は、自分が思っていたよりも、ずっとずっと楽しかった。
いくつもの種類のスイーツ達は、どれも物凄く美味しいし。
何か意見を言えば、小さなことでもすぐにそれを改善するために実行してくれる。
飴細工やチョコレート細工、フルーツの飾り方ひとつひとつ、彼女の細くて長い指が織り成す技は、マジックやショーを見ているように華麗で美しい。
彼女のスイーツに対する情熱やこだわりが、全てからひしひしと感じられた。
あたし自身、こんな風に商品開発に関われることも楽しかった。
彼女の手で次々に改善されていくそれは、ひとつ何か加えるだけでもかなりの変化をもたらせる。
それが自分の意見だと思うと、体中に漲るような充実感も湧き上がって、凄く嬉しかった。
そんな時間を過ごすにつれ、福島さんが未知花さんじゃないか、なんて疑念はどこかにいってしまった。
考えてみたら、そんな偶然が簡単にあるわけがないし。
名字だって違うし。
昨日もあんなことがあったから、考えすぎてるんだ、あたしってば。
楽しかった時間はあっと言う間に過ぎた。
この時間が終わるのが名残惜しいとさえ感じられるくらいだった。
最初こそ色々あったけれど、貴重な体験が出来て、菅野くんにも福島さんにも感謝の気持ちでいっぱいだった。
「菜奈さん、ありがとう」
お店の入り口まで見送ってくれた福島さんは、あたしに笑顔を向けて言った。
その笑顔は、心の底からの感謝の意を感じられるもので、彼女の人柄が滲み出ているな、なんて思う。
あたしも心地良くなって、笑顔で答えた。
「いえ、こちらこそ。すっごく楽しかった。
それに美味しいケーキ、沢山食べさせてもらっちゃったし」
そう言うと、あたしの隣に立つ菅野くんも嬉しそうに微笑んだ。
「菜奈ちゃん、本当にありがとう。迷惑じゃなかった?
これ、バイト代」
菅野くんが、小さな白い包みを差し出してきた。
「えっ? バイト代なんていらないよ!」
「そういうわけにはいかないよ。
それに俺からじゃなくて、店からだから、受け取って貰わないと困る」
困ったように優しく微笑む菅野くんに、あたしはかぶりを振った。
「ううん、受け取れない。
だって本当に楽しかったし!
こんな風に商品開発のお手伝いが出来るなんて、普通じゃできないし!
何かね、嬉しかったの。自分の意見をすぐに反映させてくれるなんて。
それで福島さんのスイーツ達がどんどん変わって、良くなっていってくれることも。
目の前で変わっていくのを見て、凄く充実感があって。
だから、あたしからもありがとうって言わせて」
「本当?」
「うん。本当に」
あたしがそう答えると、福島さんは子猫のように目を細めて人懐っこい笑顔を見せた。
「じゃあ、もし良かったらもう一日付き合ってくれるかな?」
「え? もう一日?」
「うん。あと数種類作りたいし。
それに今日のものも完成版をもう一度見てもらいたいし、試食も日を空けてしてもらった方がいいから、迷惑じゃなかったら。
あたしも菜奈さんと一緒に出来て、凄く楽しかったし、嬉しかったから。
意見もズバズバ言ってくれるし、的確だし。センスも良いから本当に参考になるわ」
その申し出は、正直に嬉しかった。
あたしでも役に立ってるんだ、って感じられて。
それに、やりたいという気持ちも大きかった。
「あたしで良ければ」
「わぁ、本当? 嬉しい!」
目の前で手を合わせて喜ぶ福島さん。
あたしも嬉しい。
菅野くんはあたしの返事に、少し心配そうに訊いてきた。
「菜奈ちゃん、大丈夫?」
「うん、全然。
あたしが出来るなら、お手伝いしたいから」
「何か、申し訳ないんだけど、じゃあ、いいかな」
「うん」
菅野くんと言葉を交わしていると、福島さんはエプロンのポケットから薄いスケジュール帳を取り出して予定を確認していた。
あたしはその間に、ふと、目の前に広がる店の庭園を見渡した。
建物も立派だけれど、庭園も見事だ。
ブラウンとクリーム系の色彩のレンガやタイル、黒の細い金属の大きな門。
まだ若い色の葉をつける木々に、夏の色の濃い緑の芝生。
薔薇は幾重にも花びらを重ね、咲き誇っている。
ここが都心の一角だと忘れるくらいの緩やかな空気だ。
さっき波立っていた感情も、嘘のように静か。
薔薇の甘い香りが、風に乗って鼻を掠めていく。
「土曜日は、空いてる?」
その声に、気持ち良く眺めていた景観から引き戻される。
「え……土曜日?」
――土曜日。
海斗に手料理を作る、約束の日……。
「午前中の二時間くらいなんだけど、どう?」
「午前中?」
「うん。何か用事ある?」
午前中なら大丈夫だ。
海斗との約束は、夕方の6時だし。
夕食の買い物をするにしても、じゅうぶん余裕がある。
「午前中なら大丈夫」
答えると、福島さんはまた嬉しそうに手を合わせて笑った。
「ありがとう、良かった!
私ね、早来週にはフランスに戻るの。
だからあまり時間もなくて、助かっちゃう。
相手が菜奈さんで、本当に嬉しい」
「そんな。あたしも楽しいし。
て。早来週?
そんなにすぐにフランスに帰っちゃうの?」
「両親の離婚問題もあって、いい機会だから少し帰ってきただけなの。
菅野さんにも、商品開発をお願いされたしね」
「……え」
――離婚問題?
「どうかした?」
一瞬にして表情が曇ったあたしに、福島さんも菅野くんも不思議そうな顔をした。
「あー、ごめんね。離婚って言ったから?
気にしないでね。だってもう、私もいい大人だし、前から分かってたことだから自分では気にしてないの」
福島さんは薄い笑みを浮かべて言った。
「あ、うん……」
あたしは一言だけ答えて、ほんの少し唇の端を上げた。
余計な気を遣わせてしまった。
申し訳ない気持ちが浮かぶ。
それなのに。
あたしの中には、また落ち着かなく、違う感情が流れ込んでくる。
――ご両親の離婚……。
それは、苗字が変わっているかもしれない、ということを示す。
福島さんが未知花さんかもしれないという疑念が、また大きく膨れ上がって――。
でも、もしそうだったとしても。
未知花さんのことは過去のことだって、あれだけ自分に言い聞かせたじゃない。
そう思う心とは反対に、あたしの中に大きな不安が押し寄せてくる。
今したばかりの約束でさえ、憂鬱な気分に包まれていく。
――どうしてこんなに不安になるの……?
あたしは、何故か。
何か得体のしれない大きなものに、足元から飲み込まれていくような感覚に襲われていった。