20
頭の奥ではさっきの会話がずっと渦巻いていて、消えることはなかった。
だけど海斗は、あたしが麻紀さんから未知花さんとのことを聞いたなんて、知らない。
海斗が好きだった人が、神原さんの彼女だったということなんて。
だから口に出して聞くなんて、出来なかった。
海斗もあの時、さらりと会話を流して終わって――あたしにはそのことについては何も言わなかった。
あのあとも、至っていつも通りの態度で。
そんな海斗に、あたしも普段通りを貫いた。
気になって仕方がないクセに。そうするしか、なかった。
本当は甘い物が嫌いなのに、未知花さんが作った物だから無理に食べていたのか――?
甘い物は大好きだったけど、未知花さんの件でトラウマになって食べられなくなったのか――?
それとも、特にあまり意味なく嘘を吐いただけなのかな……。
あたしになんて、適当でもいいって……。
昼間晴れ渡っていた青い空は、夕方から黒い雲がかかり始め、車窓から見える夜空は星も月も見えない重たいものだった。
車はスピードを上げて進み、それにつれて空の景色も流れ、雲の位置は湘南とは随分と変わっているはずなのに。
それなのに永遠と続くように、黒い空は家に着くまでの長い道のりの間も変わらなくて。
その色がいつになく、不安を誘い寄せるような色合いに見えた。
「ありがとう」
帰りの道のりの一時間なんて、やっぱりあっと言う間に過ぎて、アパートの前に海斗の車が横付けされると、あたしはお礼を言いながらドアを開いた。
笑顔は作ったけれど、本心では帰りたくなんてない。
こんな不安を残しながらなんて、イヤ。
本当はちゃんと、訊きたいよ……。
そう思っても、仕方なく、あたしは開かれたままのドアからゆっくりと足を降ろした。
「じゃあね」と、振り向くと同時に、
「菜奈」
と、海斗の声があたしの名前を口にした。
その一言が、あたしの胸を高鳴らせる。
好きな人から名前を呼ばれることが、どうしてこんなに甘く苦しくさせるのだろう。
「何?」
開いたままのドアから車の中を覗き込むと、海斗も車を降りた。
そして回り込んで、あたしの目の前に立つ。
あたしよりずっと背の高い海斗を見上げると、暗い中でもその顔つきはいつになく真剣なものだった。
「どうしたの?」
そんな表情に、ドキドキする。
海斗も……あたしに嘘を吐いたこと、本当は気にしてる、とか?
「週末……」
「え? 週末?」
「うん。土曜日。
何時に来ればいい?」
海斗はそう言うと、ほんの少しの微笑みを見せた。
その笑顔と言葉にあたしの胸はまた、きゅうっと締めつけられる。
疼くような甘い痛み――。
前もって時間まで訊いてくるなんて。
今迄は適当に、って感じだったのに、珍しい。
だけど。
こんな風に週末の約束をきちんと出来ることは、あたしにとっては物凄く安心できる。
「じゃ、夕方の6時くらい、かな」
嬉しくて、あたしは笑顔まで零れさせながら答えた。
「分かった。
じゃー、約束な?」
「うん」
頷くと同時に、頭の上に大きな手がふわりと触れた。
優しく。
その上、口元を少しだけ上げて微笑んでくる。
今触れている大きな手の感触が、部屋で髪を撫でられたことを思い出させる。
「美味いの、楽しみにしてるよ。
失敗すんなよ?」
「大丈夫だよ。
……多分」
「多分かよー?」
海斗は、いつものようにハハッと笑うと、車へと戻っていく。
「じゃあな」
「じゃあね」
「土曜日、な」
「うん、待ってる」
笑顔が返ってきて、ドアが閉まる。
車はすぐに発車した。
あたしは道の向こう側の角を曲がって見えなくなるまで、そこに立って見送った。
こんな風に。
不安を作らされても――それを汲み取るようにフォローを入れる。
押しと引きが上手いヤツ。
恋愛下手なあたしにとっては、そんなひとつひとつに一喜一憂させられて。
何にも言わないし、言わせない。
やり口上手いよね、やっぱり……。
普段は子供みたいなクセに、大人なやり方。
でもきっと。
これは計算なんかじゃなくて、これが海斗ってヤツなんだ――。
「え? ココ!?」
「うん」
屈託のない笑顔で、あたしに向かって微笑み返す菅野くん。
目黒で待ち合わせをして、そこから歩いてすぐだからと連れて行かれた場所は、あたしでも知っているくらい都内でも有数なフレンチレストランだった。
賑やかな通りから一本路地に入ったその店の佇まいは、格調の高いブラウン系のレンガ造りで、緑の庭園を従える都会の隠れ家といった雰囲気だ。
雑誌にもよく紹介されていて、いくらランチとはいえ、値段がそれなりに張ることも知っている。
「だって、ココ、高いよね?」
入り口の寸前で躊躇して、そこから先へは足が進まなかった。
『お昼くらい御馳走させて』と言われて連れて来られても、さすがにこんなお店で奢らせる訳
わけにはいかないよ。
しかも、告白の返事をハッキリしようっていうのに。
「そんなの気にしないでよ。
ココ、親父の店だから」
「えっ!?」
ちょ、ちょっと待って!?
親父の店って……何?
またにっこりと微笑みを見せる菅野くんにさっと掌を取られ、半ば強引に店の中へと引き込まれた。
彩りも見事な上品過ぎる料理達は、味なんてハッキリ言ってよく分からなかった。
美味しいには美味しいけれど、次々に目の前に運ばれてくる料理を、ただ口にしているだけの気さえした。
だって。
こんなところで、どうやって話を切り出そうか、とも思う。
落ち着いた高級感のある店内は、皆談笑しながら料理を楽しんでいる。
だけどその辺のレストランとは、やっぱりどう考えても雰囲気も空気も違う。
それに、菅野くんも話があるって言っていたはずなのに、一向にその話は出てこない。
前菜から始まった料理は、ようやく『和牛フィレ肉の赤ワイン煮フォアグラソテー添えクラッシック風』と、長い名前のメインディッシュとなっている。
あたしは思い切って、話を切り出した。
「あの、菅野くん、話、なんだけど……」
真っ白なお皿の上に綺麗に乗せられたままのあたしの料理とは違って、菅野くんは何も気にしていないのか、美味しそうにそれを口に含んでいた。
膝の上に置かれたままの掌に力を入れて、そんな菅野くんをまっすぐ見る。
緊張して、思わずごくりと喉が鳴った。
「ああ。海斗のこと?」
「えっ!?」
分かっていたかのような口振りに驚いた顔をすると、その反応を楽しむかのように、菅野くんはニヤリと口の端を上げてあたしに笑みを見せた。
「海斗が好きなんでしょ?」
「えええっ!?」
「分かりやすいから、菜奈ちゃん。
そういうトコが可愛いよね」
菅野くんはそう言いながらククっと笑う。
あの優しそうな眼鏡の奥の瞳は、何だかいつもと違って見える。
もしかして、今まであたしのこと、からかってたの!?
言葉も出ないで茫然としていると、菅野くんは楽しそうな笑いを止めて、またいつもの優しい顔で微笑んだ。
「からかってたわけじゃないよ。
本当に菜奈ちゃんが彼女だったらいいな、と思ってる」
そして、手に持っていたフォークとナイフを皿の上に静かに置き、続けた。
「ミカの元彼のことって、話聞いたことある?」
――ミカの?
そういえば、あたしが信也と別れた頃に、ちょうどミカも別れたんだったっけ。
「確か、高校の同級生だったって聞いた。
会ったことはないんだけど、結構長く付き合ってた」
「うん。そう。俺の友達なんだ、ソイツ」
「えっ? そうなんだ?
そっか、ミカと菅野くんって高校一緒なんだったね」
「そう。それで俺の元カノも同級生で、ミカの友達でさ。
その二人が、いつの間にか浮気――というか、本気になって出来ちゃったって結末」
「えっ……」
「ミカも俺も、お互いに友達に裏切られたワケだ」
「―――」
言葉に詰まってしまった。
こんな時って、何て言っていいんだろう。
気の利いた言葉なんて、思い浮かばない。
「ああ、そんな顔しないで」と、菅野くんはテーブルに両肘をついて手を組むと、にっこりと微笑んだ。
「もう気持ちの整理はついてるし。
ただ、そういうことがあったから、今度付き合う子は信頼できる真面目な子がいいなって。
それでミカが、菜奈ちゃんはどうかな、ってさ。俺も写真を一目見て気に入ったし。
それにさ、ミカは心配してるんだよ、菜奈ちゃんのこと」
「心配?」
「菜奈ちゃんも元彼に傷付けられた、って言ってたよ。
だからさ、海斗みたいな女に慣れて遊んでるタイプは心配なんだよ。
それにアイツ、最初からゲームだ、って言ってるじゃん。
そういう奴に任せたくないんだよ」
ずきりと、その言葉が大きく胸に突き刺さって痛んだ。
――ゲーム。
分かってることじゃない。
あたし達の始まりはそこからなんだから。
だけど他人に言われると、どうしてこんなにもその言葉が重く圧し掛かるんだろう。
小さく息を吐き出すと、視線は勝手に下へと落ちてしまった。
さっきから手つかずのままの料理は、既に温かさをなくしている。
「ゴメン。そんな顔しないでよ。
海斗とのこと、協力するし」
――え?
菅野くんの言葉に顔を上げた。
協力するって――?
「確かに彼女になってくれたらいいな、とは思ったけど、入り込むほど、まだ菜奈ちゃんのこと、よく知らないし。
海斗のことが好きになっちゃったんなら、協力するから何でも相談してよ。
それにさ、俺と一緒にいて焼きもち妬かせればいいよ。
ほら、アイツ、手強いだろ?」
「ホ、ホントに?」
菅野くんが協力してくれるのは、確かに心強いけど。
会社だって同じで、毎日のように顔を合わせるんだろうし。
だけど……そんなこと、頼んでもいいもの?
「俺もさ、海斗が本気になるトコロ、見てみたいしね」
そう言ってにやりと片側の唇を上げて笑う菅野くんは、何だか楽しそうだった。
それこそゲームをしているような顔つきで。
その笑顔にほんの少しの不安も覚えたけど、あたしは「ありがとう」と頭を下げた。
「うん。
菜奈ちゃんならきっと、大丈夫」
頭の上から、そんな菅野くんの優しい声が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろす。
――正直に、嬉しかった。
そんな風に言って貰えるのは。
「そういえば、昨日話があるって言ってたのは?」
気を取り直したように、置いたままのメイン料理を食べ始めると、菅野くんにようやくそう尋ねた。
口に含む高級な料理は冷め切っていたけれど、それでもやっぱり美味しい。
既に料理を食べ終わっている菅野くんは、ミネラルウォーターのグラスを一度口付け、テーブル戻すと、少し真面目な顔つきで言った。
「ああ、話っていうか、お願いなんだけど」
「お願い?」
「菜奈ちゃんって、ケーキとか甘いもの好きなんだよね?
海斗が言ってたけど」
海斗が?
あたしの話題なんて出してくれてるの?
友達に女の子の話なんてしなそうなタイプなのに。
「うん。好きだよ」
嬉しくなって答えると、菅野くんはほっとしたような笑顔を見せた。
「良かった。
今度さ、丸の内に新しくOLさん向けのカフェをオープンするんだけど、新しいスイーツの試食をしてもらって感想が欲しいな、って。
現役OLさんの生の意見が欲しいんだ。それを親父に頼まれてて」
「新しいカフェ?
何だか凄いね、菅野くんち」
「まぁ、俺じゃなくて親父がだけどね。
祖父が元々シェフなんだ。それを店舗展開していったのは親父。
アニキは青山店のシェフでさ、継ぐのもヤツだろうな。
基本的には俺はノータッチなんだ。なんてったって、挫折者だからさ」
菅野くんは、苦笑いをして肩を竦めて見せた。
そして、店員に向かって合図するように軽く片手を上げた。
「今回の企画のパティシエ紹介するよ。パリで賞も獲ってるんだ。
まだ若いから有名とかじゃないんだけど、今回の企画に合うから商品開発だけお願いしたんだって」
「商品開発?」
「うん。ちょうど今、パリから日本に帰ってきてて。
OLさん向けだからさ、開発も若い女の子、っていうのが売りなんだ。
嗜好も分かりやすいだろ?」
「若い女の子なの?」
思わず訊き返す。
女の子でパティシエなんて、珍しい……。
「そう。確か同い年だよ。
福島さんっていうんだ」
「同い年で賞を貰えるなんて、凄いね」
そうだね、と答えた菅野くんの視線は、そこで何かに気が付いたようにあたしの後ろへと注ぎ、さっきと同様に手を上げた。
「福島さん、こっち」
菅野くんが呼んだ名前に、あたしは何の躊躇も疑いもなく振り向いた。
なのに振り向いた瞬間、息も心臓も一瞬止まったかと思うくらい驚いた。
――振り向いた先の、柔らかな笑顔。
周りの雑音と入り混じるように、急激にあたしの胸も心臓も大きくざわめいた。