19
「ハイ」
素気ない声で、白いカップに赤い文字のオレンジジュースが差し出された。
海斗は、続けざまにストローも無造作に置くと、テーブルを挟んであたしの向かいに回り込み、三日月の形をした木製のベンチに腰を下した。
「……ありがと」
あたしはちらっと顔を見ながら、今差し出されたストローを袋の中から取り出し、ジュースの蓋に差し込んだ。
菅野くんとの電話のあと、海斗との会話はオーダーの時だけで。
目の前にあるのは、厳しい表情。
怒ってる?
怒ってるよね?
だからこんな態度なんでしょ?
じゃあ何であんな風に言ったの?
全然、海斗の考えてること、分かんないよ……。
あたしはちゃんと、海斗の気持ちが聞きたいのに……。
「食べれば?」
冷たい言い方。
その声の主をまたちらっと見て、テーブルに視線を落とす。
テーブルのちょうど真ん中に置かれたトレーの上には、ハンバーガーが二つとポテトのLサイズ。
海斗は無表情のまま、すっと目の前のハンバーガーを一つ取って、がさがさと包みを開けた。
開けたと思ったらそれはすぐに大きな口に運ばれる。
ひと口が大きくて、変わらず豪快。
あたしは食べたい、なんて気は起きなかったけれど。
食べていないと、この重たい雰囲気に飲み込まれてしまう気がして、包みにそっと手を伸ばした。
「いただきます……」
一応の挨拶をして包みを開くと、海斗がじろっとあたしを見る。
「つーか、さ。オマエ、とんびに気を付けろよ」
……やっぱり冷たい言い方だ。
それに、言われるほど、あたし、トロくもないし。
「大丈夫だし」
答えた瞬間、目の前に風が巻き起こったのを感じると共に、黒くて大きな物が過ぎる。
あたしは「きゃっ」と、その小さな風圧に目を瞑った。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
だけど、あっと、思った時には、一口も手をつけていないハンバーガーが手の中から消えていた。
「う、そっ!?」
急いでその黒いモノを目で追ったけれど、時既に遅し。
目に映るのは、空の高みで小さくなったとんび。
その姿は「ご馳走様」とでも言っているかのようにも見えて。
大きく両羽を広げて楽しそうに翻る。
茫然として空を見上げたままでいると、クククっと、あの笑い声が聞こえた。
「わ、笑わないでよっ」
すぐにとんびから、あたしを笑う人物に視線を移すと、口元を手で覆って堪えたように笑っている。
だから、もう!
いつも笑い過ぎでしょ!
「だってさ……マジで……凄ぇ……ぶぶっ。
言った傍から……っ」
「海斗ってば!
普通そこで笑う?
大丈夫? とか言わない?」
「だって、マジで信じらんねー……」
あはははっ、と、とうとう堪え切れなくなったようで、海斗は大きな声を上げた。
海斗の笑い声が、あたしの胸を締めつけてくる。
だって。
やっぱりあたしのこと、女扱いじゃないんだ、って。
悔しくって、涙が出そうだった。
麻紀さんが、あたしは海斗にとってちょっと違う、って言ってたけれど。
それは、恋愛対象に見てくれてないからじゃないかと思う。
瑞穂やミカに対してはもっと優しかったし、こんな風に笑ったりしないと思う。
それにきっと、未知花さんにだって――。
目頭が熱くなってきて、喉まで込み上げてくるものを、奥歯を噛み締めながら飲み込んだ。
「何だよ。そんなに食べたかった?」
俯くあたしの上から、海斗の声が聞こえる。
……て。
食べたい、とかじゃ、ないし。
こーゆートコ、鈍感すぎだよ……。
「涙目」
そう言ってあたしの瞳を指さす海斗を、顔を上げて睨みつけた。
「違う、し」
「新しいの、買ってくる?」
「……いらないもん。
おなか空いてないし」
可愛くない。
あたしって、ホントに可愛くない。
だけど、どうにもならない気持ちがここにあって……。
そのまま黙っていると、海斗は小さな溜め息を吐いた。
――呆れちゃった?
自分の子供っぽさと不甲斐なさの両方に情けなくなって、視線をまた下に落とした。
なのに、優しい声が上から言った。
「ほら」
「え?」
目の前に差し出されたのは、ギザギザにちぎられたハンバーガー。
「半分、食えば?」
海斗はそう言うと、食べかけの片割れのハンバーガーをぱっくりと口に入れた。
意地悪、と思ってたのに。
こんなの、予想外っていうか……。
半分っていうのが、嬉しいっていうか……。
「あり、がと……」
あたしは目の前に差し出されたその半分のハンバーガーを、海斗の手の中から受け取った。
そして、そのまま口に運ぶ。
口を動かしたまま、上目遣いに見上げたその顔は、いつの間にか優しい顔になっていて。
しょうがねーな、って、見守るような温かい顔つきで。
ヤバい。
マジで涙出そう……。
意地悪だし、あたしのこと、からかってばっかだし。
どうでもいいような態度を取られたりもするけど。
だけど、こういうトコ、好き。
弱いなぁ、あたし……。
ほんのちょっと前まで、拗ねてたクセに。
一気に温かい気持ちが、身体に流れ込んでくる。
それに。
海斗の機嫌も直ったみたいで。
とんび様々かな、とか、思っちゃう。
「ねぇ、海斗」
あたしは正面の海斗の目を見つめた。
「ん?」
「菅野くんとは、ホントに話をするだけなの。
きちんと会って、話したいことがあるの」
きちんと、言っておこう。
変に意地張ったまま、こじれるのは嫌だし。
ただでさえ、あたしは不利なんだから……。
機嫌は直ったみたいだけれど、それでも何て返事が返ってくるのか、ドキドキしながらジュースを口に含んだ。
少し氷が溶けてほんのり薄くなったオレンジジュースが、カラカラに渇いた喉の奥を潤しながら冷たくしていく。
――別に気にしない、とか、また言われるのかな……。
そんな嫌なほうのドキドキで待つ。
数秒後に、海斗は答えた。
「うん」
ただ、一言。
それだけ。
怒っているような態度ではないけど、気にしているというような態度でもない、素っ気ない返事。
感情が、読み取れない……。
「あれ、海斗?」
後ろから男の人の声が急に入り込んだ。
振り返ると、サーフボードを持った男の人が二人立っていた。
「あー。原田さん、久保さん」
海斗が嬉しそうに声を上げ、二人は近づいてくる。
原田さん、って、さっき麻紀さんが言ってた人かな?
会ったら店に寄って、って言ってた。
「何だよ、オマエ、珍しく来てたんだ?」
「朝、店にも寄ったんすよ」
海斗が答えると、その二人と目が合い、あたしは軽く会釈した。
「こんにちは」
「菜奈、ウチのサーフチームの先輩なんだ。
原田さんと、久保さん。オレの二コ上」
海斗は手で二人を指して、説明してくれる。
こんにちは、と、お互いに挨拶を交わす。
「つか、海斗、彼女?」
原田さんがにやにやしながら言った。
どきっと、した。
だって。何て答えてくれるんだろう。
麻紀さんは、色んな女の子をここに連れてきた、って言ってたけど。
あたしのこと、ちゃんと彼女って、言ってくれるの?
「そうだよ。
つーか、原田さん、麻紀が店寄って、って言ってた」
何でもないように、さらりと海斗は答えた。
――『そうだよ』って……肯定、した……。
胸がきゅうっとする。
ホッとするよりも、そっち。
原田さんはボードを片手に持ったまま、テーブルに手をついた。
「あー、そうそう。俺、今日誕生日なんだよ。
彼女いなーい俺のために、麻紀がケーキ用意してくれるって言ってたからな。
海斗も来いよ。
えっと、菜奈ちゃん? 良かったら来てくれない?」
原田さんはそう言って、白い歯を見せながら満面の笑みをあたしに向けてきた。
「え……あたし、行ってもいいんですか?」
「来てくれる?
ヤローばっかで、女の子来てくれると嬉しいんだよねー」
にんまり笑う原田さんに、海斗は苦笑いをして目を細めると、
「しょーがねーな」
と、言って立ち上がった。
連れて行かれた店の二階は居住スペースになっていて、天井の高い吹き抜けのリビングダイニングには、既に数人の男の人が床に座り込んでくつろいでいた。
陽が燦々と差し込む大きな窓が幾つか連なり、そこからは正面に湘南の海も見下ろせる。
真新しく、新築の匂いが微かに残る広い空間。
外観のクールな印象とは違い、無垢の木の床と天井、珪藻土の白い壁が温かみをもたらせていた。
大きなダイニングテーブルとベンチも、床と同じ素材の作りつけだ。
「こんにちは」
緊張しながら挨拶すると、向こう側で雑談していた男の人たちが、一斉に振り返る。
「女の子だ!」
「うっわ! 可愛い!」
「いらっしゃーい」
「何だよ、海斗! 女連れかよー」
め、めちゃめちゃ注目されてるしっ!
こういうときって、どう反応すればいいの!?
取りあえず、笑顔を返す。
ああ、引き攣ってるかも……!
すると、麻紀さんが「菜奈さん!」とキッチンからひょっこり顔を出してきて、ホッとする。
海斗は「あーもう、うるせぇ」と、悪態をつきながら輪の中に入っていく。
でも、楽しそう。
皆が皆、仲が良さそうな姿は、何だか微笑ましい。
麻紀さんはくすくすと笑いながら、海斗と入れ違いにあたしのところに来た。
「菜奈さん、来てくれたんだ? 嬉しー!
て、ゆーか、男ばっかで引いちゃうでしょ?」
「ちょっとびっくりした」
「だよね」
ふふっ、と、麻紀さんは顔をくしゃくしゃにして笑う。
可愛い。
こうして少し仲良くなってみると、麻紀さんは見た目の近寄り難さとは違って、ずっと気さくで話しやすい。
「いきなりあたしまで来ちゃって、平気?」
「もちろん!
今日、あいにく女の子が誰もいなくて困ってたの。
手伝ってくれると嬉しい!」
「うん」と返事をする前に、麻紀さんに手を引かれる。
広くて大きい、オープンキッチンだ。
タイル張りに、ステンレスの流しはどう見ても特注。それに最新IHクッキングヒーター。
こんなところで料理なんて、羨ましい。
……ココならあたしの料理の腕前が上がるかも、なんて考える。
「これ、ダイニングテーブルに運んでもらっていい?」
麻紀さんに数枚重ねられたケーキ皿を渡された。
「あ、うん」
「ケーキ、大きいの二つ買ってあるんだー。
菜奈さんは好き?」
「うん。好きっ」
「じゃあ沢山食べていってね。
ここのケーキ、すっごく美味しいの」
麻紀さんはそう言って、白いタイル張りの作業台の上に置いてある箱の中から、ケーキを取り出す。
大きなホールケーキだ。
一つはふわふわの生クリームで、もう一つは、ココアパウダーが薄っすらとかった大人っぽいチョコレートのケーキ。
そこに麻紀さんはロウソクを立て始め、あたしは渡されたお皿を運ぼうと、ダイニングテーブルのほうへ身体の向きを変えたときだった。
麻紀さんが、背中の向こう側で言った。
「海斗もきっと、二つ食べるよね?」
――えっ?
思わず、足が止まった。
二つ、って……何?
振り返ると、麻紀さんは「ん?」と、不思議そうな顔をした。
「何でもないの」と言う代わりに、ほんの少し唇の端を上げて首を振り、あたしは一度止まった足をリビングの方へと進めた。
だって――海斗って甘いもの嫌いだよね?
麻紀さん、何か勘違いしてるのかな……?
だけど、食べ物の好き嫌いを、わざわざ嘘吐く必要なんてないし……。
――甘い卵焼きでさえ、お菓子みたいに感じると言っていた海斗。
朝の言葉を思い返しながら、あたしはテーブルの上に一枚一枚お皿を並べ始めた。
かたん、と。
一枚置くごとに陶器とテーブルの衝撃音が小さく鳴り、それが不安を掻き立てるように耳に響いた。
――だって。
嘘なんて吐く理由……ないよね……?
不安のようなものが、奥の方から湧いてくる感じがあって。
並べ終えた白いケーキ皿を、あたしは少しの間見つめていた。
「おめでとー!」
二つのケーキに、合わせて25本立てられたロウソクの火が、原田さんによって吹き消されると、大きな歓声のような声と拍手が次々に上がった。
「サンキュー、サンキュー」と原田さんは嬉しそうに皆に向かって両手を上げる。
皆は皆で「オヤジになったなー」とか「もう25かよー」なんて言ってからかっているけれど、凄く仲が良さそうで楽しそうで。
そういうところを見ているだけで、あたしも自然と顔が綻んだ。
「ゴメン。ヤローばっかで居づらくねぇ?」
隣の海斗が、あたしにそっと耳打ちした。
確かに女の子はあたしと麻紀さんだけで、あとは如何にもサーファーといった風体の、日焼けしたゴツい男の人が十人。
ノリも軽くて、とにかくハイテンション。
「ううん。
最初は緊張したけど、そんなことないよ」
「ならいいんだけどさ」
ふっ、と、海斗は安心したように微笑む。
ほら。
こんな風にちゃんと気を遣ってくれるところもある。
意地悪なトコロばかりじゃないんだよね。だから参っちゃうよ。
少しずつ――海斗のこと、分かってきた気がする。
口も悪くて、自分に自信があって、強がりだけど。
でも……優しいトコロもちゃんとあるんだ。
麻紀さんがケーキを切り終わって、それを一つずつお皿に乗せ始めたのを見て、あたしも手伝おうと立ち上がり、既にお皿に乗ったケーキをひとりひとりに回していった。
食べないだろうとは思ったけれど、格好だけでもと、あたしは海斗の前にもチョコレートのケーキを置いた。
「菜奈、オレの分も食えよ。
オマエ、ケーキ好きだろ?」
海斗は目の前に置いたケーキの皿を、すぐにあたしに差し出してきた。
「うん」
――ホッとした。
やっぱり、甘いの好きじゃないんだ、って。
さっきのは、麻紀さんの何か勘違いなんだ、と。
お皿を受け取ると「何だよー、海斗ー」と、さっき紹介された久保さんが、あたしの後ろからにょっきり首を出して、ニヤニヤと楽しそうに笑った。
「彼女、大事にしてんじゃーん?
オマエ、甘いの大好きなのにさー。
オレの分やるから食えよ! オレ、ケーキ駄目だからさ」
――えっ?
その言葉に驚いて、海斗を見上げる。
けれど海斗は――逆にあたしから視線を逸らした。
待って?
何、それ……。
大好き、って、何?
「菜奈ちゃん、コイツさ、呆れるくらいお菓子とか食うんだよ。
知ってる?」
からかうように久保さんが言った。
海斗は黙ったままで――。
あたしは「いえ」と無理矢理口の端を少し上げて返事をすると、
「そうそう、菜奈ちゃん!」
と、正面に座っている原田さんが声を上げた。
「昔さー、神原さんって人がいて、その彼女がさ、毎回ケーキだナンダってお菓子作ってくるんだよ。それが凄い量でさ、食いきれねーくらいで。
神原さんは、甘いの好きじゃないし、ヤローどもなんかもそんなに甘いモノって食わないじゃん? 毎回だと飽きるしさー。
それを、海斗が毎っ回、全部食い切ってたんだよ。
ホールのケーキなんかも一人で全部! 『甘いモノ好きなんだよ』って言って!
ホールだよ? 信じらんねーよなぁ」
あはははっと、大きな笑い声が湧き上がり「懐かしいよなー」「そうだったなー」と、次々と皆も声を揃えた。
――神原さんの彼女。
――未知花さんの作ったお菓子。
それは、頭を鈍器で殴られたような衝撃で――。
皆の笑い声が、耳の奥にぼんやりと響く。
あたしは何か答えることも、一緒に笑うことも、出来なかった。