18
肌を刺激する強い日差しが照り付け、夏の香りをした風が吹き抜けていく。
無駄な努力と分かってはいても、風が髪を頬に吹きつけるたび、あたしはその邪魔な髪を耳にかけ直す。
麻紀さんの持ってきた大判の更紗の上に二人で並んで座り込み、引いては押し寄せる波の向こうを見ていた。
砂は熱を持っていて、布一枚隔てていてもその熱さが肌に伝わってくる。
「未知花は、神原さんの彼女だったの」
麻紀さんは海を見つめながら、まるで風が通り抜けていくかのように、さらりとそう言った。
あたしは、乱される髪を右手で押さえた。
同じように、海の先を見つめながら。
風が、強い。
海斗はパドリングで沖へと向かい、目に映る姿は次第に小さくなっていく。
大きな素振りで波をかき分ける海斗の腕の動きも、ここからだと分かりづらくなる。
「でも海斗は……未知花さんのことが、好きだったの?」
その質問に、麻紀さんは海からあたしへと視線をよこした。
そんな麻紀さんを、あたしも見つめ返す。
目が合うと、彼女は苦笑いした。
「学校も同じで、クラスも一緒で。
一見、全く合わなそうに見える二人だったけど、未知花がココに来るようになってから、二人は凄く仲が良くなったの。
未知花は――自然で可愛くて女の子らしくて、素直で優しい子で……。
海斗が好きになるのも無理ないわ。二人で一緒にいることも多かったし」
――『素直で優しい子』
ズキン、と。
何か鋭いモノが胸に刺さったように痛んだ。
あたしは――さっき素直じゃないと言われたばかりで。
きっと本当に、あたしなんかとは全然違うんだろう。
女性の麻紀さんも、そんな風に思えるようなひと――。
黙り込むあたしに、麻紀さんは続ける。
「だけどその気持ちを打ち消そうとして、色んな女の子と付き合ってた。
海斗にとっては、神原さんは兄貴みたいな存在だったし、自分の気持ちを封じ込めるしかなかったの。
あたしは良く知ってる。
だって、海斗がウチに来たときから、ずっとアイツのことが好きだったんだもの。
見てれば分かる。どれだけ我慢して、辛い思いをしてたのか」
「………」
「そのうちにね、いつのまにか、未知花も海斗のことが好きになったの。
だから、神原さんとの関係で悩んでた。
海斗を選べば、全部の関係を崩すことになるから。
海斗は――その気持ちに気付いたとき、神原さんとの関係を壊してでも未知花を選ぼうとした。そのくらい、強い気持ちがあったの。
だけど結局、未知花は海斗を選ぶことが出来なかったの。
神原さんとのことも海斗とのことも、悩んで悩んで最終的には両方とも選ばなかった――選べなかったの。
だから高校卒業と同時にフランスに行った。もう、二人に会えないって。
海斗も神原さんの近くにはいられなくなった。神原さんも未知花の気持ちに気付いていたし……。
それで未知花がフランスに行ったあと、自分も留学を決めたのよ」
「未知花さんが、フランスに行ったあと……?」
柾さんが言ってたのは、そういうこと――。
風が吹き付ける。
でも、今もう、髪を直す余裕もない。
「麻紀さん、は?
だって、麻紀さんはずっと海斗のことが好きだったんでしょ?」
「……うん。
だから海斗が留学から戻って来たときに、彼女いないのにかこつけて付き合う、ってなったんだけど……。
結局は駄目。だって、あたしに対して気持ちがないんだもん。
それにね、あたしもいけないの。意地を張ってたから。
『今、彼氏いないから付き合ってもいいよ』なんて軽いノリで言ったの。
あたしが本気だって分かってたら、昔からの知り合いだもん、重たすぎて付き合ってくれないのも分かってたし。
でも、ホントにアイツ鈍感過ぎみたい。あたしが海斗に恋愛感情ないと本気で思ってたみたいで。
辛くなっちゃったのと同時に、そこでようやく吹っ切れた自分がいてね。
ああ、あたしってこれだけずっと好きだったのに、海斗にとっては他の女の子達と変わらなかったのかな、って。
そう思えたら、すっきりしちゃって」
麻紀さんは、そう言うとふっと笑った。
少し哀しさを含んだような、懐かしいような、そんな表情。
「今は、もう好きだって気持ちはないの?」
「うん。もう、ね。
だけどね、凄く好きだったことは確かで。
海斗には、ちゃんと幸せになって欲しいな、って思うの。
未知花を綺麗に忘れて、他の人ときちんと恋愛して幸せになって欲しいな、って。
……菜奈さんは?」
「えっ?」
「菜奈さんは、海斗のこと、好き?」
麻紀さんの目が、あたしをまっすぐに見てくる。
あたしも同じように見つめ、小さく頷いた。
「……うん。
好き」
ハッキリとそう答えると、麻紀さんは返事の代わりに柔らかく微笑んだ。
だけどその笑顔が凛と綺麗で眩しくて、自分達の関係の曖昧さに胸が痛くなった。
だって――そんな笑顔を貰える関係じゃ、ない。
「でも、海斗はあたしのこと、何とも思ってないから。
あたしと海斗は普通の恋人同士じゃなくて……」
「うん。海斗から聞いたよ、この間。
ゲームだってね」
あたしが教える前に平然と言った麻紀さんに、言葉が詰まった。
麻紀さんにも言うくらい、海斗にとってはそれでしかないんだ……。
大きな溜め息が漏れる。
どう答えようかと思うと、そんなことは何でもないような麻紀さんの声が言った。
「でも、さ」
「え?」
「海斗って、あんなでさ。来るもの拒まずで、色んな女の子と付き合ってココにも連れてきたけど。
いつも本音で接してなかったよ。調子良く相手に合わせて楽しめればいい、みたいな。
最初菜奈さんと会ったときは、ああ、またか、って思ったんだけど。
でもね、二人のやり取りを見てたら、海斗ってば珍しく素を出してるなぁって」
「……えっ?」
素、って――
いつも本音で接してなかった、って――?
麻紀さんは、ふっと、嬉しそうに微笑む。
「だから菜奈さんは、海斗にとってはちょっと違うのかな、って思って。
きっと、海斗を変えられるんじゃないか。
未知花のこと、きちんと吹っ切れるんじゃないか、って」
「そんな、だって……」
「この間のレセプションでも、あんな風にムキになった海斗を見たら笑っちゃった」
ムキに?
でもあたしと菅野くんに『ご勝手に』なんて言ったり……。
どうでもいいみたいな態度だったじゃん……。
確かにあの日、あたしが帰ったあとに追いかけて来てくれて、痴漢から助けてくれたけど――。
それに――。
「麻紀さん」
「ん?」
「海斗は、まだ未知花さんを吹っ切れてないの?」
麻紀さんは、ふと一度目を伏せ、数秒黙り込んだ。
「本人はもう忘れた、とは言ってるけど。
だけど、心の奥には残ってて、なかなか人を好きになれないのは事実よね」
「麻紀さんは、未知花さんの友達だったんでしょ?
もし……もし未知花さんが、まだ海斗のことを忘れられなかったとしたら、二人がくっついて欲しいって、思わないの?」
麻紀さんは、少し困ったような複雑な表情に変わった。
あたしの顔へとあった視線は、また海の方へと向かった。
「正直、分からない、な……」
「分からない?」
「あたしも昔はさ、子供だったから……色々あって……。
未知花とは当時、そんなには仲良くはなかったんだ。
だから余計に、二人が付き合って欲しくないって気持ちがあの時はあったの。
今は海斗の気持ちがどれだけ強かったかも知ってるから、上手くいって欲しいって気持ちもあるけど……。
でも、神原さんのこともよく知ってるから、あたしにとってはあの二人がくっつくのは複雑だな」
それに、と、麻紀さんは苦笑いを浮かべ、付け足す。
「今はもう離れてるんだし終わったこと。
あり得ないわ」
あり得ない?
でも、未知花さんは今、日本に帰ってきてる。
同窓会にも来る、って言ってた。
それは海斗に会う口実じゃないの?
二人きりで会えないから。
だって。
本当に会う気がないなら、来るなんて言わないでしょ?
あたしは『複雑だ』と言う麻紀さんに、未知花さんが帰ってきている、と話すことを躊躇した。
言うか言わないか少しだけ悩んで言葉が出かかった時、麻紀さんの声がそれを遮った。
「あ! ほら! 波っ!
海斗、乗るよ!」
あたしは、麻紀さんの指の先へと顔を向けた。
一瞬で、視線が奪われる。
青く反り立った波が崩れ始め、その上を勢いよく海斗のボードが滑り下りた。
下り切ったと思うとすぐにノーズが上向きになり、波の壁を大きな動作で上りつめ、また下る。
ボードから白いしぶきが空へ向かって弾け上がった。
まるで大きな生き物のような動きをするその波を、服従させたように見事に滑っていく。
身体中の血液が、一気に上がった気がした。
握った掌に力がこもる。
波と遊ぶように自在に駆け抜けていくその姿は、もの凄く格好良かった。
興奮と一緒に、胸がきゅうっと締めつけられる。
崩れ去った波から海斗が降りたあとも、暫く目を外せなかった。
「海斗の今のトップターン、カッコイイよね!」
麻紀さんが興奮した調子で言った。
「……うん」
あたしは、ただ一言だけ答えた。
だって。
潮が満ちるみたいに大きな気持ちが胸いっぱいに溢れ返っていて、それ以上の言葉が出なかった。
笛のような鳥の声が空から降ってくる。
空の高みには円を描くようにとんび数匹が舞っていて、切なさを思わせる鳴き声が波音と入り混じる。
広大な空を自由に駆け回り、たまに急降下して、また雲の近くのずっと高いところまで上がる。
飛ぶことを心底楽しんでいる姿は、波に乗っている海斗の姿と重なる。
「おー、何? オマエら仲良くなってんの?」
海から上がった海斗は、ボードを片手にこちらに向かって歩きながら声を上げた。
砂を踏みしめるたび、身体からも髪からもぽたぽたと滴り落ちる水滴が、足元に黒い模様を作っていく。
この間と違ってラッシュガードを着ていない濡れた身体が、太陽の光線に照らされて反射するように光っている。
眩しくなって、思わず目を少し細めて見上げた。
「見てたよー」
あたしが言おうとした言葉を、麻紀さんが奪った。
海斗は、ニッと笑う。
「今日、結構波あるし、イイ感じ」
「そうだね」
麻紀さんは海斗に答えると、急に立ち上がった。
「あ! あたしちょっと店戻るね。
原田さん達が上がってきたら、店に寄って、って言っておいて」
そして、砂を払いながら、あたしを見る。
「じゃあね、菜奈さん」
――もしかして、気を遣ってくれてる?
「麻紀さん」
「ん?」
「あの、色々ありがとう」
そう言うと、見上げた麻紀さんの顔は、あたしに薄く微笑んだ。
『頑張ってね』とでも言いたげな顔つきだ。
背中を向けて歩き出した麻紀さんの代わりに、海斗が同じ位置へと腰を下してくる。
ちょっとした動きで触れてしまいそうな距離の海斗に、妙にドキドキしてしまう。
あたしは何となくすぐに言葉が出なくて、前を向いたまま海を見つめていた。
相変わらず視線の向こうには、沢山のサーファーが波と戯れている。
甲高いとんびの鳴き声が、また空から聞こえる。
「で。ちゃんと、見てたワケ?」
隣の海斗が、あたしを覗き込むように言った。
「見てたよ」
「で?」
「で、って……。
えっと、格好良かったよ……」
ちらっと、海斗を見て言う。
もう、素直にそう言うしかないよね?
ホントに、そう思ったし。
なのに、海斗にそんな風に素直に言ったことが、妙に恥ずかしくなった。
今迄付き合ってきた彼氏にだって、好きなひとにだって、何度も言ったことのある言葉なのに。
だって、海斗に素直にそんなことを言うのは癪っていうか……。
きっと、他の女の子達にも、同じように言われてると思ったから。
『格好良い』なんて、言われるのは慣れてる。
だから――なのかもしれない。
海斗はあたしを覗き込んだまま、無言でじっと見つめてくる。
「な、何?」
そんな態度にどきっとさせられて、少し声が上ずった。
真面目だった顔は口元がすぐに緩んで、クククッとあの意地悪そうな笑いが漏れる。
「だからっ! 何で笑うかな、もう!」
「だってオマエってさ、褒めてる口調じゃねーんだもん。
もっと可愛く言えよ。
ほんっと、素直じゃなくて面白れー」
「素直な気持ちだよ! ホントに格好良かったよ。
あたし、感動したもん!」
怒ってそう言うと、意地悪な笑いが止まって、ふっと、優しそうな笑顔を見せた。
ああ、もう。
やっぱりこういう時に、そんな顔見せるの、ズルイ。
て、ゆーか。
あたしってホント可愛くない……。
怒って言うセリフじゃないじゃん……。
こんなんじゃ、絶対、好きになってなんてくれるはずない……。
思わず、立てた膝の上に顔を伏せた。
すると、海斗が言った。
「分かったってー。
こーゆートコ、可愛いな、オマエって」
「えっ?」
反射的にすぐに顔を上げてしまった。
可愛い?
「まぁ、あんまり素直すぎてもつまんねーし、な」
「は? 何……?
可愛いって――」
「分かりやすすぎだから。
そーゆートコ、面白いつーか、ちょっと普通じゃねーよなー」
「意味、分かんないしっ!」
「分かんねーならいいよ」
海斗は両手を砂に付き、身体を支えるようにして空を仰いだ。
少し眩しそうに目を細める。
その視線の先には、変わらずとんびが楽しそうに空を飛びまわっている。
可愛いとか、言う? こんな時。
どう考えたって可愛くない態度の時に。
いつもなら、可愛くねぇ、とか言うクセに。
もう、参る……。
ドキドキするじゃん……。
あたしは膝を抱えながら、そんな姿の海斗を見つめる。
それに気付いたのか、海斗は空からあたしへと視線を移してきた。
「何か冷たいモノでも飲むか?」
「え?」
「ここで待ってるの、暑かったろ?
そこで何か買ってくるけど?」
海斗は向こう側にある、ファーストキッチンを指差した。
砂浜より一段高く海を見下ろすウッドデッキの席には、数人くつろいでいるひとが見える。
「あ、じゃあ、あたし行ってくるよ。
海入ってたから、疲れてるでしょ」
「別に、平気」
「え、いいよ。行ってくるよ」
「じゃー、一緒に行って、テラスで食うか?」
海斗はそう言ってすくっと立ち上がり、あたしに影を作る大きな身体が手を差し伸べた。
少し屈んだ姿勢で笑いかけてくる笑顔が、太陽の光で余計に眩しい。
目の前の手を取ると、ぐっと引っ張られて、あたしの身体は軽々と立ち上がらせられた。
そのまま繋がれた、手。
力強いその腕にやっぱりドキドキさせられて、甘い気持ちも込み上げる。
何か……。
今、イイ感じだよね?
優しいし……。
そう思うと、その雰囲気を邪魔するようにバッグの中の携帯が鳴り出した。
海斗は歩きながら音を発するバッグを見る。
「電話じゃん?」
「うん」
繋がれていた手が、海斗によってパッと離された。
ちょっと残念だな、と思いながら、バッグの中に手を入れて、鳴り響く携帯を取り出した。
目に映ったサブディスプレイの文字に、ドキッとする。
――菅野くん。
よりによって、こんな時に。
きっと明日のことだ。どうしよう。
電話に出るのを躊躇した。
けれど急かすように、コール音は鳴り続ける。
「出ればいいじゃん?」
海斗が不思議そうな顔をして、あたしの手の中にある携帯に視線を落とした。
「出れば?」
冷めた口調に急激に変わる。
至近距離の海斗から、着信の名前が、きっと見えた。
怒った?
どうしよう……。
でも、この状況で出ない方が何だか怪しいよね。
あたしは息を飲んでから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『菜奈ちゃん? 菅野だけど』
「うん」
『明日のことなんだけど』
やっぱり。
「あの、ごめんね。今ちょっと……」
海斗の前で、明日会う約束の話なんて出来ないよ。
『あ。もしかして今、海斗と一緒なの?』
菅野くんの言葉に、ちらりと海斗の方を見た。
わざとかは分からないけれど、あたしよりも数歩先に歩き出した海斗は、表情が見えない。
「うん、そうなの」
『………。
そっか。分かった、ゴメン。
俺も話があるって言いたくて』
「話?」
聞き返すと同時に、海斗が振り返った。
急に振り向かれて驚いて見上げると、上から海斗が言った。
「菅野と会うの?
別に、オレに遠慮する必要なくねぇ?」
「え……?」
「オレ達って、お互い恋愛感情ねーんだし。
オマエが誰と会おうが、別にいいよ、オレは。
好きにしろよ」
――何、それ……。
浴びせられた言葉が、胸に突き刺さる。
――分かってる。
あたしのことが好きじゃないって、そんなの。
だけど、あたしは海斗のこと、好きなのに……。
海斗にとって、あたしはそんなにどうでもいい存在?
ホントにただの『彼女』という名前が付いただけの存在?
言葉が出ない。
菅野くんも、海斗のその声が聞こえたのか、黙ってしまった。
「何だよ、いい、って言ってるじゃん」
あたしを見下げながら海斗は再度言い放った。
追い討ちをかけるその言葉に、悲しさと情けなさが入り混じる怒りにも似た感情が身体を突き抜けた。
「……分かった。
菅野くん、明日ね」
あたしは、聞こえよがしにそう言った。
明日会う、って分かるように。
海斗は、またくるりと背中を向けて歩き出した。
『菜奈ちゃん大丈夫?
て……、ゴメンね』
「ううん、大丈夫。
じゃあ、明日」
菅野くんの心配そうな声をよそに、あたしは明るい声で電話を切って、海斗の背中を追いかけた。
海斗はあたしの歩調に合わせることなく、ぐんぐんと先に進む。
少し離れた距離が、近づけない距離のようで遠く感じる。
砂を踏み締めるたび、沈む足に焼けた砂が柔らかく振りかかる。
足取りが重いのは、砂のせいだけじゃない。
何で、こんな風になっちゃうの……。
ほんの数分前には、手を繋いでたのに。
ぎゅうっと、その手を握り締め、零れ落ちそうな涙と言葉をぐっと飲み込んで、あたしは足を速めた。