16

テーブルを挟んで向こう側の瑞穂は、嬉しそうに唇をきゅうっと上げ、目元も緩めてあたしを見つめる。
そんな瑞穂に、頬を膨らませながら言った。


「そんなにニヤニヤしないでよ……」

「あ。ほら、ミナミハコフグ。やっぱ、そっくりぃ。
海斗クンも上手いコト言うわね」

「ちょっとぉ、瑞穂ってば!
あたし、真剣に話してるんだけど!」


月曜日の昼休み。
この間は入れなかった会社近くのイタリアンレストランへと、ランチを食べに足を運んだ。
約束通り、瑞穂の奢りで。

茄子とトマトのパスタに、セットのサラダを二人とも綺麗にたいらげて、あたし達は空のテーブルで食後のアイスコーヒーが来るのを待つ。


「だってさぁ、思ってた通りオトされちゃったんだもん、海斗くんに。
絶対に、菜奈が好きになると思ってたのよ。
あー、どうせなら、ミカ達と賭けておけば良かった」

「瑞穂……。ちょっと、本気で楽しんでるでしょ……。
あたし、真剣に悩んでるんだけど……」


ぶすくれて言うと、瑞穂は「うふふ」と笑った。


「あたしはね、嬉しいの。
菜奈が恋したことが」


頬に両手を合わせ、あたしに向かって首を傾げて見せる。
小悪魔のような可愛い微笑みで。


もう……。
こういうトコが憎めないんだよね、瑞穂って。


ふう、と、小さく息を漏らすと、ようやくアイスコーヒーが運ばれてきた。
ウエイトレスの手からテーブルの上にそれが置かれると、ホットにすれば良かったなんて、今更思う。
冷房が効き過ぎている店内は、パスタを食べ終わるまでに、身体の芯まで冷え切ってしまった。

店に入った瞬間は冷たいモノが飲みたいと思っていても、ほんの少しの時間でがらりと気分が変わってしまう。
何だか、今のあたしの状態みたいだ。

出逢った時は、あんなに嫌な奴と思っていたのに。
今は、頭も心も占領されるくらい、アイツのことが好きで、気になって仕方ないなんて。
冷たい方が良いと思っていたのに、温かいモノを求めるなんて。

薄っすらと汗をかき始めている目の前の黒い液体のグラスに、正反対の色のミルクを注ぎ入れると、お互いの色を主張するようにふんわりと模様が出来た。
ほんの少し前までの笑みを切らせた瑞穂は、ストローでそれを混ぜて単色にしながらあたしに言った。


「行かせちゃ駄目だからね」

「え?」

「だから、クラス会。
行かせちゃ、駄目」


瑞穂の手によってグラスの内側で回されている氷が、カラカラと涼しげな高い音を立てている。


「駄目って?」


訊き返すと、瑞穂はストローを動かす手を止め、呆れた視線を送ってきた。
そしてまたすぐに真剣な顔つきになり、上目遣いにあたしの目を見据えて言った。


「もし、菜奈の予想通り、海斗クンがその萩野さんって子のことが、昔本気で好きだったら、再会してその時の気持ちが甦っちゃうかもしれないでしょ?
昔の純粋な気持ちってさ、心の奥底に残ってて、なかなか消えないモノなのよ。
再会したら盛り上がる気持ちって、菜奈が一番よく分かってるでしょ?
元彼の信也クンと付き合ったのだって、同窓会がきっかけじゃない」

「………」


あたしは瑞穂に言葉を返すことが出来ず、ただ見つめ返した。
そして、テーブルの上のアイスコーヒーに目を落とす。


再会して甦る気持ち――。

……うん。
だから余計に、怖いんだ。

あたしは、それをよく分かってるじゃない。


高校生のあのときは、あれが恋だって――自分でもよく分かっていなかった。
ただ、いいな、って。
それだけだったと思っていたのに。

だけど、再会して大人びた彼を見たときに、何とも言えない気持ちになった。
込み上げてきたのは、懐かしさを含んだ甘いときめき。
大人になった今のあたしとは違う、駆け引きなんてないまっすぐで純粋な想いが蘇ったみたいで。
それが、一気に膨らんで、ドキドキして。
彼だって、同じだった。

だから、あたし達は何のためらいもなく、恋人同士になった。
言葉なんて必要ないくらいで――。
昔叶えられなかった想いが、そこに戻った気がして……。


そんな気持ちの高鳴りを、あたしは知っている。


瑞穂に言われてはっきりとする。
一昨日から、ずっと抱えている大きな不安――。

海斗も――。
昔好きだったひとに会ったら、そんな気持ちになってしまうんじゃないか、って。
それが本気で好きだったなら、尚更。


目の前のコーヒーの入ったグラスに張り付いた水滴は、徐々に大きさを増す。
あたしは喉を潤すことも忘れて、口元で手を組んでぼんやりとその様を見つめていると、瑞穂が言った。


「まぁ、その人が海斗クンの好きだった人かってことも、まだ分かんないんでしょ?」

「……うん」

「本人に訊けないの?」

「だって、アルバムだって勝手に見ちゃったんだし、訊けるわけないよ」


グラスから顔を上げてそう言うと、テーブルの上に置いてあった携帯電話が急に鳴り出した。
テーブルについたままの両肘に、バイブレーターの振動が伝わってくる。

すぐに手に取ってディスプレイを確認した。


――菅野くん。


思いがけずかかってきた菅野くんからの着信に、緊張が走った。


どうしよう……。
ちゃんと、菅野くんとも話さなきゃ……。
考えて欲しいって言われたんだもん。
もうあたしの気持ちは、ハッキリと分かったんだし……。


すぐに電話を取る勇気が出ず、手の中で音を出す携帯のディスプレイを少しの間見つめる。鳴り続ける携帯に観念し、あたしは通話ボタンを押した。


「もしもし……」

『菜奈ちゃん? 菅野だけど』

「あ、うん。あの、この間は……」

『ごめんね』


言おうとしたことを、菅野くんがするりと奪った。


「え?」

『ちゃんと無事に帰れた?
ゴメンね、ホント。俺が誘ったのに』


あれ?
海斗、あの時のこと、言ってないんだ?
海斗があたしのところに来てくれたこと。それに痴漢のことも……。
そうだよね。痴漢にあったなんて、あまり人に言うものじゃないもんね……。


「あ、うん。大丈夫。
あたしこそ本当にごめんなさい。
それに、ありがとう。楽しかったから。
城山さんにも、よろしく伝えてね」

『うん』

「あの……菅野、くん?」

『ん? どうしたの?』

「話が、あるんだけど……」

『それって、大事な話かな?』

「あ、うん」

『あー、ちょっと今さ、ごめんね、仕事の移動中であまり時間ないんだ。
取りあえずこの間のことが心配で、ちょろっと電話しただけ。
何か相談事とか、急いでる話?
大事な話なら直接会って訊きたいけど、いつが暇かな?』


いつが暇かな、って――それは会う約束をするってことだよね?
でも、あんな風に言ってくれたんだから、確かに電話でいいよ、っていうのも気が引けるし、きちんと答えないと駄目だよね……。


「あたしはいつでもいいよ。急ぎの話じゃないし。
菅野くんの都合に合わせるよ。」

『じゃあ、週末でもいい? 土曜か日曜。
今週ちょっと、平日は忙しくて。
また近くなったら連絡するから』


土曜か日曜?
海斗と、かぶらないといいけど……。
だけど、菅野くんとちゃんと話はしたいし、失礼な態度も取りたくない。


「うん、分かった」


あたしは電話を片手に小さく頷く。



『嬉しいなぁ。菜奈ちゃんとデート』


菅野くんの弾んだ声が聞こえてきて、驚いて一瞬固まる。


ええ!?
ちょっと待って!?
デート、って、違うんだけどっ!


「ちょ……っ! 菅野くんっ?」

『あ! ゴメン! キャッチ入った!
じゃあ、またメールする!』

「え!? あ……!」


反論する暇もなく、この間のようにまた電話は一方的に切れた。
通話中の音が虚しく響く。
あたしは、音を発する携帯を耳から離して、それを睨んだ。


何だか勘違いされてるの?
デートとは、かけ離れてるんだけど……。

でも、きちんと話はしたいし。
会って話すだけ、ってことは、連絡が来たらきちんと伝えなきゃ。


開かれていた携帯を元の二つ折りに戻すと、溜め息が洩れる。
その様子を、瑞穂はまた楽しそうに眺めている。

何だか楽しくなりそう、と、言葉には出さないけれどそんな顔つきだ。


相変わらず、半分は楽しんでるな、もう……。


あたしは、すっかり氷も溶けて薄くなったアイスコーヒーに、ようやく口を付けた。










海斗のことが頭の中を占めていて、気持ちは晴れないままずっともやもやと黒い雲がかかっているようだった。

それでも時間は容赦なく通り過ぎてくれ、週末を迎え入れる。

一週間なんて、あっと言う間だ。

忙しければ忙しいほど、そう感じてくれるはずなのに。
金曜日の今日に限って、何の予定もなく一人で帰るなんて。

そう思いつつも、あたしは寄り道もしないでまっすぐ家に帰る予定だ。
陽はもう落ちかけてはいるけれど、まだ暑い。
なるべく影を選びながら、駅に向かう。


会社を出る前、メールが届いていることに気が付いた。
海斗かと思ったのに、携帯を開いてみると相手は菅野くんだった。


『話だけど日曜日でもいいかな?
ちょうど担当店舗のスタッフが夏休みとか取る時期だから、平日は色々あって予定が決まらなくて、連絡が遅くなってごめんね。
菜奈ちゃんからの返事待ってるね』


何で、海斗じゃないかなぁ、と思う。
一応“彼氏”は、海斗のはずなのに。


海斗からは、相変わらずメールの一つもなかった。
会ったら女の子が喜ぶ所に連れて行ってはくれるけど、そういうところはマメじゃないみたい。

だから、声が聞きたいな、と思ってはいても、電話も出来なかった。
メールだって、自分からするのって何となく気が引けて……。
だって、自分からするのなんて、気になってる、とか、好き、って言っているような気がして。

これが可愛げないのかな。
意地を張っちゃうところ。

だけど、あたしの負けは決まってるんだもん。
ここであたしの気持ちがバレたら、ゲームセット。
あたし達の関係は終わってしまう。

だから何となく、不用意な行動や発言が出来なくって……。


土曜日か日曜日に会うという、あたしと海斗の曖昧な約束。
それなのに土曜日を目前にして、お互いに何の連絡もしてないなんて。


日曜日……。
菅野くんに返事をする前に、海斗に訊かないと。


あたしは歩きながら、バッグの中から携帯を取り出した。
そして、何度もかけたいと思っていた番号をアドレスから引き出す。

通話ボタンを押してそれを耳元に当てると、鳴り重なるコール音に緊張が走って、ドキドキと心臓が動き出した。


海斗は約束なんて、何とも思ってないのかな……。
あたしはこんな風に確約がないまま待たされるのって、結構キツイよ……。


『ハイ』


ぶっきらぼうに電話に出る、低い声。
やっぱり胸がぎゅっとした。


「菜奈だけど……」

『おー。オレも電話しようとか、思ってたトコ!』


あたしの声を聞いた途端、明るいトーンに変わった。

胸がまた、ぎゅぎゅっと委縮する。


ホントに調子いいな、もう。
「オレも」なんて言わないでよ。
いつもは意地悪なクセに、さ。


「あのね、週末の約束だけど、会うのって明日でもいいかな?」

『あー、日曜って何か用事でもあるの?
明日は波あるから、海行こうと思ってたんだけど』


――海?

そっか。
だから、土曜日か日曜日のどちらかなんだ。

海斗にとっては、サーフィンが一番なんだね。


かと言って、自分を優先されないのが嫌という感覚はなかった。

大好きな物があって、それに打ち込めるのって、素敵なことだと思う。
それに実際、この間海で見た海斗は、凄く格好良かったし。


――大きな波を操って楽しんでいる海斗の姿を、また見てみたい。


「ねぇ、あたしも一緒に行っていい?
明日、海に」

『……いいけど。
オマエ、つまんなくねぇ?』

「ううん。
海斗が波に乗ってるところ、ちゃんと見たいな、とか思って」


そう自分で言った言葉に、急に恥ずかしくなって動かしていた足を止めた。


本当のことなんだけど――。
本当の気持ちだから、海斗に何か悟られてしまいそうで……。


急に道端で止まって立ち尽くすあたしを、会社帰りのサラリーマンやOLは寸前ですり抜けていく。

ほんの少し沈黙が流れる。
海斗が黙るから、余計に恥ずかしさが込み上げてきて、どくどくと鼓動が速まる。


何でそこで黙るかな……。
何、考えてる?

早く何か、言ってよ。


握りしめた携帯に力がこもる。
息を飲むと、海斗が言った。


『朝、はえーぞ。
起きられる?』


海斗の声は、優しいものだった。


「馬鹿にしないでよ。
起きられるよ」


それなのにあたしは、また可愛げない言葉が口から出てしまう。

ふっと、声のない笑いが耳元に響いた。


『じゃあ、明日6時半に迎えに行く』

「うん」

『じゃーな』

「じゃあ、明日ね」


あたしが言うと、ぷつり、とそこで電話は切れた。
愛想がないなぁ、と思う。
けれど、身体の奥から堪らなく嬉しさが込み上げてくる。

もう繋がっていない携帯を握り締めて顔を上げると、夏の陽はビルの合間に沈み掛けていて、夕暮れの細い光と、いつの間にか灯し始めた街の明かりがそこにあった。
空は赤と紫に染まった雲と消えかけた朱色が広がっていて、その美しい街並みと空を目にした途端、ふっと笑みが零れた。


綺麗……。


自分でもゲンキンだな、と思う。
会う約束をしただけで、こんなに晴れた気持ちになるなんて――。

なぜか、行き交う人もこれから迎える金曜の夜を、心待ちにしているように見えてくる。

悩んでいたことが馬鹿みたく思えて。
明日会える時間を大切にしたいと思った。


萩野さんは昔のことで――。
あたしはあたし、だよね?


あたしは、もう一度掌に包まれた携帯を見つめてからバッグの中に滑り込ませると、止まっていた足を再び動かし始めた。

update : 2007.10.02