15

『大体オマエが留学したのって、アイツがいなくなったからだろ?』


柾さんが言っていた言葉――。

そんなことを聞いてしまったら、気にならないわけがない。


「ハギノ」という名前……。
海斗が留学するほどの理由を含んだひと……。

それに、行くかわからないと言っているクラス会。

それは、そのひとに会いたくないからなの?
それとも、会えない理由があるの?

――あたしには、言えないことなの……?





閉め切っていたせいでサウナ状態の部屋を、フル稼働し始めたエアコンが、唸りながら勢いよく涼しい風を吹き出す。
日当たりの良い二階のこの部屋は、白の薄いカーテン越しに、部屋中光が差し込んで明るい。


「その辺、適当に座って待ってて。
雑誌とかその辺にあるモノ、勝手に見ててもいいし。
あー、テレビでも見てるか?」


そう言いながら、海斗はあたしにテレビのリモコンを「ハイ」と手渡してきた。

さっき門を閉めた時の。あの辛そうな表情を微塵も感じさせない、明るいいつもの態度だ。


「ありがと……」


受け取ると、あたしは部屋のセンターに敷いてある、毛足の長い白いラグの上に腰を下した。
海斗はあたしが座り込むのを見届けると、クローゼットを開けて着替えを用意し始める。

背中を向けた海斗の隙に、あたしは部屋の中をぐるっと見回した。

――海斗の部屋。

男の人の割には結構綺麗にしてあるな、と思う。
それにインテリアも統一してあってお洒落だし、海斗っぽい感じ。

多分、10畳くらいの広さはある。
無垢のパイン材のフローロングに白い壁。
セミダブルのベッドに、無地のネイビーのベッドカバー。
床と同じパイン材の本棚とデスク。
籐にガラスの天盤の小さなテーブル。
壁に立て掛けたサーフボードが二枚。
大きな海の絵。

ハワイに留学してたとか、サーフィンやってるな、というのが窺えるような南国調のレイアウトとインテリアだ。
穴の開いた大きな葉を茂らせたモンステラの鉢植えが、この部屋によく似合っている。
本棚には英語のタイトルの本やサーフィン誌も並ぶ。

ベッドの上には脱いだままの服。
デスクの上の開きっ放しのノートパソコン。
床に散らばる雑誌に、空の500mlペットボトル。
こういうところはやっぱり男の人だよね、と思う。

好きな人の部屋って。
その人の趣味とか好みとか……私生活が少し覗けたみたいで、ちょっと嬉しかったりする。
海斗はいつもこの部屋で過ごしてるんだ、なんて。


「じゃー、ちょっと風呂行ってくる」


バタンと音を立てて、勢いよくクローゼットのドアが海斗の手によって閉められた。


「うん。どうぞごゆっくり」


あたしはそこに立つ海斗を見上げた。
床に座り込んだあたしの位置からは、いつもよりずっとずっと大きく見える。


「て、さぁ……」


海斗は急にあたしの前でしゃがみ込んだ。
そう思うとクククッと、また、あの楽しそうな笑い方をする。


「えっ? 何?」

「そんなに部屋中ジロジロ見て、何か粗探し?」

「えっ!? べ、別にっ。
だって、普通初めて入った部屋って気になるじゃん!
そんなこと言う方が、何か隠してるみたいだよ!」


もー。
やっぱコイツってば意地悪だ。

だって普通、気になって見渡したりするよね?


「隠してる、って……。
あー、別にエロ本とかねーよ?」

「エ、エロ本……」


って。


「ちょ……っ、そんなこと言ってませんっ!」


あ。
また吹き出してる!
笑い過ぎだってば! もう!


「顔赤いしー。
オマエからかうとマジで面白れーな」

「からかうって、何、もう!」

「冗談、冗談。
別にホントに見られて困るようなモノはないから、好きにしてろよ。
その辺にオマエが読めそうな雑誌もあるし」


楽しそうに笑いながら、海斗は本棚の横を指差した。
東京ウォーカーやサーフィンライフが、床の上に何冊か乱雑に重ねてある。

て。
ホントに笑い過ぎだから!


「早く行ってきなよ……」

「ハイハイ。
じゃ、ごゆっくり」


そう言いながら、海斗は背中を向けてぷらぷらと手を振ると、部屋を出て行った。


ごゆっくり、って、何、もう。
それって、あたしのセリフじゃないの?


渡されて手に持ったままのテレビのリモコンを思わず見つめる。
持て余したそのリモコンを、ガラスのテーブルの上に戻した。

しん、と。急に一人になって静まり返ってしまった海斗の部屋。
やっぱり何だか意味もなく部屋を見渡してしまう。


………。
一人でいる方が、何だかずっと緊張しちゃうよ。

好きにしてろ、って言われても、やっぱり他人の部屋だから、ね。
あまり触る気にもなれないし。
だけど、何もしないでただじっとこの部屋で待っているのも、ちょっと辛い。


あたしは海斗がさっき指差した雑誌に手を伸ばした。


東京ウォーカーって、もしかしたらシーパラのこと載ってないかな?
ちょうど夏休みだし、ふれあいラグーンってオープンしたばかりのはず。


それを手に取った瞬間、すぐ横の本棚が目に入った。

一番下の段の左端。白のがっちりとした背表紙に、黒のゴシック体の文字。
何かの知らせを受けたかのように、それはあたしの中に大きく映った。

『Toujyou high school Memorial 2002』

――高校の卒業アルバム、だ。


どくんどくんと、心臓が波打ち始めた。

嫌な、音。
嫌な、予感。


――ハギノさん
海斗が留学をした原因の人……。

きっと、女の子なんじゃないかと、そんな気がしてならない。

その人は、ここに。
海斗と一緒に、アルバムに写ってるの?


ゆっくりと手を伸ばす。


勝手に卒業アルバム見るなんて、卑怯かな……。
良くないよね……。

だけど……。
どうしても確認したい。


アルバムを掴んだ手が少し震える。

すうっと、棚板とアルバムが擦れる音が、静かな部屋の中に響いた。
重量感のあるその表紙は、校舎のモノクロの写真の上に、背表紙と同じ文字が刻まれている。

脈拍と心臓の動きは、更に速まっていく。
表紙を開く手の動きと一緒に罪悪感も込み上げてきたけれど、それでも開かずにはいられなかった。

厚い表紙を捲る。
最初のページは、学年の集合写真。
校庭での空中写真だ。

小さくても海斗はやっぱり目立つ。
沢山いる生徒の中でも、あたしはそのページの中からすぐに海斗の姿を見つけてしまった。
あどけない18歳の海斗の笑顔。
さっき会った柾さんも隣に写っていた。


3年1組。
小さな個人の顔写真が、ずらりと並ぶ。
海斗の写真は――ない。
あたしはそれでも、ざっとそのページの全ての名前を確認した。

――男子も女子にも「ハギノ」という名前はない。

けれど、次のページを捲るのにも、緊張する。


3年2組。

海斗……だ。

一番上の列の左から三番目。

このページでも、思わず目がいってしまう。
18歳の海斗もやっぱりカッコイイ、というか、可愛いな、とか思う。
明るい紺色のブレザーにえんじ色のネクタイが、高校生の海斗に良く似合っている。
今よりも幼い顔つきだけど、大きな鋭い瞳が印象的なのは今と変わらない。

小さな顔写真に見入って、思わずふっと笑みが零れた。

好きなひとの、昔の写真。


この顔を見ただけで緊張の糸が解れたみたい。
……不思議。


人挿し指で名前をなぞってみる。

――『大野 海斗』

海斗は……どんな高校生活を送ってきたのかな……?


そう思って横に視線をずらすと、目立って可愛い子が目に入った。
そしてその写真の下に小さく刻まれたあの名前が、あたしの目に飛び込む。

『萩野 未知花』

どきりと心臓が跳ねた。


ハギノ……ミチカ……?
やっぱり、女の子だったんだ。


ズキンと大きく胸が痛んだ。

あたしが考えていたような子とは、少し違った。
麻紀さんのように目立つ美人とか、瑞穂のように小悪魔的な可愛いさでもない。

清楚で、凛としている。
まるで一輪の百合のように。

セミロングのふわっとした黒髪と、透けるように白い肌。
大きくて優しい瞳に、緩く微笑むピンク色の唇。

あたしの中の海斗の付き合うようなイメージにはないタイプで――。
好きでもないのに付き合ったなんて、きっと有り得ないだろう。

それが余計にあたしの胸を苦しくさせた。
ぎゅうっと胸が押し潰されたように痛い。


――『やっぱりちゃんとした恋愛したことないんでしょ?』

――『あるって言ってるじゃん』


海での会話が頭の中を過った。

海斗が、本気で好きになった人――。

それはこの人なんじゃないか、と、写真を見ただけで直感した。



見なきゃ良かったのかな……。


あたしは苦しくなってぎゅっと目を瞑ったのと同時に、そのままアルバムを閉じた。

そして元の場所に、すぐに戻した。











横浜八景島シーパラダイスのふれあいラグーンは、つい最近オープンしたばかりだ。
CMでイルカに触れられるとうたっていて、あたし自身もテレビを見て知った。

鯨類ゾーン「ホエールオーシャン」、イルカ達のいる大きなプール。
鰭足ゾーン「ヒレアシビーチ」、セイウチやアザラシがいる三つの水槽と、パフォーマンスもあるアザラシ達に直接触れる広場。
魚類ゾーン「サカナリーフ」、東京湾の砂地と岩礁を再現した海水のプールは、実際入ってそこの生き物と触れ合えることが出来る。

三つに分かれた新しいスタイルの水族館で、海の生き物達と触れ合え、今迄にない感動を味わえるというのがコンセプトらしい。

夏休みが始まったこともあって、とにかく多くの人で賑わっていた。

一番の売りのコミュニケーションプログラム「イルカとおよごう」というプランは予約制で、当日のこんな時間に、とてもじゃないけれど予約なんて一杯で取れるはずがなかった。

大きなプールにはシロイルカ、バンドウイルカ、コビレゴンドウが優雅に泳いでいて、プールに手を入れることも出来るようになっている。
だけどとにかく人が多くて、プールに手を入れる距離までなんて近づけることさえ出来なかった。
夏休みの子供達が、きゃあきゃあ騒ぎながら楽しそうにしているのを、あたしと海斗は少し離れて眺めていた。


バンドウイルカが、空に向かって突然跳ね上がった。
キラキラとしぶきを上げながらくるりとスピンし、巨体が驚くほど大きな音を立てて水の中に戻る。
わあっと、歓声が上がる。

イルカ達は、見せることを楽しんでいるように感じさせるほど、サービス精神が旺盛だ。
なのに、慣れた様子でプールの際まで近づき触れさせてくれる気配を見せながら、観客をおちょくって楽しむかのようにぎりぎりですり抜けていき、触れさせてはくれない。
時には水しぶきを上げて、それを観客に引っ掛け、悪戯っ子のようだ。


あたしは、さっきのことなんて何もなかったかのように振る舞う努力をしていた。
至って普通の会話に、いつもの笑顔。

楽しいよ。
だって一緒にいるんだもん。
魚達だって感動するくらい綺麗だし、イルカだって可愛くてそれでいて格好良い。
夏の風に乗って漂う潮の香りが気持ち良くて。
目に映る青い海も空も、水上に浮かぶジェットコースターも、どれもこれも初めて見る都会的な横浜の景色は、綺麗。

だけど……。
楽しいんだけど……。

頭の中は、写真の中の彼女の笑顔が焼き付いて、離れてくれない。





「残念だったなー、イルカ触れなくて」


海斗が、天井を通り過ぎる小さな魚を見上げながら言った。
コレは、何て名前の魚なのかな。


「うん。でもいいよ。見られただけで。
可愛かったね」


炎天下の中のふれあいラグーンでは結局、イルカに触ることは出来なかった。
あたし達は魚達が待つ水族館のアクアミュージアムへと移動をした。

180度水槽の中を通るエスカレーターは、まるで海の底を散歩しているように思える。
青い青い水に、幻想的な光。
頭上を通り過ぎる幾千もの色とりどりの美しい魚達。


「綺麗……」

「そうだな」


ふっと、影が出来たかと思うと、大きなエイが頭上をひるがえった。
波を打つように、優雅にひれを羽ばたかせる。

魚の群れが通り過ぎるたびに、黄色や緑の光が反射する。
透明のガラスで出来た青い水のトンネルは、夢の中のようだ。


海中の大きなパノラマを通り過ぎると、薄暗い中に光る水槽を眺めて歩いた。
熱帯魚だけでなく、水の中に咲く花のような珊瑚やイソギンジャクも美しく、目を射る。

こんな風に綺麗なものを見ると、胸に込み上げてくる感動がある。
それが好きな人となら尚更だ。

だけど、幸せな気分と一緒に、小さくて美しい魚を目にする度にあの顔がちらつく。
大きな魚達の合間を縫うように泳ぐ、小さくても目立つ美しい魚……。


ふと、海斗の指先が、あたしの指に触れた。
そのままこの間と同じように、海斗は自然とあたしの手を取る。

何の躊躇もなく、美しい水槽の前で繋がれた、手。

目の前の青や緑に光を放つミズクラゲに視線を奪われている海斗の横で、あたしはその繋がれた手を見つめた。


「ねぇ」

「ん? 何?」


海斗は、ふわふわと光を放ちながら泳ぐミズクラゲから、あたしの方へと顔を向ける。
あたしは、海斗を見上げて言った。


「行かないの?」

「は? 何が?」

「クラス会」


急にそんなことを言われて驚いたのか、それとも後ろめたい気持ちでもあるのか、海斗は眉を顰めると黙ってあたしを見つめた。

目の前にあるミズクラゲの水槽の青が、海斗の顔も青く照らす。
白っぽい透明な体に、真ん中の四つの輪で作られた柄が花開いているように見える幻想的なミズクラゲ。
静かにそこに美しく揺れている姿を見ていると、そのほんの少しの時間が長く感じた。


「……何で?」


海斗は苦笑いを浮かべる。


「分かんない、って言ってたから。
皆に久し振りに会うんでしょ?
行けばいいじゃん」

「………。
別に、会いたいヤツなんて、いないし」


海斗はそう言うと、止まっていた足を動かし始めた。
だけど口を一の字にぎゅっと結んで、苦しそうな瞳の色を覗かせた。

繋がれた手が引っ張られて、あたしもミズクラゲの水槽の前から歩き出す。


――会いたいヤツなんていない……
本当に?

萩野さんは……?


訊きたいけれど、それ以上は訊けなかった。
その名前の人が海斗の好きだったひとなのか、とか、彼女だったのか、とか、それさえ知らないのに。

あたしは馬鹿だ。

何も知らないのに、こんなことばかり気にして。
大体、たとえ何があったって、昔のことでしょ。


近くの水槽で、また足を止めた海斗を見上げた。

海斗は、ミズクラゲの前で見せたあの顔つきではなく、いつもの様子で笑った。
そして、水槽を指差す。


「コイツ、オマエに似てない?」

「え? 何? どれ?」

「コレ」


ミナミハコフグ……。


「な、何でフグなの!?」

「アハハ。ほら、それが。
すぐ頬っぺた膨らますじゃん、オマエ」

「ちょ、ちょっと! 失礼だよっ!」

「なんだよー。ほら、可愛いじゃん」


可愛いじゃんって。
あんまり嬉しくないっ!

何よ、もう。


ふい、と、視線を逸らせて目の前の水槽のガラスに、手を突いて覗き込んだ。

薄い黄色の身体に黒と黄色の水玉模様。
黄色い尾とひれの、ミナミハコフグ。


何よ。
いいもん、別に……。
愛嬌があって可愛いじゃんか。
分かってるよ。
どうせあたしは綺麗な熱帯魚じゃないよ……。


すぐ横の海斗を、また見上げる。

さっきとは本当に違う。
いつものように、意地悪そうに笑っている。


また、似てる、とか思ってるんでしょ、どうせ。


「海斗は、さ」

「ん?」

「イルカに似てるよね」

「イルカ?
何だよ、それこそカッコイイじゃん。
何で?」

「自由気ままな感じ、が」

「………。
ふーん。
自由気まま、ね。そうかもな」


そうだよ。

ホント、イルカみたいだよ。

人目を引いて、格好良くって。
自由気ままで、慣れた様子で楽しんで。
人懐っこく近づいてきて、するりと人の心に入り込む。

――だけど捕まえられそうで手を伸ばすと、優雅にそれをすり抜けてしまうんだ。

update : 2007.09.25