14
このままでいたいなぁ……。
ゆっくりと不規則に撫でられる髪。
あたしは自然に。本当に自然と海斗の腕に、そっと頭を凭せかけた。
そんな自分が不思議で――でも、当然のようで。
あんなにムカツク奴と思っていたのに。
今は――傍にいたい。
この場所を独占したい、なんて。
この場所が心地良い、なんて。
海斗は口を噤んだままで。
触れてくる指先は、滑り込むように優しくあたしの髪を梳いてくる。
あたしはゆっくりと瞳を閉じた。
だけど、いきなり忙しなく鳴り出した音に、閉じたはずの瞳はすぐに開かされた。
壁際に掛けてある海斗のジャケットのポケットから、着信音と一緒にバイブレーションの音が響いている。
大胆なことをした自分に一気に恥ずかしさが込み上げて、海斗から頭もぱっと離すと、その音は鳴り止んだ。
「電話?」
気恥しさを誤魔化すように、何事もなかった風を装って普通の声のトーンで訊ねた。
「あー。メール」
海斗は答えると、あたしの髪に触れていた手を止めて、まじまじとこちらを見た。
落ち着いてきていたはずの鼓動が、注がれた視線によってまた速めさせられる。
「な、何?」
やっぱり、あたしの行動って怪しかった!?
「んー、別に……」
海斗は少し眉を顰めると、立ち上がって徐にジャケットの方へと向かった。
そしてそのままポケットから携帯を取り出し、その場で開く。
――あれ?
海斗は開いたメールを見て、一瞬、表情が変わった。
あたしでも気が付くくらい、それは驚いた顔つきだった。
「どうかしたの? 何かあった?」
「あー。何でもない。友達から」
「そう?」
友達、って……女の人からじゃないのかな?
だって、顔、変わったじゃん……。
何か嫌だなぁ。こんな風に考えちゃう自分……。
「ああ」
「何?」
「言っとくけど、女じゃないし。
中、高が一緒だった昔からの男友達」
海斗は、今度はテーブルを挟んであたしの対面に腰を下した。
また、楽しそうに笑っている。
……て。
もう! 何で考えてること、バレてるのよ!
確かに、男友達って聞いてほっとするけど。
「だから! そんなこと言ってないしっ!」
「顔に出過ぎだろー?」
「別に海斗の女関係なんて、あたし気にしないもんっ。」
「へぇー。余裕だねぇ」
「そんなんじゃないし!」
「まぁ、いいけど。
ふぁ〜……。あー、オレ、眠い……」
あたしがドキドキしているのも関係ない様子で、海斗は大きな欠伸をした。
そして、そのままテーブルの上に頭を腕で覆うようにして伏せる。
て、ゆーか。
余裕なのはそっちじゃん……。
そんな様子を見ていると、海斗はすぐに顔を少し上げた。
筋肉質の腕の上から、大きな瞳がこちらを覗くように見てくる。
こういう仕草が可愛いとか思っちゃうのって、やっぱりイイ男の特権だと思う。
ただそれだけで、ドキドキさせられる。
何で黙ったまま、そんな風にあたしのこと見るのよ……。
目を合わせていられなくなって逸らすと、海斗はぽつりと言った。
「なぁ、泊まっていっていい?」
「は?」
今、泊まって、って言った!?
「もう遅いし、眠い……。
ソファー貸して」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何言って――」
いきなり、何言ってるの!?
だけどあたしの慌てようも無視して、海斗はすくっと立ち上がりソファーに向かった。
ボン、と勢いよくそこに寝転がり、肘掛けから長い足をすらりと強調するように放り出す。
そして、横になったままその場で顔をこちらに向けると、にやりと笑う。
「か、海斗ってば!」
「大丈夫、約束守るし。
それにオマエにがっつくほど、オレ困ってないし。
オマエももう風呂入って寝れば?
じゃー、オヤスミ」
海斗はそう言い切ったあとに、クッションを枕にしてすぐに目を閉じた。
「ええっ!?
ちょっと! 海斗っ!」
困ってない……って何よ!?
風呂入って寝れば……って、何でそんなに勝手なのよ!
大体、まだ電車だってあるのに!
確かにもっと一緒にいたいとは思ってたけど。
帰らないで、って、言ったのもあたしだけど。
泊まるって――そんなの、気になって眠れないよ!
「もう……」
呆れた声を出しながらも、クローゼットにタオルケットを取りに行った。
そして、気持ち良さそうに目を閉じた海斗の身体にそれを掛けて、あたしは照明を落とした。
いくら寝ていると言えど、海斗が部屋にいるかと思うと、ゆっくりとお風呂になんて入っていられなかった。
簡単にシャワーを済ませて、あたしもすぐに自分のベッドに横になった。
1LDK+Sのあたしの部屋。
寝室にしているサービスルームは三畳の狭いスペースで、ベッドによって大半を占領されている。
もちろん、この部屋にエアコンという代物が付いているわけなんてなく、普段は常に部屋続きのドアは開け放して、リビングのエアコンを効かせている。
小さな窓はあるけれど、そこを開けたままで寝るなんて物騒なことが出来るわけもなく、リビング側を閉め切ると暑くて眠れないから、結局いつものようにドアは開いておいた。
まぁ、もう本当に寝てたし。
大丈夫だと思う……。
ベッドに横になっても、放たれたドアの枠の向こうに、ソファーが一部だけ見える。
丁度右側で、海斗の顔が見える方だ。
暗くてハッキリとは見えないけれど、天井を向いた横顔は、高い鼻と唇と綺麗な顎のラインが、薄っすらと入り込む街灯の光でそこに浮き出されている。
海斗がいたらドキドキして眠れない、なんて思っていたけれど、あんなことがあったせいか、そこにいてくれるだけで安心できた。
耳を澄ますと聞こえてくる規則的な微かな寝息が、あたしの気持ちを落ち着かせてくれて、心に温かいものが込み上げてくる。
――これって。
やっぱり気にして泊まってくれたのかなぁ?
そんなことを考えながらその姿を見つめていると、いつの間にかあたしは眠りに落ちていた。
「きゃあ!!」
ブラインドから漏れる朝の光が眩しく感じて瞼を開けると、いきなり目の前に海斗の顔があって、あまりの驚きに大きな声が出た。
たった今、目を覚まさせられたというのに、心臓はバクバクと大きく音を立てている。
急なことにわけが分からず、夢と現実がごっちゃになっている気がする。
「声、デカすぎ」
そう言いながら眉間に皺を寄せて片目を細めたかと思うと、あたしを覗き込んでいたその顔はすぐに離れた。
あたしは少しでもその心臓の音を鎮めようと、胸に手を当てて素早く身体を起こした。
深呼吸のような深い息を吐き出すと、ベッドの横に立つ海斗を睨み上げた。
「だって、普通ビックリするよ!」
「まだホントに寝てるのかと思って」
「寝てたし!」
「早く起きろよー。めっちゃ腹減った。
考えてみたら昨日の夜って、飯もろくろく食ってねーじゃん」
海斗は待ち切れない、といったご様子だ。
そっか。考えてみたらあたしもだ。
そうだよね。
あのタイミングで来てくれた、ってコトは、あたしがお店を出た後、すぐに追いかけてきたんだろうし、食べてないよね。
冷蔵庫の中味なんて、こんな時に限ってろくな物が入ってなかった。
「食えれば何でもいい」と海斗は言ってくれたけど、本当に簡単なものになってしまった。
トーストと、ハムエッグにレタスを添えて。あとはコーヒーにヨーグルト。
初めて作ってあげる料理なのに、誰でも作れるようなもの、と言うか、料理とも言えないほどかもしれない……。
でも朝からガッチリ作るのも変だし、こんなものだよね?
大体、今、自分の部屋でテーブルを挟んで海斗と朝ご飯を食べてること自体が、何だか変な感じ。
妙にくすぐったいっていうか……。
しかも、すっぴんだし。
朝からこんな風に一緒なんて、恥ずかしいっていうか……。
あたし達、キスだってしていない関係なのに。
あたしがいくら悶々としていても、海斗にとっては関係ないみたいだ。
平然とした顔で、大きく開けた口にトーストを運んでいる。
豪快な食べ方で、見ていて気持ち良いくらい。
そんな姿は、まるで図体だけ大きな小学生の男の子を見ているようで、可愛い。
思わず顔が綻ぶと、海斗が急にこちらを見て目線がぶつかった。
「何だよ? またオレに見とれてんの?」
「ち、違うし!
もー! 何でいつもそうなるのよ。
ただ、食べ方が豪快だなぁって」
「腹減ってたし。
て。菜奈チャン、お料理お上手ね。美味いよー」
首を傾げてニヤニヤしている。
あー絶対、馬鹿にしてる!
確かに料理って、そんなに得意な方じゃないけど、さ。
どうせ出来ないとか、思ってるんでしょ……。
「目玉焼き褒められても嬉しくないっ」
「じゃー、次回に期待だな。
オレ、和食がいいな。やっぱ、肉じゃが?」
「………。
今度、ね」
あたしは表情を崩さないように答えた。
だけど本当は、こんな約束って嬉しい。
肉じゃがくらいなら普通に作れるけど、ちゃんと練習しておこう。
「で。今日、どこ行く? 考えた?」
海斗はコーヒーを片手に訊いてきた。
テーブルの上の海斗の分の朝食は、既に殆ど食べ尽くされていた。
どこ行く、って……。
そっか。今日、これから一緒に過ごすんだ。
デートの約束、だもんね。
そんなの、こんな状況で、頭から抜け落ちてたよ。
あたしはトーストを手に持ったまま、その質問の答えを探る。
海斗と行きたいところ……。
「……あ!
八景島シーパラダイスに行きたいかも!
確か、イルカに触れるんだよね?」
海斗って、やっぱり海ってイメージ。
あたしも水族館って好きだし、きっと二人で行ったら楽しい。
そう思って言ったのに、海斗は鼻の頭をくしゅっとさせた。
「コドモー」
「えー、何でよ。いいじゃん。可愛いじゃん、イルカ。
海斗も触りたくない?」
「オレ、イルカと泳いだことあるよ」
「え? ホントに?」
「ハワイに留学してた時な。
イルカって人懐っこいヤツもいるんだ。
野性のヤツでも慣れたヤツだと、一緒に泳いで遊んだりしてくれるんだよ」
「えー、いいなぁ」
「じゃー、行くか? シーパラ」
「うんっ! 行く!」
「その前にオレんち寄って。
シャワー浴びて着替えたいし。それに車で行くだろ?」
「うん」
――海斗の家。
なんか、緊張するかも。
実家って言ってたもんね。
でも、嬉しいな、なんて思ったりする。
家に連れていってくれるなんて。
あたし達は、コーヒーを飲みながらくだらない話をして、ゆっくりと支度をしてからアパートを出発した。
駅までの道のりを横に並んで歩いて。
電車を乗り継いで、海斗の家に向かった。
朝起きたら目の前にいて、一緒に朝ご飯を食べて、電車に乗って出掛けるなんて。
まるで本当に普通の恋人同士みたい。
何だか、そんな風に錯覚してしまうくらいだった。
海斗は相変わらず口も悪いし、あたしのこと、からかってばかりだけど。
――でも、最初の頃の刺々しさは、もうない。
あれは、あたしが痴漢と勘違いしたから悪いんだけど……。
それでも――あの時のことがなければ、いくら合コンで会ったからって、きっとこんな風にはなっていなかった。
もしかしたら、瑞穂かミカと付き合っていたのかもしれない。
そう考えると、あの最悪の出逢いは、あたしにとって凄く凄く大切なモノなんだ。
「ここがウチ」
海斗が指差した家は、あたしの予想に近いものだった。
50〜60坪くらいあろう敷地に建つのは、白い木目の壁とグリーンの屋根の洋館。
物凄く大きな家、ではないけれど、都内の一等地にこれだけの家だったら、かなり立派だと思う。
赤茶系のクラッシックなレンガで出来た塀の横には、大きなシュロがシンボルツリーとしてそびえ立っている。
駐車場は二台分あって、海斗の紺のゴルフトゥーランが停まっている。
恵比寿に自宅があるなんて、ある程度お金がある家なのだろうとは思っていたけど……。
しかも、ハワイに留学させられるくらいだし。
「立派なお家だね」
「そう?
まぁ、オレのじゃなくて親父のだしな。
多分誰もいないから、遠慮しなくていーよ」
海斗は、レンガで出来た背の高い門柱の横の、黒い金属の繊細なデザインの門を開けて、あたしに中に入るように促した。
門から中の玄関までのアプローチも、塀や門柱と同じ色彩のレンガ敷きになっていて、合間にはヘデラや小さな植物がセンス良く植えられている。
手入れがされているなぁ、と、感心させられる綺麗で心地良い空間だ。
玄関ポーチまで入ると「海斗!」と、後から男の人の大きな声がした。
声の方へ振り向くと、家の前の道路に、大きなゴールデンレトリバーを連れた同い年くらいの男の人が立っていて、海斗に向かって手を振っている。
「柾(まさき)!」
声を上げながら、海斗は閉めかけたはずの門を開いた。
「何だよー。家近いのに会うのは久しぶりだよなぁ」
「そうだな。
おー。レインも元気だったかー?」
海斗は腰を屈めると、ふわふわの頭を撫でた。
レインと呼ばれたそのゴールデンレトリバーは、気持ち良さそうに頭を撫でられたあと、海斗の足に絡みつき、じゃれ始めた。
どうやら、海斗の仲の良い友達らしい。
既に玄関のドアの前に立っていたあたしは、久し振りに会った友達との会話を邪魔するのが悪いかなと思い、とりあえずそこに立って待った。
「レイン、海斗にあんまりくっつくなよ。スーツが汚れるだろ?
あー、海斗、昨日の夜メールしたけど見たか?
クラス会、行くだろ?」
柾さんはリードを短く持って引っ張り、海斗にじゃれつくレインを引き剥がした。
そういえば……。
昨日の夜のメールって、中、高が一緒の昔からの男友達って言ってたよね。
それって、今いる柾さんのこと?
クラス会の知らせのメールだったんだ?
何で言わなかったのかな。
特に、隠すような話じゃないよね?
「行くかまだ分かんねー」
海斗は素っ気なく答え、柾さんはそれを聞いて眉間に皺を寄せた。
「は? 何で?
そういや、萩野がこっちに帰ってきてるって。
海斗、知ってた?」
「知らねー……」
「萩野も来るってさ。オマエも来いよ」
「だから分かんねーって」
「だから何でだよ?
大体オマエが留学したのって、アイツがいなくなったからだろ? なのに――」
「柾!」
海斗は、少しイラついたように柾さんの言葉を遮った。
そしてあたしの方へ急に振り向いた。
振り向いた海斗の顔と、視線がばちりと合わさる。
何だか聞いてはいけない話を聞いてしまった感じがして、胸の辺りがざわざわとする。
「ああ、ゴメン。
……彼女?」
柾さんはここにいるあたしの存在にようやく気が付き、覗きこむようにこちらを見た。
あたしは、ぺこりと頭を下げた。
それを見て、彼も同じように頭を軽く下げてくる。
「じゃあ、オレいくわ。
また連絡入れる」
柾さんは、ぽん、と海斗の腕を軽くはたいた。
「ああ」
「レイン、行くぞ」
リードを引き、柾さんとレインはゆっくりと歩き始めた。
海斗はそれを見送ってから門を閉める。
鍵を閉めて顔を上げた瞬間、あたしと視線が合わさった。
「お待たせ。ゴメンな」
そう言った海斗は、いつもの笑顔だった。
「ううん」
あたしも、口の端をきゅっと上げて笑った。
だけどその表情とは反対に、大きな不安みたいなものが押し寄せていた。
俯きながら門を閉めたその時の顔が、苦しげに歪められたのをあたしは見逃さなかったから。