13

ドキドキと心臓を打ち付けるスピードは速まる一方なのに。

それなのに、この場所が。
海斗の力強い腕の中は温かくて、心地良くて。
ほんの少し前までの恐怖感を、全て包んで閉じ込めてくれる。


……好き。


全身に熱く甘い気持ちが広がっていく。


どうしよう……。
海斗はあたしのことなんて、何とも思っていないのに。


ギュッと胸が痛くなった。
さっきの麻紀さんの笑顔まで思い出される。

背中に回していた腕に力が入って、海斗の胸に顔を埋めた。


「菜奈……?」


不思議そうに少し語尾を上げた声が、頭の上から聞こえる。


そうだよね。
こんな風にあたしが抱きつくなんて、おかしいとか思うよね……。

あたしの気持ちがバレたら――
やっぱりそこで、ゲームセット、なのかな……。


「まだ落ち着かないか? 大丈夫か?」

「……ううん、大丈夫。
ありがとう」


腕の力を緩め、顔を上げた。
海斗は、心配そうにあたしを見下ろす。


「心配掛けさせんな。
こんな時間に一人で帰るなよ」

「ご、めん……」

「無事で良かったよ」

「………」

「送ってく」

「……うん」


小さく頷くと、海斗の身体が離れた。

もう、触れている部分なんてないはずなのに。
海斗の体温が、あたしの全身に棲みついたように残っている。
身体が、熱い。


海斗は、地面に落とされたままの紙袋二つを軽々と拾い上げ、肩に掛けた。
店を出たときに受け取ったノベルティと、菅野くんから貰った『sweet rose』の紙袋だ。
この袋の中には、貰ったワンピースと入れ替わりに、元々今日あたしが着ていた服と靴が入っている。


今着てるワンピースが菅野くんから貰ったモノだって、きっと海斗は気付いてるよね……。


バツが悪くなって俯くと、右手を取られた。
大きな掌が、あたしの手をすっぽりと覆った。


「行くぞ」


低い声がそう言って、手が引かれる。
あたしはなされるがまま、海斗に合わせて歩き出した。

海斗は何も訊いてこない。無言のままだ。
あたしも同じように口を噤んでいた。
ただ静かに、二人の足音だけがまっすぐに伸びる道に響いている。

だけど本当は。
訊きたくて、訊きたくて、仕方なかった。

――麻紀さんとのこと。


それに、あたしのこと、少しも気にならないの?
だから何も訊いてこないの?

それとも、今あんなことがあったばかりだから、気を遣ってるだけ?

本当はちゃんと話がしたいよ……。

なのに、何で言葉が出てこないの……?




アパートまでの距離は、ほんの数分。
手を繋いで一緒に歩いた時間は、本当にあっという間だった。

目の前の金属で出来た階段を見上げると、あかりの点いていないあたしの部屋が、そこから寂しげに見えた。

この階段を上り切れば、もうそこで海斗は帰ってしまう。

一緒にいたい。
いて欲しいのに……。


そんな気持ちとは裏腹に、ただ足を前に進めるしかなくて。

一段、一段、階段に足を下す度に、ヒールと金属が合わさる音が夜空に上がる。
何だか、カウントダウンをしているようにも思えてくる。

それでも海斗に腕を引かれて、重い足取りを無理矢理動かして階段を上り切った。

部屋のドアの前で足が止まると、あたしの掌を握る海斗の力が緩まって、ゆっくりとその手が離れた。


「明日、昼くらいに迎えに来るよ。
どこか行きたいトコあったら考えときな」


海斗はそう言うと、持っていた紙袋を床に置いて、あたしの額を小突いた。


「じゃあな。ちゃんと鍵閉めろよ」


背中が向けられる。
あたしは何も言えないまま。
少しずつ、その後姿が遠くなっていく。


やっぱり何も訊かないの?
何で?
そんなにあたしのこと、気にならないの?


あたしは喉まで込み上げてくるモノを抑えきれなくなって、思わず海斗の背中に手を伸ばした。


「帰らないで……!」


その言葉が出た途端、自分でも何を言っているんだろうと、掴んだ海斗のシャツをぱっと放した。


ヤダ……。こんなのって何だか誘ってるみたいじゃん!
何言ってるのよ、あたし!


一瞬にして頭に血が上り、火照った顔を伏せた。


絶対コイツのことだから、深読みして笑ってるよね?


そう思ってちらりと目線だけ上に這わせると、海斗の顔は笑うどころか心配そうな顔つきであたしを見つめていた。


――あれ?


「怖いのか?」

「……え?」

「そうだよな、あんな目にあったんだもんな……。一人でいられないよな。
気が利かねーな、オレ。ゴメンな」


海斗は自分自身に呆れたように、大きく息を吐き出した。


きゅううっと、胸が締め付けられる。


な、何かホントに調子狂うよ……。

そんな優しいコト、言わないでよ。
余計に好きにさせないでよ。
いつものように、冗談で済ませてよ。

どんどん辛くなるじゃない……。


今にも泣き出しそうになるあたしを、海斗はまっすぐにみつめてくる。


「そんな顔するなよ。ちゃんと傍にいてやるよ。
約束したろ、手ぇ出さないって。
だから安心しろよ。オレのこと、ちょっとは信用しろ」


真剣な顔で海斗はあたしに言った。


「……うん」


あたしも真剣な顔でそう答えた。









お湯を注ぎ入れると、たちまち狭い部屋中にほろ苦い香りが立ちこめた。
つい今挽いたばかりのコーヒーの粉は、濾紙の中でぷっくりと膨らみ、今度はみるみる吸い取られるように萎んでいく。
インスタントではなく、わざわざ挽いた豆でコーヒーをたてたのは、時間稼ぎのようなもの。

出来るだけ一緒にいたいという気持ちもあったけれど、どちらかというとそうじゃない。
訊きたいことが沢山あるのに、それがなかなか口に出てくれないから。
それに一度何か言ったら、次々に言葉が溢れ出してしまう気もしたし。
とにかく、心の準備をしたかった。

ちらりと海斗の方を見ると、いつもはあたしが一人で占領する赤いラブソファーに寛いでいる。
何だか、不思議。
それでいて、心臓が落ち着かない。

コーヒーが全て落ちると、マグカップ二つに注いだ。
ふわふわとそこから上がる湯気を見ていると、それこそ半分夢でも見ている気さえしてくる。


なんて切り出そう……。


部屋に入ってから、お互いにまだ一言も口をきいていない。
無性に緊張しながら、あたしはカップを海斗の前のテーブルの上に置いた。


「どうぞ」

「サンキュ」


海斗はすぐにカップを片手で取り上げ、そのまま口元へと運ぶ。
あたしもそれに倣ったように、立ったまま口づけた。


「……っつ!」


コーヒーのあまりの熱さに、舌を急いで引っ込めたけれど遅かった。
淹れたてなのは分かっていたはずなのに。

海斗が驚いて立ち上がる。


「どうした?」

「舌、ヤケドした……」

「何だよ、バッカだな。
見せてみ?」

「いいよ、平気だから」

「いいから見せろよ。ほら、舌出してみ」


顎先に海斗の指が触れて、ぐいっと持ち上げられた。
心臓の動きが一層速まる。


……強引だな。
それに、顔、近いし……。

だけど、嫌じゃない、かも。


あたしは言われた通りに舌を出した。
海斗は、じっと間近であたしを見つめる。


「変な顔」


こ、コイツ……っ!


「見せろって言ったクセにっ!」


思わず大きな声を上げると、海斗はニッと笑った。


「その調子、その調子。
そのほうが、オマエっぽい」

「――!」


振り上げようとしていた手が、中途半端に止まってしまった。


何よ、もう……。
ホントにコイツって……。


あたしは行き場のなくなった掌を降ろすと、海斗から少し離れて床に座り込んだ。
そしてカップをテーブルに置き、一息吐いて、ようやく切り出す。


「あの、さ」

「何?」

「何で麻紀さんといたの?」


切り出せたのはいいけれど、いざ言葉に出してみると激しく心臓が鳴り出した。


何で好きでもないのに、そんなこと訊くのかと思われるかな。
でもあたしたち、一応は付き合ってるんだから、おかしくはないよね?


ドキドキしながら返事を待つと、海斗は少し眉を顰める。
そして少しの間、口を噤んだままあたしを見つめてから言った。


「それ、オレもオマエにそのまま返したいけど?」

「……う、ん……」

「大体、そのワンピース、菅野に貰ったのか?」


海斗は、怒ったような、呆れたような、そんな口調であたしを見る。


確かに、菅野くんから貰ったのはあたしが悪いけど……。
じゃあ、麻紀さんは――?


「貰った、けど……麻紀さんも着てたよね、同じワンピース。
海斗がプレゼントしたの?」


海斗は一瞬、目を瞬いた。
けれど、ふうん、と、余裕さえ見せる表情で、ソファーに座り込んで深く凭れかかった。


「麻紀はウチの会社の販売アドバイザーだし、たまたま同じ服持ってて着てきただけだろ。
同じ会社って言っても部署が違うし、アイツは地方出張が多いから社内では滅多に会わないんだよ。
今日は、たまたま麻紀も招待されてたみたいで、入り口で偶然会っただけ。
別に約束してたわけでも、一緒に行ったわけでもないし。
オマエと違って、な」


麻紀さんとは、同じ会社?
偶然会っただけ……?
あのワンピースも、海斗があげたわけじゃなかったの……?


ほっとしたのと同時に、ずきん、と胸が痛んだ。
『オマエと違って』という、海斗の言葉に。

何て答えていいのか、言葉が詰まる。


「ご、ごめんなさい……。だって……」

「だって、って、何?」


海斗はこれ見よがしに溜め息を吐いて返してくる。


――それなら麻紀さんの家に行ったのは何で?
携帯忘れたのは、事実だよね?


「……見たんだもん。
木曜日、海斗が麻紀さんから携帯返してもらってるトコロ。
家に、忘れたって……」


海斗は面喰ったような表情を見せた。
そうかと思うと、すぐにぶぶぶっと、凄い顔をして噴き出した。


「ちょっ……! 何で笑うの!?」

「オマエさぁー。何だよ、やっぱそれってヤキモチ?」

「ち、違うしっ!
だけど普通そんなのって、彼女だったら怒るでしょっ!?」

「面白れー。対抗してみたんだ?」

「ちょっとっ!」


酷過ぎない!?
また馬鹿にされてる!?
大体、対抗って何よ!
確かにそう……って言ったらそうだけどっ!

菅野くんとのことも心配じゃないの?
ちょっと余裕過ぎだよ、海斗!

いや。だから笑い過ぎでしょっ!?


お腹を抱えて笑う海斗に「もう!」と、頬を膨らました。
ついでにその位置から横目で睨んで、ふん、と顔を叛けてやった。


あたしってば子供過ぎ?
こんな態度だから駄目なのかな。


そうしていると笑い声が止まって、海斗が言った。


「麻紀って、鎌倉にあるサーフショップの店長の娘なんだよ」

「え……?」


結局、海斗と反対を向いていた顔を元へと引き戻させられる。
見上げた顔はいつものように、あのちょっと意地悪そうな笑顔だった。


「久々に、顔出したんだよ。日曜は大体、仲間が集まってるし。
朝、七里で波乗りやって、昼前には上がって、皆とそのまま店に行ったんだ。
店の二階が自宅になってんの。
そこにヤロー共で押しかけて、飯とか食うワケ。
まぁ、溜まり場ってやつ」

「そ、そうなの?」

「つーか、安心した?」


安心した、って――。


急激に頭に血が上って、顔が火照る。


あたしってば何かどつぼにハマってるかも。
勘違いだったなんて……恥ずかしい!
絶対に嫉妬だと思われてるよね?

でもあの状況で勘違いしないってのも、オカシイよね?


「何? オマエ、やっぱオレに惚れた?」

「だ、だからっ! 深読みしないでよっ! 違うし!」

「へぇー」

「だって普通は一応彼女だったら、女の人の家に携帯忘れたなんて、怒るでしょ!?
確かに勘違いだったけどっ」

「ハイハイ」


海斗は軽くあしらうように、ソファーの肘掛けに片肘をついて返事をする。
口元は上がっていて、満足気にさえ見える。


ちょ、ちょっと……やっぱり絶対変に思ってるよね?
すっごいニヤついてるし。
ああ、もう、ヤダ……。

だけどバレてないよね?
あたしが好きだってコト――。


好きだってバレたら、そこでゲームは終わってしまう。
あたし達の関係もそこで終わりだ。



「オマエ、さぁ……」

「な、何……?」


その言葉の前までは意地悪そうな笑みを浮かべていたのに、海斗の顔つきは変わっていた。
真面目な顔であたしをじっと見る。

何だろうと思うと、海斗はすくっと立ち上がった。


「いーや。やっぱ、何でもない」

「え? 何?」

「それより、少しは気分、落ち着いたのか?」


海斗はそう言いながら、あたしのすぐ横に腰を下した。
そして顔を覗き込んでくる。

酷く優しい表情だ。


「……う、ん」


脈拍がまた急激に上がっていく。
痛いくらい。
その理由が何故なのか、自分でも分かる。


意地悪だったり、口が悪いけど……。

だけど――。
優しいところもある。
こんな風に、心配してくれるところもちゃんとあって。

さっき痴漢にあったときだって。
海斗のことが自然と思い浮かんだ。
海斗に助けて欲しい、って思った。
それを本当に助けてくれちゃうんだもん……。


「ねぇ、ごめんね?」

「何が?」

「最初の時、痴漢なんて勘違いして。
海斗が、痴漢なんてするわけないじゃんね。
さっき助けてくれて、凄く格好良かったよ?」

「あったりめーだろ」


海斗は当然のようにそう言った。
そして、あたしの髪に触れた。

ゆっくりと、優しく、大きな掌が安心させるように、あたしの頭を撫でてくる。
触れた部分から、海斗の温かさが伝わる。

ドキドキは止まらないのに。
その温度が、気分を和らげてくれるようで心地良い。


「……ありがとう」


あたしは静かに言った。



ねえ。

こんな風に……
少しずつ、あたし達の距離は縮まっていってくれるのかな?

もし、海斗があたしのことを好きになってくれたら――。
ゲームではなくなってくれる?
終わりのキスじゃなくて、始まりのキスになってくれる?


この恋が実らなくても。
ゲームセットだと分かっていても。

あたしはそれでも「好き」と伝えたくなる時がくるのかな……。

update : 2007.09.11