12
滲んだ視界はさっきからずっと変わらなくて、光の満ち溢れた表参道は白っぽく反射して目に映り込む。
涙は止まったはずなのに、気を許すとすぐにじわりと込み上げてきてしまう。
原宿駅までの距離がいやに遠く感じるのは、足取りが重たいせいかもしれない。
行きよりも、ずっとずっと、長い。
ようやくさっき待ち合わせした表参道ヒルズが見えてくると、バッグの中の携帯が鳴った。
取り出してディスプレイを確認する。
――菅野くん……。
怒ってるよね……?
あの場でいきなり何も言わずに帰るなんて、非常識すぎる。
歩くペースは今にも止まりそうなくらい緩まり、あたしは恐る恐る通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『菜奈ちゃん?
良かった……電話に出てくれて』
菅野くんの優しい声と一緒に、ほうっ、と、安堵したような息が漏れ聞こえた。
怒鳴られるのを覚悟していたのに、そんな菅野くんにあたしも力が抜けたように小さく息が零れた。
「本当にごめんなさい……。
城山さんにも、不快な思いさせたよね……」
『ううん。ゴメン、こっちこそ。
やっぱり無理させてたよね?』
「そんなんじゃ、」
ない、と言おうとしたのに、菅野くんは見透かしたように「ごめんね」と言葉を被せた。
『あの時、強引に城山に奥に連れて行かれてさ。
でも、すぐに菜奈ちゃんのこと追いかけようとしたんだ。
そうしたら、今度は海斗に捕まって。
ちょっとアイツと色々……ね。
で、そのあと急いで菜奈ちゃんを探しても既にいなくて。本当に、ゴメン』
海斗……に?
それに、色々って、何……?
そう訊き返したかった。
だけど訊くことが出来ずに、あたしは言葉を飲んだ。
「あたしが悪いの、ごめんなさい。
菅野くんは悪くない」
『今、どこ?
送っていくからそこで待っててよ』
思わず目の前の表参道ヒルズを見上げた。
幾つも並んだ大きなガラス窓から溢れる光が眩しくて、目を細めて答えた。
「もう、駅なの。
改札くぐっちゃったし、もうすぐ電車に乗るところ、だから……」
咄嗟に嘘が出た。
だって、送ってなんてもらいたくなかった。
一人でいたい。
こんな気持ちで、菅野くんと一緒になんて帰れないよ……。
『そっか……。一人で大丈夫?』
「子供じゃないんだし、大丈夫だよ。ありがとう。
本当にごめんなさい……」
『子供じゃないから心配なんだけど……。
無理強いは出来ないから……分かった、気を付けてね。
それにそんなに謝らないでよ、やっぱりさ……』
「え?」
『やっぱり、海斗が原因で帰っちゃったんだろ?』
核心を突かれて、どきっとした。
そう、と答えて良いのかも、何て言って良いかも分からず、あたしは口を噤んでしまった。
『海斗のこと、好きなの?
ゲームじゃなくなっちゃった?』
菅野くんのその言葉が耳から頭にキンと響いて、急激に血が上ったような感覚がした。
「違う」
『え?』
「違う、好きじゃないし!
ただ、あんな態度取られたからムカついたのっ!」
言ったあと、勢いが余ったように、はあ、と息が漏れた。
道行く人は何ごとかと、大きな声を出したあたしをちらりと見て通り過ぎる。
けれど菅野くんは驚いた様子もなく、落ち着いた声で返してきた。
『……そう。
じゃ、少しは俺のことも考えてくれるかな?』
「えっ?」
『すぐなんて思ってないよ。ゆっくり答えを出してくれれば。
海斗みたくゲームじゃなく、本気だし』
「ちょ……っ」
ちょっと待って、とあたしの言葉が出る前に、菅野くんに遮られる。
『今、無理とか言わないでよ。ゆっくり考えて。
だけど本気じゃない男なんて止めて欲しい。
アイツはああいうヤツだよ? 菜奈ちゃんには合わないよ』
――本気じゃない男。
――ああいうヤツ。
分かってる。
あたしは――……。
言葉が宙に浮いていたはずなのに、今度は反対に詰まってしまった。
そうしていると、返答を言い淀んでいるのを機にしたみたいに、菅野くんは言った。
『じゃあ、気を付けてね。また連絡させて』
「えっ……? あっ……」
答える暇も貰えないまま「またね」と、電話は切れた。
菅野くんの言葉ひとつひとつが、頭の中をかきまぜたみたいで。
もう、ぐちゃぐちゃで、歩くことも忘れていた。
耳元で繰り返し始めた通話中の電子音の箱を、あたしはぎゅっと握り締めた。
気が付くと、光で一杯の街並みから、落ち着いた住宅街の道に入る角を曲がっていた。
アパートまでは、まっすぐ進んで、あとひとつ角を曲がるだけ。
山手線に乗って、品川で乗り換えて、いつものように新川崎の駅で降りて、こうして一人、無意識のうちに自然と歩いてきたらしい。
そんな自分に半分は呆れかえって、半分は凄いだなんて、妙におかしくなって笑いが込み上げ呟く。
「ばっかみたい」
帰り道、ずっと頭から離れてはくれなかった。
海斗と麻紀さんの姿も。
菅野くんに言われた言葉も。
ふと、空を見上げる。
ほの暗い夜空に薄い雲が掛かり、そこに浮かぶ丸い月は、朧げな黄色い光を放つ。
――『アイツはああいうヤツだよ?』
……うん……。
だからこんなに悔しくて辛くなって苦しくなっちゃうんだ。
最初から、約束なんてしなければ良かった。
あんなムカツク男……。
口が悪くて。
女ったらしで。
自意識過剰なヤツ……っ。
一応は彼女の筈なのに、他の女の人の部屋に行って携帯忘れて……。
レセプションにまでその人と来て過ごして……。
挙げ句に、あたしがほかの男の人と来てるのに『ご勝手に』なんて……。
胸が押し潰されそうに痛くなった。
……もう、止めようこんなの……。
喉元が圧迫されて、目頭が熱くなる。
涙が込み上げてきそうになって、足を止め、目を瞑った。
止めようって、言おう……。
それが駄目なら「好き」って言えばいいんだ。
それで、ゲームセット。
あたし達の関係はオシマイ……。
ゆっくりと閉じていた瞼を開く。
大きく息を吐き出し、波立った気持ちを少しでも落ち着かせる。
また空を見上げると、つい今まで輝いていた月は、広がり始めた黒い雲で覆われていた。
たまにさらさらと風が通り過ぎるのを感じるくらいなのに、雲の流れは速い。
どうやら上空の風は強いらしい。
早く、帰ろう……。
帰って、シャワー浴びて、さっさと寝ちゃえば考えなくて済む。
止まっていた足をまた動かし始めると、ひたひたと後ろから静かに近づく靴音が耳に入った。
……あれ?
ぞくり、と、背中に緊張が走った。
何か、ヤダ……。
思わず足を速める。
しんとした住宅街のその道に、あたしのヒールの足音がカツカツと高く響く。
その音が不安や恐怖心を煽って急き立てるようにも感じる。
足を動かしながらちらりと後ろを確認すると、いつの間にか数メートル後ろにキャップを目深に被った男の人がいた。
や……何か、怖い……。
嫌な予感がして、更に足を速めた。
けれど、それよりも早い足音がついてくる。
あっ、と思うと、あたしは後ろからその男に羽交い締めにされた。
思ってもみないこと。
頭の中が真っ白に飛ぶ。
声が、出ない。
――嘘っ!?
嫌っ! 誰か……っ!
恐怖で身体は硬直する。
不快さと嫌悪が底から這い出して、一瞬にして身体が冷える。
それでも無理矢理絞り出すように声を出そうとした。
「い……や……っ」
やっと出たか細い声は、掠れ掠れで。
そんな微かな声も、その男の大きな手で塞がれた。
「……っ」
息が上手く出来ない。
苦しい。
身体が震えている。
それに連動するように心臓がばくばくと大きく脈打って、身体中に響く。
どうしよう。
誰か、助けて……!
すぐ横にある住宅のコンクリートの壁に、身体を押しつけられた。
固まって動けない身体は、なされるがままだった。
右手で肩から口を押さえつけられ、左手でスカート下から太腿を弄られる。
嫌っ!
――海斗!
心の中で叫んだその時、遠くから足音が聞こえた。
「何やってるんだよっ!」
聞き覚えのある声が響き渡ったかと思うと、バタバタと勢いよく走って近づいてきたのが分かった。
その瞬間、男の力が少し緩んで、あたしの身体に急激に声と力が戻った感じがした。
「嫌あっ!!」
両手で力いっぱい男を突き放した。
それと同時くらいに、声の相手は男の服を後ろから引っ掴み、左顎を思い切り殴った。
鈍い音が響き渡る。
男は右腕から叩きつけられるようにアスファルトに転げ落ちた。
「てめぇっ!!」
「か、海斗……っ」
「菜奈! 大丈夫か!?」
あたしの目の前に立っているのが海斗だったから驚いた。
どうしてここにいるの!?
驚きと安堵が両方込み上げる。
「ううっ」と、よろめきながら身体を起こす男の胸ぐらを海斗は捻じり上げ、もう一度殴る。
また、鈍い音が響く。
「や、やめて……っ」
男を掴んでいる海斗の腕を、あたしは両手で押さえた。
その一瞬の隙に、男は海斗を大きな動作で振り払って走り出した。
「てめぇー!」
海斗が追いかけようとする。
あたしはそんな海斗の腕を、両手で思い切り引っ張った。
「やめて海斗っ!」
だけど海斗は、あたしの手を振り払って男を追いかけようとする。
凄い力だ。
あたしはぎゅっと強くその腕を抱え込んだ。
「いいから、大丈夫だからっ」
そう言った途端、何かが弾けたように急激に涙が溢れ出した。
「大丈夫なわけねーだろっ! 許せねえっ!」
凄い形相の海斗に、あたしは黙ってかぶりを振った。
「菜奈?」
「……いいの。もう……大丈夫だから……。
海斗が来てくれたから……大丈夫……」
「……っ! 畜生っ」
海斗はそう言って舌打ちすると、腕に入っていた力を緩めた。
だけどあたしはその腕を抱きしめたままだった。
筋肉質の、太く、力強いその腕。
あたしは抱きしめた腕に力を入れて、海斗の顔を見上げた。
眉間に皺を寄せた険しい顔は、あたしと瞳が重なり、心配そうな顔つきに変わった。
「怖かったろ?
もうそんな顔するな。泣くなよ……」
海斗がそう言ったかと思うと、ふっと引き寄せられ、抱きしめられた。
ぎゅっと。
力強いのに優しく感じるその腕の中。
――何で……
こんな時に現れちゃうのよ……コイツってば……。
格好良すぎでしょ……?
そのままあたしは力が抜けるように、海斗の胸に身体を預けた。
頬から伝わるその胸の温かさが伝わってくる。
そこから海斗の心臓の音が聞こえる。
あたしと同じように早いその鼓動と音。
あたしの恐怖でばくばくと動いていた心臓は、同じように大きく脈打つのに、それとはもう違っていた。
恐怖ではない、心臓と脈の速い動き。
触れ合う部分から熱を帯びて、爪先までそれが沁み渡る感覚がする。
大きな安堵感と一緒に、身体の奥底から何かが込み上げてきた。
切なくて、苦しい。
だけど、温かくて。
きゅっと胸を締め付けて、身体中を甘く甘く支配する。
この気持ちが何なのか、知ってる……。
柔らかく、満ち溢れてくる。
瞼を閉じて、あたしもゆっくりと海斗の背中に手を回した。
海斗が、好き……。
もう、気付いてしまった。
ううん。
本当は、うすうす分かってた。
気になって仕方ないから、あんな風にムカついてイライラしてたんだ……。
あたしのことをゲームだと言うこのオトコ……。
――どうしよう。
こんな簡単に、あたし、海斗にオトされちゃったよ……。