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声のほうを向くと、薄いオレンジ色のカクテルグラスを二つ持った菅野くんが、そこに立っていた。
菅野くんは、あたしの向こう側にいる海斗と麻紀さんに気が付くと、驚いたように表情を固めた。
海斗も菅野くんを見て目を剥き、その姿を見つめる。
どうしよう……。
何を、言えば……。
何か言わなくちゃ、と思うのに。
その場を取り繕う言葉さえ出てこない。
「何で菅野といるんだよ?」
海斗が怪訝な顔つきで言った。
鋭い瞳が、あたしを見た。
冷めたような。呆れたような。信じられないような。
怒ってるの?
だけど、海斗だって麻紀さんと一緒にいるんじゃない!
あたしに対して怒る権利なんてないよ!
あたしも一歩も引かずに海斗を見つめ返した。
それなのに、喉元を圧迫するような何かが込み上げ息苦しい。
今、言葉を発したら、涙まで一緒に零れ落ちそうだ。
何でよ?
これは悔しいから?
菅野くんはちらりと一度こちらを見ると、あたしを庇うように目の前に立った。
「俺が無理矢理誘ったんだよ。
菜奈ちゃんのこと、責めないでくれる?
お前だって麻紀と来てるだろ? 怒る権利ある?」
菅野くんが手にしているオレンジの液体が、ゆらりと波打った。
海斗は少しだけ目を細めて苦笑し、小さく息を漏らした。
「別に。怒ってなんかねーよ」
「ふうん。じゃ、いいんだ?」
菅野くんは、まるで海斗を挑発するように、少し顎を傾けてにやりと笑った。
海斗も鋭い顔つきで菅野くんに視線を向ける。
あたしはどうしていいのかも、何を言っていいのかさえ分からなくて、ただそこに立ってその様を見ているしか出来なかった。
口調は一見穏やかそうにさえ聞こえるのに、今にも触発しそうなほど緊迫している。
「いいって、何がだよ?」
低い声で海斗が返す。
「海斗がこの場にいるのに、俺が菜奈ちゃんと一緒に過ごしていいんだ、ってコト」
「………」
菅野くんの言葉に海斗は一瞬口を噤んだ。
あたしは、ごくりと固唾を飲んだ。
この上なく耳障りに、招待客の高い笑い声が流れ込む。
海、斗……?
一瞬、目の前の顔が歪んだ、と思った。
「ご勝手に」
入り込んだ声に耳を疑った。
一瞬、真空に落ちたように周りの音が消えた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
「……何、それ……?」
思わず、唇から零れ落ちた。
いきなり、目が覚めるような大きな歓声と拍手が上がり、音が戻る。
同時にそれはあたしの言葉を打ち消していた。
『本日はご多忙中にもかかわらず、prize南青山店のオープニングレセプションにご出席頂きましてありがとうございます』
店の奥で挨拶をする城山さんに皆が注目し、彼のマイクから発せられる声が会場内に響いた。
全てのお客さんが城山さんに視線を注ぐ中、あたしは海斗を見つめていた。
そして、海斗もあたしを見据えたままだった。
それなのに、そこで絡み合っていた視線は、海斗によって外された。
「麻紀、奥に行こう」
海斗は麻紀さんの細い手を取った。
そしてあたし達に背中を向けた。
視線を外したかと思ったら、もう、こちらを見ずに。
人混みに消えかけたとき、麻紀さんはこちらを小さく振り返る。
「馬鹿ね」とでも言いたげに、グロスを塗った厚めの唇が少し緩んでいたのが見えた。
乾杯と挨拶、ジャズの生演奏、モモカとエリナのトーク……。
こういう場に出席するのも初めてなのに。
凄く、華やかなのに……。
楽しむ余裕なんてなかった。
色とりどりに並ぶ洋服達さえも色褪せて見えて。
菅野くんが話しかけてきても、半分はうわの空だった。
一応は笑顔で会話をしているつもりだけど、感情が入っていないことに菅野くんは気付いているかもしれない。
上手くなんてとても立ちまわれなくて。
「いかがですか?」
白いシャツに黒いタイをしたボーイが、カクテルグラスを差し出してきた。
手に持っていたグラスが、既に空になっていることに気付く。
「ありがとう」
何杯目だろう。
この間も、アイツのせいでこんな風に自棄になって飲んだんだ。
胃が、きりきりする。
それでも飲まずにはいられなくて、空いたグラスと金色の液体のなみなみ入ったグラスを引き換える。
受け取ると、ぐいっと喉に流し込んだ。
苦い。
コレ、苦手だ。
「菜奈ちゃん、ペース速くない?」
菅野くんは、あたしの飲みかけのグラスを優しく奪った。
「酔っても面倒見るけど。
でも、もうこの辺で、オシマイ、ね?」
「え……あ、ごめんね……。
つい、美味しくて」
美味しいなんて、思ってないクセに。
へへっと、誤魔化して笑ってみせると、菅野くんは少し困ったように微笑んだ。
「ゴメンね、つまらない?」
あたしは、ぶんぶんと首を振った。
「ううん!
あ、あたし、こんなところに来るのって初めてだから、何か緊張しちゃって。
楽しいよ。誘ってくれてありがとう。
ワンピースも気に入ってる。凄く可愛いし、嬉しいよ」
あたし……何言ってるのよ……。
調子のイイコト……。
菅野くんに笑顔を向けてそう言う自分に、嫌悪感が込み上げる。
それなのに、菅野くんは優しい笑顔であたしを見つめた。
「……うん。可愛いよ。
凄く良く似合ってる、そのワンピース」
「……え?
あ、ありがとう……」
また……可愛いって……。
どきりとする。
しかもそんな顔で。
慣れない言葉に困惑して、あたしは思わず顔を逸らした。
「海斗なんて……やめろ、よ」
――えっ?
また視線を引き戻される。
いつの間にか菅野くんの笑顔は真剣な顔に変わっていて、あたしをじっと見つめていた。
ざわざわと煩い会場の雑踏の音が、二人の間に流れ込む。
あまりよく聞こえなかったけど……。
今、海斗なんてやめろとか……言わなかった?
「菅野、菜奈ちゃん!」
人混みから現れた城山さんによって、会話は遮断された。
あたしは何故かホッとした。
城山さんは、ブラウンの色を施したレンズの眼鏡の奥で、子供みたいに瞳をきらきらさせて、あたし達に笑顔を向けながら手招きする。
「ちょっとこっちおいでよ。モモカとエリナと一緒に写真撮らない?
プロのカメラマンが撮ってくれるって」
「えっ?」
モモカとエリナと!?
「菜奈ちゃん、モモカとエリナのこと好きなんだよね?
良かったね、行ってきなよ」
「菅野もだよ。ほら一緒に来いよ」
城山さんがニヤニヤとしながら、菅野くんの腕を掴んで引っ張った。
菅野くんもあたしに向かって「おいで」と、手を差し伸べてくる。
大きな手。
長くて綺麗な指。
海斗とは違う、手。
アイツはもっと指が太くてゴツゴツしてる……。
今、目の前にある掌は、アイツのモノとは全然違う。
菅野くんの手を見て、海斗の手を思い出してしまった。
何、比べてるのよ!?
馬鹿じゃない! あたし!
思わず見つめてしまった菅野くんの掌から、顔を上げた。
上げた瞬間、息が止まった。
そこに、海斗がいた。
菅野くんの少し後ろ。
奥からこっちに移動してくる。
背が高いアイツは、こんなに人が溢れているのに頭一つ抜けていて、嫌でも目立つ。
視線が固まって、外せない。
そしてそのすぐ横には、さっきと同じように、麻紀さんがいる。
ズキン、と。
大きな音を立てて、胸が痛んだ。
――なん、で……。
城山さんが、早く、と促すように菅野くんを強く引っ張った。
「ほら、菅野! 二人、待ってるから早く来いよ!」
「え……あ、菜奈ちゃん!?」
そこにいる沢山の人に揉みくちゃにされて、城山さんの姿はすぐに見えなくなった。
菅野くんも人の波にのまれてしまう。
だけどあたしは菅野くんの手を取ることが出来なかった。
それは菅野くんが城山さんに引っ張られたからじゃない。
あたし自身がその手を取れなかった。
「ごめん……ごめんね、菅野くん!」
あたしは溢れ返る人を掻き分けて入り口へ向かった。
菅野くんの声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
――振り返れなかった。
最悪だ、こんな女。
菅野くんにも城山さんにも、失礼なことをしてる。
だけどもう、自分の中の混沌とした気持ちを抑えることが出来ない。
あの場にいることも。
海斗に菅野くんといるところを見られたことも。
『ご勝手に』と言われた低い声も……。
麻紀さんと二人でいる姿を見るのも、嫌で堪らなかった。
これ以上耐えられなかった。
悔しくて悔しくて、仕方がない。
あたしなんて、本当にアイツにとってはどうでもいい女なんだ――。
いくら好きじゃなくたって、こんなのって酷いよ。
一応は、彼女じゃない……。
だけど……。
最初から、分かっていたじゃない。
普通の付き合いではないって。
これはゲームだって。
なのに。
何でこんなに悔しいの……?
開け放ったままのガラスのドアを潜り抜け外に出ると、じっとりと湿気のある空気に急に変わった。重たげな夏の夜の空気だ。
立ち並ぶ店舗は既に整然と明かりが灯され、美しい夜の南青山の街を作り出している。
入り口を出たあたしを見つけた受付の女性が、ショップの紙袋を持って近づいてきた。
目の前でにっこりと笑って、あたしの行く手を遮る。
「お帰りですか? 本日はありがとうございました。
どうぞ良かったら、お店のノベルティですのでお持ち下さい。
今後ともよろしくお願いします」
何も知らない女性は、優しい笑顔であたしにその紙袋を差し出してくる。
白字に小さくグレーのブランド名が入った縦長の袋。
取手もペーパーで作られていて、根元はシルバーのハトメで留めてある。
ショップの紙袋でさえ、お洒落で可愛い……。
すぐに受け取れずにいると「どうぞ?」と、首を少し傾げて、また柔らかな笑顔を向けられる。
あたしは、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
その笑顔に気が緩んだせいか、受け取った瞬間、瞳から涙が零れ落ちた。