09
頭の中はぐちゃぐちゃで。
ただ、脳裏に焼き付いている二人の笑顔。
胸が圧迫されたように、変に苦しくて。
胃が重たい。
ぐるぐるぐるぐる。
長い棒で、奥の奥まで突っ込んで、強引に掻き混ぜて。
だけど底には届かなくて、混ざりきらずに淀んだモノが溜まっているみたいに。
一応は形だけでも彼女のはずなのに、他の女の部屋に携帯忘れて、その上一緒にランチしてるなんて。
そんなの裏切り行為だよ。
あたしのこと、馬鹿にしてる。
むしゃくしゃする。
イライラして、仕方がない。
何で、よ。
何で、こんな気分になっちゃうの?
あたし、アイツのことなんて好きじゃないじゃん。
そんなの、分かり切ってるのに……。
だけど――。
「やるねぇ、海斗クン」
薄暗いコンクリートの階段を上がり切ると、視界が一気に開けて明るくなる。
真夏の陽を避けるように眩しさに目を細めると、あたしのすぐ前の細い背中から、感心したような瑞穂の声が言った。
その背中に向かって、あたしは平静を装うことを努力する。
「別、に」
「ちゃんと訊きなよ?」
「訊かなくたっていいよ。大したことじゃないし。
どうせあたし達の関係なんて、そんなモノなんだし」
素直じゃない。
……分かってる。
瑞穂にくらい、本当の気持ちを言えばいいのに。
あたしは、何を強がってるんだろ。
こんなにイライラしてるクセに……。
あたしの腕を掴んだまま歩く瑞穂のその手の力が緩んだかと思うと、くるりとこちらに眉を寄せた顔が振り向いた。
「意地っ張りだなー。
気になってるクセに」
「気になんてなんてないし!」
「顔に、出すぎ」
「だって……! あたしはっ……!」
そこに続く言葉も見つからないのに、何か反論しかけたそのとき、あたしの携帯電話が制服のスカートのポケット中で鳴った。
もしかして……
「海斗クンじゃない?」
見越したように、瑞穂が唇の端を上げてそう言った。
あたしは答えないまま、足を止めてポケットから鳴り続ける携帯を取り出した。
ディスプレイに点滅しながら表示される数字は、知らない番号だ。
さっき麻紀さんに『仕事用の携帯は別だから』って言ってた。
あたしはそんな存在だって知らないのに。
もしかしたら、その携帯の番号……?
自分の中の動揺と怒りを静めように、大きく息を吸い込んで吐き出す。
そして、通話ボタンに指を滑らせた。
「……もしもし」
だけど、電話の相手は、あたしが思っていた人物とは違った。
『菜奈ちゃん?』
あたしの名を気軽に呼ぶ、覚えのない男の人の声。
「……はい?」
誰?
『菅野だけど。急にゴメンね』
「え!? 菅野くん?」
驚いて思わず声を上げると、瑞穂はあたしを間近で覗き込んだ。
そして肩を竦めて、にやりと笑う。
な、何か勘違いしてない?
瑞穂の視線から逃げるように身体の向きを変える。
菅野くんがどうして番号を知ってるんだろうという疑問は、次の言葉ですぐに解消された。
『ミカから番号無理矢理聞き出した』
「えっ!?」
ミカってば……!
勝手に人の携帯の番号教えるかな……!
半ば呆れているあたしをよそに、菅野くんはそんなことを気にも留めていないような明るい口調で言う。
『菜奈ちゃん、明日、仕事終わってから空いてない?』
「え? 明日?」
『友達のブランドが青山に店をオープンするんだけど、明日そこでレセプションパーティーがあるんだ。
女の子連れてこいってうるさくてさ。
菜奈ちゃん、一緒に行ってくれない?』
「ええっ!?」
『一緒に行ってくれるような女の子なんていないし。
そんなこと言われて、一人で行くのカッコ悪いしさぁ。
あ。モデルのモモカとエリナも来るって。見たくない?』
「ちょ、ちょっと待って……」
モモカとエリナと言ったら、あたしの大好きなファッション誌のモデル。最近、テレビにも良く出ている。
確かに、実物を見てみたいけど。
しかもアパレルのレセプションパーティーなんて、あたしにとっては縁遠いモノ。
興味がないといったら嘘になる。
だけど……。
『もしかして、海斗に義理立てしてる?』
口籠ったままでいると、菅野くんが言った。
義理立て……?
「そんなんじゃ……」
『聞いたよ。アイツ、菜奈ちゃんとの付き合いはゲームみたいなモノって言ってた。
そんなヤツに義理立てする必要ある?』
胸が、痛くなった。
急に何かにつかまれたみたいに。ぎゅっと。
……そうだよ。
別にお互い恋愛感情なんてないんだし、いいじゃない、好き勝手やれば。
アイツだって麻紀さんの部屋に行ってるじゃん。一緒に御飯だって食べてるじゃん。
あたしは何遠慮してるの?
別にいいじゃん、誰と会ったって。
それが男の子だって。菅野くんだって。
あたし達の付き合いは、所詮ゲームじゃん。
「……義理立てなんかしてないよ。
行く。連れてってくれる?
そーゆーの行ったことないし、行ってみたい」
『ホント!?
じゃ、あとで時間とか場所、メールする!』
菅野くんの嬉しそうな声とは反対に、瑞穂は眉を顰めて渋い顔をした。
そして声を出さずに、唇を動かす。
「バカ」
と。
結局、昼休みの残り時間が少なくなったあたし達は、先週のあの日と同じ、マックのバリューセットになってしまった。
ゆっくりとくつろぐ暇も余裕もなくて。
食べ終わると早々に、会社に戻る。
ビルの間に降り注ぐ日差しは強くて、風もなく蒸し返っている。
アスファルトから上がる熱も反射も、痛いほど。
暑い。暑い。
頭がくらくらする。
刺すような太陽が、二人で行った海を思い起こしてチラつかせる。
アイツの笑った顔も。麻紀さんの目も。
いくら歩いても、振り払えない。
「ちょっと、菜奈! 歩くの早いよ」
後ろから瑞穂に言われて、ようやく今の自分の歩く速度に気が付いた。
足を止め、ゆっくり振り返ると、眉と眉の間をちょん、と、瑞穂の指が差してくる。
「縦皺、凄っ」
「………」
「そんな顔するくらいなら、約束なんてしなけりゃいいじゃない?」
「だって、何か悔しくて……。
あたしだって他の男の人とデートくらいしてやる、とか、思っちゃったんだもん」
「そんなことに菅野クンを利用しちゃうんだ? へぇー」
………。
ホントだ。瑞穂の言う通りだ。
菅野くんを利用するんだ。
あたしって、最悪……。
頭が大きく項垂れてしまう。
「ゴメン、ゴメン。別に菜奈を苛めるつもりはないんだけど?
まぁ。いいじゃない? 菅野クンと会って見えてくるものもあるかもよ?
だってさ、海斗クンのコト、別に好きじゃないって言ったの菜奈じゃん?
だったら菅野クンと会って、菅野クンのがイイって思うかもしれないしさぁ。
それとも……」
「………。
それとも、何?」
訊き返しながら、目線だけ瑞穂の方に上げる。
「やっぱり海斗クンが好きって思うかもしれないしー」
「ありえないし……」
「じゃ、やっぱ、いいじゃん?
別に菅野クンと会ったって」
また、楽しそうに唇の端を上げる瑞穂。
あたしは顔を上げて、瑞穂を見やった。
「何か……瑞穂の言ってること、めちゃくちゃじゃない?
結局、どうして欲しいわけ?」
「そう?
だって、海斗クンが気になるなら、菅野クンと会うのは止めておけば、ってことよ?
至ってシンプルな答えじゃない?
菜奈が海斗クンのコト好きじゃないなら、どっちかイイと思う方を選ぶのって当たり前のことじゃないの?」
「形だけでも、海斗と付き合ってるのに……?」
「形だけ、って、分かり切ってるじゃーん」
ずきり、と、その言葉が胸に突き刺さった。
言葉も何も、返せない。
「急がなきゃ、間に合わなくなるよ」
「え? あ、うんっ」
そんなあたしのことは全く気付いていないのか、瑞穂は再び先に歩き出した。
あたしもすぐに瑞穂を追う。
足を速め、少し前にあった背中に追いついて横に並ぶと、瑞穂はちらりと左腕の時計に目をやって言った。
「ね。あと、5分だよ」
「ヤバいね、急がなきゃ!
また課長に怒られるっ!」
答えたところで、スカートのポケットの中の携帯が音を立てた。
急ぎ足のまま、ポケットをまさぐる。
あたしにお構いなしに先を急ぐ瑞穂に遅れないように歩いているせいか、携帯がポケットの途中で引っ掛かってなかなか取り出せない。
急かすようにコールが鳴っている。
ようやくポケットから携帯が抜け出ると、あたしは慌ててディスプレイの確認もせずに電話に出た。
「はいっ」
出た途端、クククっと、意地悪そうな笑い声が、小さな箱を通して耳元を擽った。
『何だよ、随分元気だなー』
いつもの調子の、軽口。
名乗らなくても、すぐに誰だか分かってしまう。
「……海斗」
心臓のあたりがきゅっとなった。
動悸まで早まったのが分かる。
ちらりと瑞穂の方を見ると、予想通りニヤニヤと笑っている。
全てお見通しと言った瑞穂の顔つきに、ムクれて思わず足が止まりそうになったけど、急がないと午後の始業に間に合わなくなるし、あたしはまた足を速めながら答えた。
「何っ?」
『何、って、メールくれたろ?』
「………」
したけど……。いつの話よ。
答えずにいると、海斗が言った。
『携帯行方不明になっててさ。今、メールに気が付いた。
悪かったな、連絡遅くなって』
行方不明――って……
何、それ。
嘘吐きっ!!
「別にっ。気にしてないしっ。
それに昼休み終わりで、今急いでるのっ」
思わずそんな言葉が出た。
ああ。
あたしってばホント、可愛くない。
分かってる。
こんな調子じゃヤツのことなんてオトせるはずなんてない。
だけど、今――。
可愛くなんて、到底、無理。
『あー、ゴメン。じゃ、すぐ切るよ。
つーか、オマエ、明日の夜って暇?』
どきり、とした。
――明日?
鼓動が更に速まっていく。
それとは反対に、足はそこで止まってしまった。
「よ、用事ある、の……」
声が、自然と先細った。
たった数十分前にしてしまった、約束。
――他の男の人と、の。
無性に苦しくなって、瑞穂の背中を探す。
あたしがここで止まっていることに気付いていないのか、瑞穂はどんどん前へと遠ざかる。
ううん。多分、気を遣って、わざと先に行った。
きっと、麻紀さんとのことを訊け、と言う意味で。
でも、訊くことなんて、出来るわけ、ない。
海斗は、うーん、と唸ってから「そっか」と言った。
『じゃ、土曜日は空けとけよ、約束通り』
「う、ん……」
『じゃーな。仕事、頑張れよ。暑いから身体に気を付けろよ』
「言われなくても分かってる」
また、可愛げのない言葉が勝手に口をつく。
クククっと耳元で海斗が笑ったかと思うと、『相変わらずだな。じゃーな』と、電話が切れた。
繰り返す電子音が響く。
ほんの少しの間、あたしは耳から携帯を外さず、その音を聞いていた。
――何で。
こんな時に限ってそんな優しい言葉をかけるのよ……。
頑張れよ、とか、身体に気を付けろ、なんて。
調子狂うし。
それって、麻紀さんとのことが後ろめたいから、とか……?
――だけど。
海斗も最低だけど、あたしだって最低だ。