08
あれから。
眠りの浅い夜を過ごした。
鳴らない携帯が、ずっと頭の片隅にあって。
返事がないことに、無性にイライラして。
気になんて、したくないのに。
『待ってる』なんて言葉……。
やっぱり、アイツは嘘ばっかりだ、なんて。
そんなヤツだ、なんて。
「で。どーなってるの? ちゃんと、説明してよねー」
瑞穂は目の前のA定食に手を付けず、お預けされた犬のような瞳であたしを見ながら、混雑する社食の長テーブルに左手で頬杖をついた。
あたしの出社がぎりぎりだったせいで、朝は時間がなく、全く話が出来なかった。
昨夜はほとんど寝られず、朝起きられなかったのは言うまでもない。
あたしは瑞穂に、掻い摘んで付き合うことになった理由を話した。
「だから成り行き上、付き合うコトになっただけなの。
引くに引けなくなったの。ムカついて。
オトすか、オトされるか、ゲームだって」
“あたしは好きじゃない”ということを、強調しておく。
どうやら食べることを忘れている瑞穂は、いつの間にか頬杖は片手から両手に変わっていて、そこから上目遣いであたしを見てくる。
「ふぅん。でもいいなー。海斗クン、カッコイイし」
「ちょっと、瑞穂! そーゆー問題!?」
「だってさー。男なんて付き合ってみないと分かんないと思わない?
付き合わないとさ、相手のホントなんて分かんないし、見えないよ。
別にいいんじゃない、最初は恋愛感情なくたって。
それとも、もう好き?
返事が来ないくらいで寝られない、なんて」
瑞穂はまるで見越したような口調で言った。
「違うし!
ただムカついたんだもん! あんな風に言われたから」
「アハハ。恋愛スキル低いからなぁ、菜奈は」
「酷っ!」
じろりと睨むと、瑞穂は高い笑い声をぴたりと止め、今度は小悪魔のように微笑む。
「ホントにゲームならもっと余裕持たなきゃ。あたしならもっと上手くやるなぁ。
『待ってる』なんてそんな言葉、彼にとったら本気でも何でもない言葉なんだよ。
モテる男と付き合って、ちょっとは勉強になるんじゃない?
いいじゃん、利用させて頂けば」
「瑞穂ー……」
呆れたように視線を返すと、それを折る言葉が返ってくる。
「あ。じゃ、やっぱり本気になりたいんだ?」
「そんなんじゃ……!」
「じゃあ、菜奈は海斗クンのこと、嫌いなのに付き合うワケ?」
全てを分かっていて、それでいて問い詰めるような瑞穂。
利用するつもりも、本気になりたいわけでもない。
けれど、言われてみると、上手く言葉は返せない。
なんて曖昧で不誠実なのか。
「だって……ぎゃふんと言わせてやりたかったんだもんっ。
嫌い……か、分かんないけど、好きではないし。
とにかく、ムカつくから目に余るっていうか……」
段々と自信がなくなってきて、声が先細る。
それを見て瑞穂は、意味を含んだようにニヤニヤとあたしをみつめる。
「嫌い嫌いも好きのうちってね。
好きと嫌いって紙一重なのよ。
どっちも心の中を大きく占めていて、気になって仕方ないの」
「好きじゃ、ないもん……」
あたしが頬を膨らませてそう答えると、頭の上から声がした。
「誰が誰を好きじゃないって?」
顔だけそのまま声のする方へ向けると、トレーにあたしと同じB定食を乗せたミカが立っていた。
綺麗にフォワードに巻かれた茶色い髪をふわりと揺らし、少し斜めにあたしの顔を覗き込む。
「携帯買った? 菜奈」
「買ったけど……」
「携帯ないと、連絡出来なくって不便」
ミカはつんと顎を上げて無表情でそう言ったかと思うと、あたしの隣の空いている席に座った。
床と椅子を引く擦れる音が耳触りに鳴る。
「なーんで海斗クンなのよ?
菜奈には菅野を用意してたのに」
「え?」
目を剥いて、ミカへの方へ向く。
「菅野と菜奈のための合コンだったのにな」
「はぁっ?」
思わず変な声まで出る。
何? ソレ。
聞いてないし!
「菅野がさぁ、菜奈の写真見て気に入ってたの。紹介してって。
でも紹介って堅苦しくなると、菜奈って来なさそうだってのもあったし、噂の海斗クンにも会ってみたかったから合コンにしたんだよねー」
気に入ってた? 紹介?
だから! 一体、何? ソレ。
「待ってよ! だってそんな話聞いてないし!
それに当日、急に瑞穂に誘われたよね?」
「決まったのはホントに急だったし。
それに瑞穂だったら、あたしよりも逃さず菜奈を誘えるからさ」
しれっと言うミカに、あたしは反射的に瑞穂の方を見ると、にやりと笑みを見せてくる。
「フツーに食いついてきてくれたけどね」
「ちょっと! 瑞穂!」
訳知り顔で悪戯に笑う瑞穂の顔を遮るように、ミカはあたしを覗き込んでくる。
「そんなのどーでもいいのよ。
つーか。何よ、やっぱり海斗クンのコト、好きじゃないの? とりあえず付き合うだけ?
何で急に、海斗クンと付き合うとかなってるの?」
紹介、なんて。菅野くんのこと、全く聞かされていなかったのに。
それなのに、海斗のこと好きか、なんて、真剣な顔でミカは訊いてくる。
何か、ズルイ……。
「好きじゃない、よ。あたしも海斗も恋愛感情ないよ。
お互いに意地張って、引くに引けなくなって付き合うだけ。
オトすかオトされるか、賭けてるだけ。
アイツにとってはゲームだって」
ミカは驚いた表情を見せる。
それに相対して瑞穂は澄ました顔つきで、思い出したようにA定食のから揚げを頬張っていた。
「ゲームって……菜奈がそんな付き合いするなんて……。
で、好きじゃないのね?」
………。
しつこいなぁ……。
「好きじゃないよ」
少しウンザリとしてきたあたしは、ミカと目線を合わせずにそう答えて、目の前の焼き鮭に箸を伸ばした。
それを口に放り込む。
あ。もう冷たくなってる。
「菅野すっごいショック受けてたし。
だってさー、菅野と最初仲良さげにしてたじゃん?」
溜め息交じりのミカの言葉に、確かに最初にいいと思ったのは菅野くんだな、と思う。
黙ったままでいると、ミカは諦めずに続ける。
「好きじゃないなら、別に海斗クンじゃなくて菅野でもいいってことじゃないの?」
箸がぴたりと止まった。
ちょっと、ちょっと!
何を言ってるのよ!?
「そーゆー問題じゃ……!」
「ないって言うの?
少なくとも、海斗クンよりは菅野の方が菜奈に気があると思うけど。
そんなゲームなんて言ってるオトコより」
少し興奮気味のミカに、瑞穂は「まあまあ」と窘める。
「まあいいじゃん。
菜奈はねー、これから海斗クンを好きになる予定なの」
顔の前で両手を合わせて、凄く嬉しそうな顔つきで言う瑞穂。
まるで、深読みも先読みもしているように見える。
もうっ! 瑞穂ってば絶対楽しんでるでしょ!?
それでも友達?
「だからっ! 予定じゃないもん!
予定なのは、海斗があたしのこと好きになるんだもんっ」
あたしはまた少しムクレて、既に冷めきったご飯を口にした。
何だかもう、味なんて分からない。
それに何となく、胸の辺りが重たい。
ぐるぐると渦巻いている感じがする。
お互いに好きじゃなくて。
こんな風に意地で付き合うことが変だなんて、自分が一番良く分かってるってば。
全く自分を何とも思っていない人よりも、少しでも好感を持ってくれる人と付き合った方がいいってことも。
でも、じゃあ――
今更やっぱりやめようなんて、言うこと出来る?
海斗からのメールも電話も、返事は来ないまま三日が過ぎた。
気になって仕方がないのに、またあたしから連絡を入れるなんて癪で。
時間だけは勝手に通り過ぎていく。
なんで!?
大体最初だって、オトしてみろ、って言ったの海斗じゃん!
連絡しろ、って言ったのだって!
こんな風にあたしのことを巻き込んで、何で返事の一つもよこさないの!?
好きじゃなくたって……恋愛感情がなくたって、こんなの普通怒るよ!
それは、アイツの引きの手段?
こうやって『どうして?』って、気にさせるためなの?
それとも。
――本当にどうでもいいから?
「ヤダヤダ。怖い顔。
そんなに気にしてるなら、電話すればいいじゃん」
エレベーターの中の光る階数字をぼんやりと見つめていたあたしを、瑞穂は眉を上げて覗き込んだ。
そして、肩まで竦めて見せる。
「しない。
だって、あたしはちゃんと、メールしたし」
「でもさぁ、返事がこないなら電話したほうがいいんじゃない?
『もしもし〜? 連絡ないから心配になっちゃったの。どうかしたの〜?』って。
可愛く、さらっと」
耳に電話を持つような仕草をして、声色まで変えて演技する瑞穂。
「イヤ」
あたしは間髪なく答えた。
「強情ねぇ。
もしかしたらメール、届いてないのかもよ?
メアド間違えてるとかじゃないの?」
「ちゃんと確認したもん……」
あたしは瑞穂の方へと顔を向けると、それ以上何も言いたくなくなって、唇を引き結んだ。
あたしと目が合うと、瑞穂は分かっているように優しそうに微笑む。
だって、あたしだってそう思ったもん。
間違えたのかな? って。
だから何度も見直した。
四つに折ったあの紙の折り筋が擦れるくらい、何度も。
思い出してまたムカムカと胃が重たくなると、エレベーターは一階に到着して軽快な電子音を鳴らした。
「気にさせるための手段か、もしくはどーでもいいから連絡するの忘れてるか……だね」
瑞穂は前を向いて、先にホールに降り立ちながら言った。
あたしもその瑞穂の後姿に続く。
「……あたしもそう思う」
思わず、ふう、と息を漏らすと、瑞穂は足を止めてくるりと勢いよく振り向いた。
「もう一つ。
何か連絡出来ない理由があるのかもよ?」
「理由……?」
あたしの足も、そこで止まる。
「まぁ、ちゃんとメールが送られてるなら、そのうち返事も来るでしょ?
理由があるならその時話すでしょ?
何も言わないなら、その時はその時よ。
まー元気出しなって! ランチくらい奢ってあげるからさ。
ほら、先月近くにオープンしたイタリアンあるじゃん?
パスタランチ、美味しかった、って夏美が言ってたよ。そこ行ってみようよ」
瑞穂はニコニコしながら、あたしの肩をぽんぽんと軽い調子で叩いた。
あたしがこんな風にもやもやとしてるのなんて、男の扱いが上手い瑞穂にとっては大したことじゃないんだろうな……。
でも、まぁ、頼りになるよ、いつも。
楽しんでふざけているように見えても、結局は、あたしが落ち込んでると元気にしてくれるもんね。
「行く!」
あたし達は歩き出してエントランスホールを過ぎ、入り口の自動ドアを潜った。
すぐにじっとりした熱い空気に包みこまれ、灰色のアスファルトを照り返す眩しい夏の光が打ちつけてきた。
瑞穂の言っていたイタリアンレストランは、会社のビルから歩いて3分くらいの小さなビルの地下一階だった。
小さな、と言っても、ビル自体が新しく建てられたばかりで、つい最近まで工事していたのも知っている。
ああ、ここの店だったんだ、と思う。
白いタイル張りの外観がスタイリッシュで、一階は大きなガラスが印象的な明るいカフェになっている。OL受けしそうな感じの造りだ。
店内へは、ビルのホールに入らず、通りからの階段を下るようになっている。
二人分のヒールの音を響かせ、階段を下りた。
コンクリートの打ち放しの壁に落とされる間接照明が、落ち着いていて大人の雰囲気だ。
すぐ先の入り口のドアを開けると、暑さから一転して冷えた空気が流れ込み、瞬時に汗が引いてくれる。
ちょうど昼食時とあって、見渡した店内はやはり混み合った様子だった。
白いぱりっとしたシャツに黒のパンツ、ギャルソンエプロンのスタッフが、あたしたちに気が付いたようで、すぐにこちらに向かってくる。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい」
「只今、10分程お待ち頂くと思うのですが……」
「10分……」
時間の限られた昼休みだと、10分待つだけでも結構ぎりぎりだったりする。
「どうする?」
反応のない瑞穂の方に首を捩りながら確認する。
だけど瑞穂は、そんなことは全く聞いていないような驚いた表情で、店内の向こう側をまっすぐ見ていた。
「どうかした?」
「ちょっと、菜奈、アレ」
瑞穂は店の向う側へと小さく指を差す。
……何?
あたしは、瑞穂のその指し示す方へと、視線を這わした。
昼時の、ざわざわと騒がしい店内。
いくつもあるテーブルは満席で。
そんな人で埋め尽くされた店内で、すぐに見つけられるほど一際目立つ人物――。
視界に入った途端、ドクンと心臓が音を立てた。
――海斗。
と、麻紀さん……。
小さな二人席に対面で座っている二人の間のテーブルには、席についたばかりだととれる水の入ったグラスが二つ。
その透明なグラスの上に、楽しそうに微笑んでいる、アイツの顔。
何で……。
何で、二人でいるの?
「ちょっと……待ってて……」
あたしは零したように瑞穂に言って、ふらふらとその席に近づいていった。
運良くか、二人の席の近くには、細い木で組まれたパーテーションが置いてある。
きっと、あたしがいるなんて気付かない。
店内は人の声でざわめいているのに、否応なしに、二人の声があたしの耳に入ってくる。
ううん。
聞こえるところまで近づいたのは、他でもない、あたし自身だ。
「コレ」
麻紀さんがテーブルの上に、バッグから取り出した携帯電話をすっと置いた。
――黒い携帯。
直感で、分かった。
それが海斗のモノだって。
それを証明するように、海斗は迷いなくその黒い携帯電話を受け取った。
白いテーブルに、重なった影が出来る。
「サンキュ。
多分、麻紀んちに忘れた気がしたんだ」
心臓が、嫌な音を立てた。
何、それ……。
麻紀んち、って、どういうこと……!?
掌に冷えた汗が滲み出た気がして、あたしはぎゅっとその手を握り締めた。
親指の付け根に、力の入った指先の爪がぎゅうぎゅう食い込む。
……イタイ。
「ごめんね、すぐに返せなくて。携帯ないと不便だったでしょ?
昨日まで九州に出張だったから」
「仕事用の携帯は別だから、どーにかなってた」
「そう。ならいいんだけど。
こうして一緒にご飯食べれるしね」
落ち着いたトーンで紡がれた声の語尾が少し上がって、長くてしなやかな指が、微笑んだ麻紀さんの顔の前で組まれた。
何で……?
どうなってるの……?
何で麻紀さんの部屋に、海斗の携帯があるの……!?
ぎゅっと胸が苦しくなった。
胸のどこかを誰かに一握りされたように、苦しく。
声なんて、出なかった。
かけられるはずも、なかった。
そんな気持ちに気が付いたように、あたしの肩に瑞穂の掌が柔らかく乗せられた。
瑞穂の言いたいことは分かってはいたけれど、あたしはすぐに振り向けなかった。
固まったように、ただココから見える二人の楽しそうな姿に、視線を捕らわれたままだった。
「行こ」
そう瑞穂の声が聞こえたかと思うと、肩の重みはなくなった。
その代わりに腕を引っ張られて、あたしは縺れる足で店を後にした。