07

――ほんの一握り……。


そうなのかもしれない。

だけど。
それでも。
今、一緒にいる人達だっているんだよ、ね?

この鍵をかけたときは、相手の存在が何よりも大切で。
もしかしたらこの先失ってしまうかもしれない可能性を、少しでも埋めたくて。
ずっと一緒にいたい、いられたら、って。

そんな願いをこの小さな鍵に託してる……。


不思議と、胸がきゅうっとして、切なくなった。
フェンス越しに見える黒い海が、さっきまでの綺麗だという感動を掻き消して、ただ冷たく暗く、落ちたら最後底まで引き摺りこまれそうな気さえしてくる。

黙ったまま、ただ、鍵をみつめていた。
海斗も、同じように隣で口をつぐんでいる。

細く吹き付ける風の音も、それによって立てられる木が揺れる音も、今はただ寂しい。

そう思った途端、握られている手にぎゅっと力がこめられた。
まるで、あたしの気持ちを察したかのように、タイミング良く。


――温かい。

海斗に握られた、掌が。

海斗がココにいることを。
今、掌が繋がっていることを感じさせる、彼の体温。


あたしは、重なり合ったふたつの手に視線を落とした。


大きく包み込むような手。
この手は何人の女の子とこんな風に手を繋いだのかな、なんて。
クダラナイことが、頭を掠める。

そして、握り合った手からゆっくりと視線を上に這わせて行き、横顔に辿り着く。
見上げた海斗は、何かそこに見えない薄い膜でも張ったように、人を寄せ付けない表情でフェンスの向こうに視線を送っていた。

こうして、手は繋がっているのに。


「そろそろ行こうか?」


あたしの言葉に、ようやく海斗はあたしの方を向く。
そして、笑顔を見せた。


「オレ、腹減ったわ。何か美味いモノ食いに行くか」

「うん」







海斗の車は、また国道134号を、江ノ島方面に向かって走った。

まっすぐに続く長い道。
海沿いにあるはずなのに、砂防林の大きな松が道路の左右に山のように立ち並び、
黒い海を隠している。
海風を受けて、背の高い木々の枝と葉が音を立ててしなる。

あたしは黙ってずっと窓の外のその松の木達を見ていた。
あちこちに曲がった節ばった幹。
それは、強い南西の風に耐えている力強さを証明しているのか。
それとも、それほどまでに強い風と自然の凄さを誇示しているのか。

喋り放しだった昼間と違って、何故かさっきから会話はほとんどない。
落ち着き払ったような雰囲気の和を象徴するこの木が、沈黙を増長させるようだ。


さっきの……。
湘南平で、海斗は少し様子がおかしかった。
昔、何かあそこであったのかな……?
大切な思い出とか、忘れられないこと……。

いや。
別にいいんだけど、さ。

いいんだけど……。
だけど……。


「湘南平、綺麗だったね」


新江ノ島水族館が近づくと、あたしは今迄の沈黙が何でもないように言った。
ようやく道路の向こう側に海も見えてくる。


「そーだな」

「前も行ったことあるの?」


これって、もしかして怪しい訊き方?


「昔な」


そう答えた海斗は、まっすぐ前を向いたまま。
考えてみれば、湘南平からここまで来る間、一度もこっちを向いてない気がする。


「女の子と?」


うわ。
これって何だかヤキモチ妬いてるような訊き方かな?
そーじゃないんだけどさ。
また突っ込まれるかな?


「………」


……あれ?


海斗は少し黙ったかと思うと、顔を歪めてクククっと笑いだした。


「あそこに男と行ったら気持ち悪いだろ?」

「そ、そーだけどっ。一応訊いてみただけだもんっ」

「何だよ? それ。
ヤキモチじゃねーよな?」


あ。やっぱり言われたっ。


「違うしっ」

「……そーだな」


直線で出ていたスピードが緩まり、目の前の赤信号で停車した。
そしてあたしの方に海斗の顔が向けられた。

夜の闇の中に、街灯で薄っすらと照らされた海斗にどきっとする。
やっぱり、顔だけは良いらしい。

海斗は、ハンドルからほんの少し指を浮かせながら言った。


「これからさ、一応週末は空けとけよ。
土曜か日曜。都合の良い方。」


それって……。


「デートするって、こと?」

「一応付き合ってるんだから、それくらいするだろ?」

「うん。まぁ……そう、だね」


……毎週デートなんて。
本当の恋人みたいじゃん。

今、彼女とか遊んだりする子は、いないってことだよね?
あたしのこと、一応は彼女扱いなの?


「それにさ、オマエ。早く携帯買えよ。不便」

「え……携帯?」

「壊れたまんまじゃ連絡つきにくいし」

「あー、うん」

「買ったらすぐに連絡しろよ」

「……うん」


頷くと、海斗はあたしの目の前のダッシュボードに手を伸ばし、そこからメモ帳とボールペンを取り出してさらさらと何か書き始めた。

そしてそれをあたしに無言で手渡してくる。
受け取ると、信号はちょうど青へと変わり、車はまた走り出した。


「しまっといて」

「うん」


一瞬で、紙の上に並べられた数字が携帯の番号だと分かり、あたしはその一番上の紙を切り取って、メモ帳とボールペンを元の位置に戻した。

バタンと音が立てられてダッシュボードが閉じられると、その切り取った紙へと目を落とした。

携帯の電話番号とメールアドレス。
名前さえ書いていない。

でも、なんだかそれがコイツっぽかったりする。
思わず、含み笑いをする。


「汚い、字」

「余計なお世話。
いいから連絡入れろよ」

「はいはい」

「ハイは一回」

「はーい」


アハハ、と笑って車のシートに寄りかかった。

窓の外の景色はもう、お洒落な江ノ島の店が並ぶ海の景色に変わっていた。







そのあとは、海斗に連れられるがまま、海沿いにあるレストランで食事をした。

江ノ島に着くまでの会話のなかった時間と違って、あたし達はお互いによく喋った。

くだらない話が大半を占めていたけど。
それでも海斗のこと、少しは分かった。

恵比寿にある実家に住んでる、とか。
就職してから欲しかった車をローンで買った、とか。
誕生日は6月でもう23歳になった、とか。
二つ年上のお姉さんがいて、看護師をやっている、とか。
ハワイに留学してた、とか。(ハワイに留学する人なんて初めて聞いたかも……)
だから毎日サーフィンばっかりしてた、とか。
中学の時はサッカー部だった、とか。
色々。

普通は付き合う前に知る内容のような気もする……。


色んな話をしたけど。
全部ホントのことなんだろうけど、コイツの場合、何だか癪に障るっていうか……。
だって、女の子がカッコイイな、とか、ちょっと憧れちゃうようなことばっかりだし。
自慢げに話してるわけじゃないんだけど、何だかムカつくの。
多分、あたしは、こういうちゃらちゃらした男が、タイプじゃないからかもしれないけど。

連れて行ってくれたレストランも、きっと雑誌に紹介されているであろう、お洒落なお店だった。
真っ正面は海で、大人っぽくライトアップされた、いかにも女の子が喜びそうなトコロ。
あたしにはそれが逆に、コイツ慣れてるなぁ、って感じで、冷めた目で見てしまう。

それって、変かな?

でも、これって、ヤツ曰くゲームだし。
そんな風に思うのも仕方ないよね?
それともあたしが素直じゃないだけ?

だって、正直に。
どこまでコイツのコトを信用していいか、分からないんだよね……。





「送ってくれて、ありがとう」


あたしのアパートの前で、海斗の車が止められた。
朝早くから始まったデートも、こうして終わってみると、案外呆気なかったな、と思う。
だけど、当初の目的は、お互いにまだ達成していない。
まだまだこれから、先は長い……の、かな。


「今日は、御馳走様でした」


車を降りる前に、一応はきちんと挨拶。
ぺこりと軽く頭も下げる。


あ。
にっこり可愛く笑った方が効果的だったかな?


「ぶっ」

「あっ! ちょっと、何吹き出してんのっ!?」


海斗は口元に手を当て、声を押し殺すようにクククっと笑っている。
良く分からないけれど、物凄く馬鹿にされているということだけは見て取れる。

あたしの怒った顔に海斗はどうにか笑い声を治めて、それでも楽しそうにこちらを見る。


「お前の考えてること、読め過ぎ。
もーちょっと顔に出ないようにしないと無理だなー」


……読め過ぎ……。


「もうっ! 失礼だからっ!」


思わず頬を膨らませた。
ヤバい。これがいけないの?


「あははは。マジで面白いヤツ」

「笑いすぎだし!」


お腹を抱えて笑い出した。
しかも涙まで浮かべてない?

何だかちゃんと、女として見られてない気がする……。
これじゃあオトすどころじゃないじゃん……。


「も、いーよ。帰る。じゃーね」


ふん、と。顔を叛けてドアに手をかけた。
けれど、ドアを開けようとした瞬間、その反対の腕をぐっと掴まれた。


「絶対、連絡しろよな」


甘さを含んだ、低い声。

振り返ると――目の前の顔は、数秒前まで見せていた顔とは違っていた。
唇をほんの少し上げて、柔らかな顔つきでまっすぐにあたしを射貫いてくいる。

心臓が、高鳴った。

だって、こんな車の狭い空間で、暗い中で。
しかも至近距離で、こんな顔つき。

地なのか計算なのか分からない行動と言動。

触れられたその腕が、熱く感じる。

頭の中まで熱が沸くようで、どうしたらいいのか分からなくなる。


「……する、よ。
携帯買ったらメールする」


目を見ると引き摺りこまれそうで、ほんの少し顔を逸らして答えた。


「待ってる」


すぐ傍で海斗の声がそう言って、あたしの腕からパッと手が離れた。
それでも掴まれていた部分に、指の感触が残っている。


――『待ってる』なんて。
本気で言っているのか、分からない言葉。

それでもそんな風に言われると、本気なのかとも錯覚させられて、身体のどこかがむず痒いように落ち着かなくなる。


あたしはそれを振り払うように「じゃあね」と言って、そのまま車を降りた。












次の日の日曜日。
あたしは昼間、携帯電話のショップへと出掛けた。

海斗に言われたからじゃあなくて、ただ単にないと不便だから。
元々すぐに行かなきゃと思っていたのに、昨日は行けなかったし。

壊れた携帯を直すか、新しいものに買い替えるか悩んで、結局新しく買い直した。
直すとなると、修理代は全額負担だし、時間がかかると言われたから。
今迄のと同じ機種にしようかとそこでも悩んで、新機種にした。

全く動かなかったから心配していたけれど、データーは生きていてホッとする。
見た目と性能は違うけれど、電話番号もメールアドレスも中身も、全く同じ。
海斗と出逢う前と。
アイツのデーターだけが、まだ入っていない。

昨日海斗に言われた『連絡入れろよな』という言葉が頭に過る。

だけど、買ってすぐに連絡入れるのって癪。
まるで、凄く気にしているみたいで。


少しは焦らしてやるくらいのがいいよね?


プライドからなのか、“すぐに”という言葉に引っかかっているのかは分からないけれど。
頭の片隅にはずっと海斗の言葉があるのに、あたしは連絡を入れないでいた。

馬鹿みたいに悩んで、ようやく夜になってからメールを打ち始めた。
あの汚い字が並ぶ紙を見ながら。


初っ端から長い文章じゃない方が良い?
絵文字とか使うのも、いかにもっぽいし。
シンプルな方がいいかな? 深読みされるのも嫌だし。
だけど可愛いらしい感じ、だよね?


打ち始めたら打ち始めたで、なかなか指が進まない。
妙に、頭を捻らせてしまう。


……て、ゆーか。あたしってば、馬鹿?
たかだかメールひとつで、こんなに悩んでるなんて。


「あー……もうっ」


誰もいない部屋で、思わずひとりごちる。
ふるふると首を振ると、今度はさっさと指を動かした。


『昨日はありがと。
携帯 今日買ったよ。一番新しいヤツ。
連絡ちょうだいね』


短い文章。
シンプルで、たったそれだけの内容なのに、出来上がってみても何故か緊張する。
何となく、送信するのをためらってしまう。

アドレスが間違っていないか何度も確認をしてから、あたしは送信ボタンを押した。


返事……すぐ来るのかな?


そう思いながら、テーブルの上に携帯と海斗の書いた紙を一緒に置いた。

そしていつもの日曜日と同じように、ぼんやりとした時間を過ごす。

布張りの赤いラブソファーに凭れかかって、テレビのスイッチを入れる。
窓を覆い隠すのは、白いコットンのカーテン。
その大きな窓から昼間射し込む陽を浴びて、いつの間にかハート型の葉を増やしたクワズイモ。
ナチュラルな木目のタモ材を使ったサイドボードにチェスト、ローテーブルはお揃い。
照明だって、小物だって、一人暮らしを始めてから、少しづつ自分の好きなモノを揃えていった。

この部屋にあるもので、嫌いなものなんてない。
あたしの一番落ち着く場所で、一番好きな場所。

――なのに、落ち着かない。
一人で過ごす日曜日の時間の流れは、ゆっくりすぎる。

そこに置いたままの新しい携帯電話が気になった。
使い方もまだろくすっぽ覚えていないのに、触る気にはなれなくて。
だけど何度も何度も見てしまう。
気になんて、したくないのに。

微動だにしないその存在が、頭の中を占めているかのようだった。


ちょっと、あたし気にしすぎ!

待つのって嫌なんだよね……。
だから気になっちゃうんだ……。


いつの間にか毎週見るドラマもバラエティーも終わり、刻々と一日の終わりは近づいていった。


けれど、日付が変わって部屋の灯りを落としてからも、結局海斗からメールの返信も電話も来ることはなかった。

update : 2007.07.〜