05
とにかく眩しさを感じて、目が覚めた。
眠たさのせいなのか、強い太陽のせいなのか、瞼が重い。
あくびと共に滲んだ目をごしごしとこすってから気付く。
そういえば……バッチリ、マスカラしてたんだっけ……。
薄く開いた瞼の隙から、金色の光とブルーが飛び込んでくる。
……わ。
――海、だ。
目の前のフロントガラスに広がるのは、広がる海と空と、夏の雲。ずらりと並ぶ車。
覚めたばかりの頭でも、すぐにどこか海岸の駐車場だと分かる。
シートから身体を起こすと、そこからはらりと何か足元へ落ちた。
腕を伸ばして、それを拾い上げる。
……シャツ? アイツの?
寝てる間に掛けてくれたの……?
やっぱり、結構優しいところもあるのかな……。
て、ゆーか。アイツ、どこ行っちゃったの?
運転席に、海斗はいない。
車のエンジンは掛かったままで、クーラーが車内を冷やりとさせている。
あたしは、倒していたシートを元に戻して、車のドアを開けた。
ドアが開かれた瞬間、湿気を含んだ熱い空気が急激に流れ込み、身体を包む。
強い日差しが照り付け、アスファルトの熱と反射が一気に汗を噴き出させる。
「暑っ……」
潮の香りを含んだ風が通り過ぎて、結った髪のおくれ毛が頬をくすぐった。
乱反射して輝く青い海は、空との境界線をはっきりと作るように、真っ白い入道雲を大きく広げる。
海なんて見るの、久し振り。
綺麗……。
ところで、ここってどこだろう?
海のずっと向こう側に見えるのは、緑の乗ったエクレアみたいな形の島と――あれは多分、富士山……じゃない、か、な?
「おー。やっと起きた?」
後ろから聞こえてきた大袈裟な声に振り向いた。
声の主は思っていた通りの人物なのに、予想もつかなかった姿に視線が固まる。
そこには、ラッシュガード姿でサーフボードを持った海斗が立っていた。
「海入って来ていい? オマエ、どうせ支度に時間かかるだろ?
水着に着替えたら、砂浜に降りてこいよ」
「え。あ、うん……。
って。どうしたの? その格好……。
海斗、サーフィンやるの?
それに、ここってどこ?」
飄々としている海斗に、わけが分からず訊いたのに、彼はあからさまにあたしに向かって呆れた溜め息を吐き出した。
「オマエ、ホントに全っ然覚えてねーのな。
昨日、オレがサーフィンやってる、って言ったら『ちゃらちゃらしてて、どんだけ出来るのか見せてみな』って絡んだのオマエだし。
それで朝から海行く、ってなったんだけど」
「え!? そーなの!?」
や。全然知らない……っていうか、やっぱり全く覚えてないんだけど!
「そーだよ。
で、まぁデートなら湘南のがいいかなって。ここは七里ヶ浜」
デート!?
………。
そっか。一応はデートになるのか……。
はぁ。
ほんっとに覚えてないし!
もー参ったな。他に変なこと言ってないかな……?
「……って、な、に?」
じっとあたしの方を見つめてくる海斗の視線に気が付いた。
少し離れた距離だったのに、海斗はあたしを見つめながら近づく。
その距離がすぐ目の前まで縮まると、海斗はあたしの顔を覗き込んできた。
ドキッとする。
だから、何……?
そうかと思うと、海斗は口を押さえてぶーっと噴き出した。
「ええ? ちょっとっ! 何で笑うの!?」
「おっまえさぁー、鏡見てみろよなっ。ヨダレの痕、白くなってるしっ」
「ええっ!? 嘘っ!?」
さっと、反射的に両手で口元を隠した。
は、恥ずかしいっ。
だけどそんなに笑うことないのにっ!
「しかも、目の下も何か黒いし」
「これは――!」
さっきこすったマスカラ……。
「とある、動物か、っての」
「………」
もー、やだ……。
返す言葉もない……。
「マジで面白れー……。
クククっ。ほら、コレ」
海斗はお腹を片手で押さえながら、あたしにハイ、と、掌にすっぽりと収まる大きさの楕円形の入れ物を手渡してきた。
あたしはわけが分からないまま、手の中のそれを見つめた。
日焼け止め……?
「どーせ、海なんて来ると思ってなかったんだろ?
さっきコンビニで買っといた。車にお茶とおにぎりもあるから。
海岸に来るとき、エンジン切って鍵閉めてこいよ」
「う、ん」
あたしが返事をすると、海斗はくるりと背中を向けて片手を上げてから海岸に向かった。
歩きながら「ホント、面白ぇ……」と呟いて、クククッと笑いを漏らしているのが聞こえた。
もうっ! ホント一言い多いヤツ!
あたしはぐいぐいっと口元を腕でこすってから、渡された日焼け止めへともう一度視線を落とした。
――まぁ。ちょっとは気が利くトコもあるみたいだけど、さ。
海斗から言われた通りに、車の中で水着に着替えてから、海岸へと降りた。
実際砂浜に降り立つと、駐車場から見た海とはまた違った感動があるから不思議なものだ。
限りなく遠い水平線は、どこまでも続いているように見えて。
空は傷ひとつないガラスのように澄んでいる。
リズムを刻む波音は、音楽でも聴いているようで。
とにかく広大で解放感があるこの景色は、気持ちがいい。
太陽の光の粒がキラキラと輝いていて、目に余るほどどこも眩しかった。
だけど、実は間近で見る海は、綺麗とは言い難い色だな、とも思う。
5月の連休に行った沖縄とは大違いで、泳いで潜るのは遠慮したいくらいだ。
海岸の砂も、黒っぽくてベトベトしている。
それなのに、駐車場の横にあるファーストキッチンでさえお洒落に見えてしまう、湘南の海。
砂浜に寝転ぶカップルも、波打ち際で悠々と走り回る黒いラブラドールも、みんな絵になっていて、普通の海水浴場とは違って見える。
雰囲気に、酔える感じだ。
その黒っぽい砂の上に更紗を敷くと、あたしは腰を下した。
グリーン地のアジアンっぽい柄のもの。海斗がお茶やおにぎりと一緒に、車の中に用意しておいてくれていた。
ビニールシートなんかじゃなくて、こういうのもなんだかニクイ。
だって、素直に可愛いって思うし、この海によく似合う。
薄い更紗を隔てて、焼けた砂の熱が伝わってくる。
照り返しも凄くて、とにかく暑い。
海斗から貰った日焼け止めが、きちんと効き目があるのか心配になるくらい、日差しが肌をじりじりと射す。
お茶を口に含みながら、目の前の海に点々と浮かぶサーファーを眺めた。
ずっと向こうの離れた所で、沢山のサーファー達が波待ちしている。
海斗がどれか……なんて分かるわけがないくらい、広がる海に浮かぶ人影は黒く小さく、多い。
こんな風に波打ち際に座って、サーフィンをするところを眺めるなんて初めてだ。
だけどその様をぼんやりと見ているのは、意外にも飽きないし楽しかった。
波の上を滑るように降りる姿は、やっぱりカッコイイと思う。
そしてその中でも一際上手いな、という人がいた。
サーフィンのことなんて全く分からないあたしでも、この人のサーフィン綺麗だな、と思えるほど、一人だけやけに目立っていた。
海面が立ち上がりを見せ始めると、他の人を寄せ付けないほど上手にその波を捕まえて乗りこなす。
繰り返し、繰り返し、パドリング、テイクオフという作業のような動作。
だけど少しずつ違う波とライディング。
大きな波でも、果敢に挑んでいく。
暫く、ずっとその人を見つめていた。
そして、その人が海岸に上がって来た時に、ようやくそれが海斗だったということに気が付いた。
軽々とボードを脇に抱え、身体から落ちる水滴で砂を黒く染めながら、こちらに向かってくる。
強い光線が海斗の濡れた肌を光らせる。
それを見ているのが眩しくて、思わず目を細めた。
いや。これって、きっと、太陽が眩しいから……だよね?
だけどあたしの目の前に来た海斗に――悔しいけど。
やっぱりカッコイイ……なんて、思ってしまう。
日焼けしたがっちりとした太い腕。
綺麗な筋肉の付いた胸板。
広い肩。
均整のとれた身体は、凄く男っぽくて……。
今、腰を屈めながら、サーブボードを砂の上に置く動作さえ。
「お待たせ」
「遅いよ」
「見てた?」
「………。
遠くてどれか分かんなかった……」
「うーん……。そう? 残念」
にやりと微笑んだかと思うと、海斗はあたしの隣に腰を下した。
そして気持ち良さそうに空を仰いでいる。
……あたしってば素直じゃない。
だけど、上手だったね、見てた、なんて言うの、何だか気恥しいっていうか。
それに言ったらまた調子に乗りそうだし。
ふ、と。すぐ横の海斗を見た。
濡れた髪と身体から、ぽたぽたと滴が落ちる。
海斗の浅黒い肌に付いた水滴が、陽光できらりと光った。
別に、男の人の裸なんて、何度も見たことあるのに……。
妙な色っぽさがあって、ドキドキさせられる。
ヤダ。あたし、変……。
あたしが視線を逸らしたら、今度は視線を感じた。
仕方なく海斗の方に顔を向けると、ばちりと目が合う。
「可愛いな」
「えっ……?」
どきりと心臓が跳ねる。
合わされた瞳がゆっくりと優しいものに変わって、目の前の顔が笑顔になった。
「水着」
水、着……。
む、むかつく!
こいつっ。絶対、確信犯っ!
「うーん。やっぱ、もうちょっと胸ねーとなぁ」
「あっ! ちょっと、もうっ! 失礼ねっ!」
大笑いしてる海斗の腕を、バシッと小気味良いくらいの音を立てて叩いてやった。
もう! 信じらんないっ!
いてて、と、わざとらしく応対する海斗から、ふん、と頬を膨らませてそっぽを向くと、後ろから女の人の声が聞こえた。
「海斗! どーしたの? 久し振りじゃない!?」
嬉しさを含んだその声へ振り向くと、長い髪の綺麗で大人っぽい女の人が立っていた。
ブラウンの三角ビキニが似合いすぎるくらいのスタイルの良さで、背も高くて細くて胸も大きい。
まるで雑誌から飛び出たモデルみたいだ。
思わず、自分との差に恥ずかしくなるくらいだった。
海斗は座ったまま彼女を見上げて微笑んだ。
「おー。麻紀、久し振り」
「海、入ってきたの?」
「ちょっとな」
「今日、結構いい波あるよね」
「んー、まあな。肩から頭ってトコ」
「海斗が乗ってるところ、久し振りに見たかったなー」
横でそんな会話をぼんやり聞いていると、マキと呼ばれたその女の人と、いきなり目が合った。
そうかと思うとあたしに、ふっと、意地悪そうな笑顔を見せてくる。
「相変わらずね。海斗ってば、可愛い女の子連れて。
どうも、森田 麻紀(もりた まき)です」
「……あ。工藤 菜奈です……」
麻紀さんの挨拶に、あたしはぺこりと小さく頭を下げた。
『相変わらずね』と『可愛い女の子』は、何だか嫌味に聞こえるんですけど……。
それに、意地悪そうに笑ったのは気のせい?
「向こうに皆いるけど、来ない?」
麻紀さんが駐車場の方を指差した。
少し屈んだその姿勢は、女のあたしからみてもドキドキするようなポーズだ。
豊満な胸の谷間。くびれたウエスト。
神様って不公平。
さっき言われた『もうちょっと胸ねーとなぁ』が、頭の中を反復する。
行くのかな? と居心地悪く思うと、海斗がさらりと答えた。
「あー。オレ、一応デート中だし。遠慮しとく」
……デート中?
どきりとした。
だけど。
一応、は余計じゃないの?
「ふーん。そう?」
麻紀さんは冷めたような口調でつんと顎を上げて答え、屈んでいた姿勢をまっすぐに正した。
「じゃあ、またね」
海斗ににっこりと微笑むと、あたしの方にも視線を送る。
それは如何にも見下したようなものだった。
あたしと目が合うと、麻紀さんはさっと踵を返した。
すらりと長い足下に砂を散らしながら、麻紀さんの後姿は遠退く。
そんな姿も凛とサマになっていて、思わずその場から見送ってしまった。
何だか……。すっごい挑戦的な感じがしたけど。
やっぱり海斗に気があるのかなぁ?
あんな風に女の人に見られたら、何となく気になってしまうのは普通だと思う。
それなのに、捩っていた首を隣に向けると、大元の当人は何ともないような顔つきをしている。
「友達? 綺麗な人だね」
「あー。元カノ」
「えっ!?」
「何? 妬ける?」
「な、何であたしが妬くのよ?」
当然のことながら、ありえないと怒ったようにそう言うと、海斗は、あはは、と笑い声を立てた。
「まぁ、そーだな。オレ達、恋愛感情ないしな」
海斗も当然と言った口調だ。
………。
そーだけど……。
「彼女にはあったワケ?」
「ないよ。だから上手くいかなかったんじゃん?
アイツ、プライド高いしなー」
あっ。また……ムカツク発言……。
しかもあたしって、同レベルってことだよね……。
恋愛感情なくて付き合える女……。
胸を針で突かれたような、ちくちくとした妙な痛みがする。
あたしだって、好きでもなんでもないのに。
そう言われてもおかしくないはずなのに、言われたら言われたで傷付いた気分にさせられるなんて。
ホントに癇に障るオトコ。
だからつい、嫌みを言ってやりたくなるんだ。
「やっぱりちゃんとした恋愛したことないんでしょ?」
澄ました顔で言ってやった。
「あるって言ってるじゃん」
あたしの言葉に乗っかったように、海斗はムッとしたような口調で返してきた。
そしてそこにあった、あたしが飲みかけのペットボトルのお茶を徐に口にする。
あたしはその様を横目で流すように見ていた。
結構、分かりやすい男……かも。
「……ふぅん」
「何?」
「や。ホントに海斗が本気で好きになった人っているんだ? と思って」
「何だよ。大体、オマエがオレのこと本気にさせるんじゃなかったけ?
恋愛経験豊富な菜奈チャン」
ムッとした顔はどこに行ったやら、海斗はまた意地悪そうな笑みを見せた。
こいつっ。どうせ無理だろくらいに思ってるんでしょっ!?
ムカツクっ!
「て、ゆーか。ズルくない? あたしだけ頑張るの?
自分だってあたしを好きにさせてみなさいよ。それとも自分こそ自信ない?」
あたしも意地悪な口調で言った。
だって。ホントにズルイし。
「………」
海斗は口を閉ざしたかと思うと、急に真剣な眼差しで見つめてきた。
少し茶色みがかった透明な瞳に、あたしが映った。
なぜか視線を外せない――。
「菜奈って、可愛いな……」
「……え?」
ふっ、と彼の大きな手があたしの頬に触れた。
あの綺麗な顔が徐々に近づく。
――朝の夢と一緒だ。
あたしは近づいてくる唇に躊躇しながらも、拒むことが出来ない。
まるで、吸いこまれるように。
だけど、あとほんの数センチの距離で、昨日の瑞穂と海斗のキスシーンが頭を過った。
皆の前で躊躇なく合わせた、慣れた様子のキスが――。
「ぶっ」
あたしは唇が触れる寸前のところで、海斗の顔を手で拒んだ。
「ヤダっ」
「何だよ」
「真昼間からこんな所でっ。人も見てるっ」
「暗くて人のいないトコならいいの?」
「そーじゃなくて、あたしのこと好きじゃないじゃん! あたしだって好きじゃないしっ。
そんな簡単にキスなんて嫌」
「………。
何だ。ざーんねん。キス、自信あるのにな。
オレ、結構上手いけど?」
「ちょ……っ」
し、信じらんないっ!!
「自信あるとか普通言う!?」
「結構、コレでオチるんだよ」
根拠と自信をたっぷりみなぎらせた、悪魔のような微笑み。
こいつってばっ!!
「そんな子達と一緒にしないでよ!」
「だって、一応付き合ってるし。普通するじゃん?」
「言ったでしょ! 好きじゃないのにしたくないし!」
いや。本来なら付き合ったらするよね? 確かに。
付き合ってて、しないのもオカシイとも思うけど。
ハタチ過ぎたいい歳の女が、キス程度を拒むのも。
だけどムカつくもん。こんなでしたくないもん。
あたしのこと好きじゃないとか言ってるヤツと!
あたしは上目遣いで睨んだ。
だけど海斗は、勝算でもあるような顔で、あたしのことを見つめ返してくる。
「ふぅん。じゃ、ぜってー言わせてやる。『キスして』って」
「言わないし!」
「言ったな……。
いいよ。じゃあ、オマエがしてくれって言うまでぜってー手ぇ出さねーよ。
ぜってーオレのが先に好きにさせてやる。覚悟しろよ」
「出来るモノならやってみなさいよ!
自分こそ『して下さい』って言う羽目になるんだからね!」
「先に言った方が負け、だな」
「何それ? 恋愛に勝ちとか負けとかないし!」
何を……わけ分かんないこと言ってるの?
確かにあたし達、そんな関係かもしれないけど。
「オトすか、オトされるか。これはゲームだよ。
どちらかがオチたらゲームセット。
キスして……バイバイ――だな」
あたしを覗きこむように間近に顔が近づいて、海斗は言った。
不敵な自信有り気な顔つき。
確かに、カッコイイけどさ。
本当に意地っ張りでプライドの高い自信家!
やって貰おうじゃん。
望むところ!
あたしのが、絶対先に好きにさせてやるっ!
女が皆アンタを好きだなんてないってこと、思い知らせてやるっ!
ちゃんとしたキスをさせてやるんだから!
「いいよ」
あたしも自信を含んだように、そう答えた。
熱い日差しが照り付ける。
この大きな青い空の下。
あたし達は新たな約束を交わした。
引くに引けない二人の変な関係――。
ますますややこしくなってしまった。