04

「菜奈って、可愛いな……」

「……え?」


その言葉に驚いて海斗の方を向くと、彼はあたしのことをじっと見つめた。

吸い込まれそうな瞳に、あたしも目を逸らせなくなる。


ふっ、と。彼の大きな手があたしの頬に触れてきた。
あの綺麗な顔が、ゆっくりと近づいてくる。


え? ちょっと待って!
あたし達って、こーゆー関係だっけ?


戸惑う間にもますます、瞼を閉じかけた妖艶な顔は近づく。
このままの状態でいいのかさえ分からなくなるほど、頭の中が白く飛ぶ。


え!? どーしたらいいの!?
これってしなきゃいけないんだっけ!?


唇が触れる、と思ったとき、どこからか何かの音が聞こえた。


何の音?

あ。
電話。



頭に響くその音で、あたしはいきなり現実に引き戻された。

自然と薄っすら開いた目には、見慣れた白い天井が映った。


――何だ、夢か。

はぁ……良かったっ。
そーだよね? 何でアイツとあたしが……。
アレは全部夢?
そーだよね? アイツと付き合うとか考えらんないし。


起き抜けのぼんやりとした頭で考える。


あー頭痛い……。


部屋に鳴り続ける電話のコール音が、脳天にガンガンと伝わる。
どうやら鳴り止む様子はないらしい。


て、ゆーか。誰よ?


ベッドの上の目覚まし時計をちらりと確認した。
時計の針は6時10分。


「はぁ? 6時!? 何? 誰!?」


思わず、裏返った声が出る。

仕方なくベッドから起き上がり、しつこく鳴り続ける電話に向かった。
足を進める度に大きく頭が痛んで、足元がふらつく。

――二日酔い、だ。


「ハイ?」


こんな朝早くに誰よ? と、言わんばかりの声のトーンで受話器を取った。


て、ゆーか。ホントに誰よ?
二日酔いのあたしの安眠を妨害するなんて!


『オレ』


…………。


「は?」

『オレだよ、オレ』


その聞き覚えのある声に、ぼんやりとした頭は一瞬にして覚まさせられた。


「も、しかして……大野海斗!?」

『もしかして、じゃねーよ』

「えええっ!? 何でアンタが――」

『つか、いつまで寝てんだよ。早く起きろ』

「はあっ? 今、何時だと思ってんのよ!」


思わず出た大きな自分の大きな声が、頭の中を突き抜けるようにズキンと響いた。


「痛…っつぅ……」

『いいから早く出掛ける支度しろよ。
1時間後に迎えに行くから』


………。


「は?」

『ちゃんと水着用意しとけよ!』

「ええっ!?」

『じゃーな!』


わけが分からないまま、反論する間もなく一方的に電話は切れた。
茫然とするあたしの手の中で、訊き直すことも出来ないことを知らしめるように、通話中の電子音が繰り返される。


出掛ける支度!?
1時間後!?
水着!?

どーなってんの!?

って、電話――!
かけ直したくてもアイツの番号分かんないしっ!
しかも何でアイツ、ウチの電話番号知ってるわけ!?

あれ? しかも迎えに行くって、家の場所まで知ってるの!?

昨日の……付き合うって夢じゃないんだっけ?
あれ? どこまでが現実でどこまでが夢なの!?


何が何なんだか、頭の中は複雑に混線しているようだ。

頭を捻らせたけど、『1時間後に迎えに行く』という言葉が過ぎり、あたしは仕方なく二日酔いの頭を抱え、急いでバスルームに向かった。




シャワーを浴びながら、少しずつハッキリとし始めた頭で、昨日のことを懸命に思い出してみた。

あの――付き合うと言ったあと。

あたし達は勢いもあって、皆の前で恋人宣言までしてしまった。
恋人宣言、と言っても、ラブラブのカップルじゃあないんだから、勿論、甘いものでも可愛いものでもない。
「オレ達今日から付き合うから」と海斗が言い、あたしも可愛げなく「そーゆーことだから」とムキになって付け加えた。

どうみても皆の目からはおかしく映ったと思う。
だって、付き合う宣言しているのに、甘いムードとは程遠かったし。
どちらかと言うと喧嘩腰だし。

瑞穂達の「どーなってるの?」「何で?」攻撃にも、あたしは何も答えず、ヤケ酒のように次から次へとひたすら飲んだ。
そう、アイツの隣で。
「それくらいにしておけば?」と窘められた気が……。


ええと。
そこまでは覚えてるのよ。
だけど、それからどうしたんだっけ!?


躍起になって、頭を捻らせてみる。
けれど、二日酔いの頭痛が襲ってくるだけで、そこから先は一向に思い出せない。
……情けない。

でも。
シャワー前に見た鏡の中のあたしは、服も昨日のまま、メイクも落としていないままで……。

とりあえず、変なことはしていない……ハズ。



――1時間。
どう考えたって、シャワー込みでの支度は女の子にはキツイ。
それでもアイツに嫌味を言われるのは絶対に嫌だから、急ピッチで支度をした。

二日酔いの頭痛なんて吹っ飛んでしまうほど――いつにない集中力で。

だって。

『オトす』
と、約束したのだから、あたしの女の沽券をかけてそれなりにしなくては。

時間がないなりのメイクとヘアセット。
髪を巻いている余裕がないから、ルーズアップにする。前髪だけ、くるくるドライヤーで綺麗に整えて、スプレーとワックスでセット。
メイクも割とナチュラルで。アイラインは目立ち過ぎないように。睫だけはホットビューラーで完璧にカールして、マスカラはバッチリ重ねづけ。
グロスは買ったばかりのピンク系で可愛く、ね?

服も昨日の瑞穂仕様じゃないけれど、少し胸元が開いたホルターネックの綺麗め黒ワンピ。
ちょっとお姉さんちっく。これに大ぶりビーズのロングネックレスと、腕にはバングルを合わせてシンプル過ぎないように……。




そうこうしているうちに、すぐに約束の1時間は過ぎて、インターフォンが鳴った。


――来た!


軽快な呼び出し音と一緒に、あたしの心臓までが音を立て出す。


変じゃないよね?
それなりにバッチリ出来てるよね?


こんな風にドキドキするのは、きっと玄関のドアを開けた瞬間に、アイツに見定められるような気がするから。

妙な緊張を持ちながら、あたしは息を吸い込むと笑顔を作ってドアを開けた。


「おはよ」


言うまでもなく、そこにはアイツが立っていた。
愛想のない口調がすぐに返ってくる。


「オハヨ」


……全く。
もうちょっと、可愛げ出して言ってよ。


とは思うのに。
やっぱりカッコイイ。
……悔しいけど。


昨日とは打って変わって、Tシャツにビンテージデニムにキャップとカジュアルなスタイルだ。
そういう格好も良く似合っている。


……て。
え……?


海斗はドアに手を掛けたまま、あたしをじっと見つめてくる。


「な、に?」


これって……やっぱり、見定めてる……とか?
えーと。
だから……あたし、変じゃないよね?


ただじっとみつめてくる海斗の返答を、何故かドキドキしながら待つ。
すると、いきなりぶーっと吹き出された。


「ちょっ……! 何っ!?」

「だって……ぶぶっ……」

「え! だから何で笑うのよっ!」

「オマエ、気合い入れ過ぎっ。
海行くって昨日約束したじゃん。海行くカッコじゃねーだろソレ?」


ええっ!?

顔が火照る。
え。だって、海に行くなんて知らないし!
て、ゆーか。そんな約束昨日してたの!?


言葉も出ないでいるあたしの前で、海斗はただただ口元を押さえ、堪らないといった顔で笑っている。


ホントにムカツク奴っ!!


「あたしは海に行くときでもお洒落するんだもんっ」


口を尖らせて反論する。

だけど、そんな言葉も彼にとっては、もうツボにしかならないらしい。


「ぶぶぶ……。面白ぇ……。
つーか、支度出来てるなら行くぞ。車、下に路駐だし」

「もうっ! 笑わないでよ!」









あたしの住むアパートの1階の前に置いてあったのは、紺色のフォルクスワーゲン・ゴルフトゥーランだった。

やっぱり何だか生意気……とか思う。外車に乗ってるなんて。
同級生って言っていたから、今年、新入社員だと思うんだけど。
……それって、偏見かな。

そう思いつつも、カッコイイなぁ、と助手席に乗り込む。
こういう車に乗るのって、少し気分が躍ってしまう。なかなか乗る機会ってないし。

あたしがドアを閉めると、すぐにその車は発車した。


「具合悪くないのか? 二日酔い」


海斗はあたしを見ることなく、まっすぐに前を向いて言った。
あたしはそんな運転中の海斗を、ちらりと見て、シートに深く寄りかかる。


「悪いに決まってるじゃん……。
分かってて朝から出掛けるなんて……。
アンタは平気なの?」

「アンタとか言わないでくれる? 海斗でイイし。
一応は彼氏だろ?」


……彼氏。

その響きに今更ながらドキッとした。
あたしはやっぱり“彼女”になるんだよね?
何だか本当に変な関係だ、あたし達。
お互いに、好きでも何でもないのに……。


「オレそんなに飲んでねーし。
つーか。オマエ昨日のこと覚えてんの?」

「途中から分かんない……」


正直にそう答えると、海斗は小さく溜め息を吐いてから「だろーな」と苦笑いした。


「酔っ払って凄かったんだけど……。絡みまくり。
で、カレシなら今日はどこか連れてけ、とか。
皆の前で言い出したの、オマエだし」

「え!? そーなの!?」

「で。最後には潰れて、オレがタクシーで送った。
その途中で吐くし。そのあとはぐっすり寝ちゃって起きないし。
結局、菅野に電話してミカちゃんに家の場所聞いて貰って、ようやくアパートに着いた。
もう、最悪」


一気に血の気が引いた気がした。


あたし、ホントに最悪じゃん……。


「ごめんなさい……」

「………。
もう、いーから着くまで寝とけ」


その言葉と一緒に、あたしの頭の上に彼のキャップがグイッと被せられた。
今の今迄、海斗が被っていたキャップ――。


……あれ?
コイツってば、案外優しいトコある……?


「オレの車で吐かれたら最悪だし」

「………」


そっちかい!

ホントに一言多いヤツ!


あたしはシートを倒し、そこに身体を委ねると、頭に乗せられたキャップで顔を覆った。


「遠慮なく寝させて頂きます」


嫌味も込めてわざと丁寧に言うと、瞼を閉じた。
海斗は――それに答えることなく、黙ったままだ。

車内に流れるのは、走る車の音だけ。
シートから伝わる緩い震動は、眠りを誘う。
朝の日差しがガラス窓から差し込んでくるけれど、それが心地良くて。
キャップからほんのりと香る匂いは甘くて。妙に落ち着く。

あたしは簡単に夢の世界へと入ってしまった。

update : 2007.07.〜