3
次の日の朝。
あたしに奇跡が起こった。
『奇跡』なんて。多分、他の人からみたらかなり大袈裟って思われるくらいの事だろう。
だけど、3か月も頑張ってきたあたしへのご褒美のような気もした。
そのくらいの出来事。
毎日朝早く起きて奮闘するおにぎり作り。
初めておにぎりが三角に出来上がった。
ううん。三角…って言うと微妙かもしれないけど。三角にかなり近い。
普通の人ならきっと、このくらいが出来ないなんておかしいって思うかもしれない。
おにぎりを三角に握れる事が当たり前なのかもしれない。
だけど、頑張っても今迄出来なかったんだもん。
それがやっと出来たんだもん。
凄いよね、コレって。
何だかイイコトが起こりそうな予感がする。
もしかしたら今日こそおにぎりを受け取って貰えるかも……。
おにぎりの海苔を巻くと、卵焼きを作り始めた。
三角に握れたおにぎりの成果か、卵焼きもいつもより上手く出来た気がする。
まだまだ形は不格好で少し焦げてるけど……一応ちゃんと卵焼きのカタチ。
味は美味しい筈……と、思う。
卵焼き用のフライパンからお皿に移す時に、指が触れて軽い火傷をした。
だけどそんな事。全くと言っていい程気にならないくらい、あたしは心が浮き立っていた。
二つとも、こんなに上手に出来たのは初めてだったから。
今日はいつもより少し早く家を出た。
やっぱり何となく、気分が良くて。
早めに行って、高宮が来るの、教室の前で待とう。
学校に着くと、逸る気持ちを抑えて高宮のクラスへと向かった。
廊下を歩く足取りは自然と速くなる。
「あれ?関田さん?早いね」
3組の前のドアから教室を覗き込むと、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、そこには高宮の親友、南くんが立っていた。
「あ。南くんおはよう。高宮は?」
「高宮、朝練出てる。まだ体育館にいるんじゃん?オレ、先に上がってきたから」
「朝練?テスト前なのに?」
「県大会も近いからさ。3年は最後だし、気合い入ってるんだ」
「そっか」
――県大会……
三年生にとっては最後の大会。
頑張ってるんだな、高宮……。
あたしが少し残念そうに言うと、南くんは見越した様にニヤニヤと笑った。
だけど、メガネの奥は優しい瞳。
「行ってみなよ。体育館。
時間ぎりぎりまで練習してるの、どうせアイツだけ」
「うん。ありがと」
南くんは優しい。
あたしの事、何気に結構応援してくれてる。
小さく手を振る南くんに、あたしも小さく手を振ってから、廊下を歩く足を速めた。
校舎の長い廊下。
いくつも並ぶ大きな窓から校庭が見える。
その校庭の右横にある体育館。
体育館の前の花壇には、そこに咲き競うかの様に咲き乱れる紫陽花の花。
ここからだと、小さな花達が集まっているその花は、一房が一つの大輪の花のように見える。
その薄紫色の紫陽花が、風で揺らされているのが見えた。
あの桜の季節から3か月。
今日、もし、おにぎりを受け取ってくれたら……
この紫陽花の薄紫の色も、忘れられない色になるかもしれない。
一階まで降りて、体育館までの屋根が付いた渡り廊下を、登校する沢山の生徒達の間を早足で縫い歩いた。
屋根の間の見上げた空は厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうな空の色をしていた。
濃い灰色の雲。泣き出しそうな空。じっとりとする湿度の高い空気。
人の多いさっきまでの廊下と違って、体育館の前はひっそりと静まりかえっている。
今にも降り出しそうな雨を迎い入れるかのような静けさ。
あたしは前の方の入り口まで足を延ばす。
中を覗き込む前に、開いているドアから道着姿の高宮がちらりと中に見えた。
その姿にほっとするのと同時に、心臓が脈を打ち始めた。
入口のドアに手を掛けた瞬間。
その時に聞こえた声で、あたしの心臓はどきりと大きく跳ね上がった。
「急に、ごめんね……」
そう聞こえた声の持ち主は、佐倉美月だったから。
「別にいいよ」
答える高宮の声も優しい。
いつもと雰囲気が違う。
立ち聞きなんて良くない。
分かってる。
だけどあたしはそこから動けなくなってしまった。
「聞きたい事……あって」
「何?」
「関田さんと、仲……いいよね……?」
「は?関田?」
「昨日も……仲良さそうだったから気になって」
「別に……。いつもアイツが話しかけてくるだけ」
ずきりと胸に大きな衝撃が走った。
――『話しかけてくるだけ』
……分かってる、けど……
「でも、関田さんは高宮くんの事、好きだよね……?」
「アイツ、今迄振られたコトないから意地になってるだけだろ」
「高宮くんは、どう思ってるの……?」
一瞬の沈黙。
高宮の表情はここからよく見えない。
あたしの事――
どう思ってるか―――?
大きく心臓が音を立てて動き出す。
「………。思ってたよりはいいヤツかな、とは思う」
いいヤツ……
そんな風には思っててくれてたの……?
だけど。
少しほっとしたのも、ほんの束の間だった。
「まだあたしにも入る余裕……あるのかな……?」
彼女の高い声が頭に響いた。
佐倉美月が小さな紙袋を差し出したのが見える。
「お弁当、作ったの。食べて…くれる……?」
大きな痛みと一緒に、胸は握り潰された様にぎゅっと苦しくなった。
絶対にあたしには敵わないだろう。
おにぎりと卵焼きだけの格好悪いお弁当なんかじゃなく、料理が得意な彼女のお弁当。
彼の好きな人、のお弁当。
こうなる事は、分かっていた筈。
なのに。
少しの期待を持ってしまったあたしが馬鹿だったのかな――――
底から溢れ出すように涙が込み上げてきた。
足元のコンクリートに、ぽたりぽたりと雨の跡の様な水玉が作られていく。
気が付くとあたしの涙は瞳からはとうに溢れ出て、頬と顎を伝い滴り落ちていた。
雨が降り出したのが先か、あたしが涙を落としたのが先か、ぽつりぽつりと空まで泣きだした。
もう自分でも引き返せないくらいに好きになっていたのに。
こんなに好きなのに、報われない想い。
二人が両想いになる瞬間――
彼がお弁当を受け取る姿を見ている事はやっぱり出来なくて、踵を返そうとした。
その時だった。
後ろから誰かに腕を掴まれた。
冷たい感触がそこに走る。この季節なのに冷たいその手。
「オマエ、何やってんの?」
聞き覚えのある声に、振り向く。
「ケン……」
「何、泣いてんの?」
その声に、気付かれて――
あたしは高宮と目が合った。
少し離れたその場所。
だけど、彼の瞳があたしの顔を見つめたのが分かった。
涙を浮かべたあたしの顔に驚いたように、大きく目を見開いたのが見えた。
あたしの瞳と絡み合う高宮の視線。
驚きと困惑が入り混じったような、その瞳の色。
「ふ〜ん。そーゆーコト?」
ケンは体育館の二人をちらりと覗き見た後、あたしの背中をポンと押した。
「行くぞ」
その手に促されて、あたしは体育館を後にした。