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その日の放課後、あたしは2年以上この高校にいて、何回かしか足を踏み入れた事の無い図書室へと向かった。
学期末テスト前に、提出しないとならない世界史のレポートの資料が必要だったから。
勉強が好きでもないし、今迄適当にしかやってこなかったけど。
それでもやっぱり3年生にもなると、少しは気持ちが変わる。
人並に短大くらいは行きたいと思ってるし。
校内はさすがにテスト前ともあって、皆帰りが早い。
まだ16時だというのに、校内の廊下は人影も少なく、床に落とされる上履きの音がぺたぺたと響く。
図書室はA校舎の一階の一番奥。この階は図書室の他に、科学室と家庭科調理室がある。
だから余計に静かに感じるのかもしれない。
調理室の前を通り過ぎる時に、ふと、思い出す。
佐倉 美月の事――。
2か月前、図書室を訪れるその何回かのうちの一回。ここを通り過ぎる時、調理室の中には彼女がいた。
料理部の部活中だった。
ホントにたまたま廊下に面するドアが開いていたから、通り過ぎる様にちらりと中が見えただけだったんだけど。
それなのに、彼女はあたしに気が付いた。
他にも同じクラスの子が3人程いたのに、あたしを見つけて駆け寄って来たのは彼女だけだった。
「関田(せきた)さんっ。
今ね、クッキー焼けたばっかりなの。良かったら食べない?」
そう言って人懐っこく微笑んだ彼女。
会話だって、数えるくらいしかした事ないのに……。
そんな彼女の笑顔が眩しくて、敵わないな、って、思った。
さらさらの髪は一つに束ねられていて、それさえも清楚な感じで。
あたしとは違うと見せつけられた感じさえした。
その時の彼女が、まるで真っ白で汚れていないキャンパスのように思えたっけ。
家に貰って帰ったそのクッキーが、お店で売っているくらいに美味しくて。甘くて。
あたしは更に打ちのめされた気分になった。
そのせいで。
マトモに三角にならないおにぎりを、あたしはその日必死になっていくつも作った。
5合炊きの炊飯ジャーの中身が空になっても、三角にはなってくれなかった。
あたしはその不格好なおにぎりをやっぱり捨てる事ができなくて、食べられる分だけでもと、一生懸命に頬張った。
だけど、塩がキツクて妙にしょっぱくて。
何だか無性に悲しくなって、涙が零れ落ちた。
図書室のドアをスライドすると、中にはわりと人がいるもので少し驚いた。
いくつも規則的に並ぶ長テーブルには、教科書やら参考書やらを開いている生徒ばかりだ。
テスト前という事もあってか、呑気に本を読んでいる人などいない。皆無言で集中している。
ここでテスト勉強する生徒も結構いるんだ?
いつもこないから知らないだけか……。
あたしが本を探し出すと、後ろから急に声を掛けられた。
「関田さん?」
高くて澄んだ、可愛い声。
振り向くと、そこには佐倉美月が立っていた。
「佐倉さん……」
「関田さん、テスト勉強?」
「ううん。世界史のレポートの資料借りに」
「そうなんだ?あ、あたしね、良い本知ってるよ。こっちこっち」
そう言ったかと思うと、彼女はあたしの腕を掴んで歩き出す。
少し強引だな、と思いつつも、慣れなれしさが嫌味じゃない。
あたしは黙ってそれに従って後を歩いた。
歴史の分厚い本が立ち並ぶ一角に、彼女はあたしを連れて来た。
そして上から二段目の棚を指差した。
「あの本と、あとこれ。あたしも借りたんだけど良かったよ」
あたしが言われた本に手を伸ばす前に、彼女は踵を上げて手を伸ばした。
163センチあるあたしより、ずっと小柄な彼女。
本に手が届きそうにない彼女を横目でちらりと見て、自分の手を伸ばした時だった。
後ろから覆われたような感覚があったかと思うと、大きな骨っぽい手が先にその本を掴んだ。
思わず肩越しに振り返る。
「高宮……」
「珍しい組み合わせだな」
そう言って、高宮は手に取ったその本を、佐倉美月に手渡した。
「あ……これ、あたしじゃなくて、関田さんが使うんだ」
「へ〜。関田が?
ああ、レポートか。お前がココにいるなんて、普通じゃありえないしな」
「失礼、ね」
そう答えるあたしの胸には、鋭いモノが突き刺さったような痛みがあった。
あたしには似合わないけど、彼女ならこの場所がしっくりくるとでも言いたいんだろう。
そんな事。
言われなくても分かってるよ……。
いくら女の子らしくお弁当作ったって。
真面目な振りしたって。
彼女みたいには今更なれやしないって事も。
かなわないって事も。
そう少し気分が沈み、小さな息を漏らした。
そして睨むように、高宮を上目遣いで見上げた。
相変わらずクールな瞳。
この瞳が何時かあたしに笑いかけてくれるコトなんてあるのかな?
「何だよ、睨むなって」
「べ、別に、睨んでないもん」
「つーか。オマエちゃんとレポート書けるの?」
「書けるよ、それくらいっ」
「じゃ、頑張ってやってきな」
「……うん」
相変わらず、冷たい言い方。
でも。頑張れなんて言われたのは初めてかも。
「関田さんと高宮くんって、もしかして付き合ってる…の?最近仲良いよね?」
「えぇ?そう見えるっ!?」
彼女のその言葉に驚いて、思わず笑みが零れた。
他人からはそう見えるの?
そうならめっちゃ嬉しいんだけど!
しかも、相手は高宮の好きな人だし!
「な、ワケねーだろ。コイツ、オレの事からかってるだけ」
喜んだのも束の間、高宮は呆れた顔付きでそう返した。
そんな事、ないのに。
「……本気だもん」
「ばーか」
高宮とあたしの会話。
それを聞いた瞬間の、彼女の顔。
ホッとしたような、柔らかな笑みを浮かべた顔。
あたしはこの時に気付いてしまった。彼女の想い。
彼女の頬が、薄いピンク色に染まって、眩しそうに高宮を見つめる瞳に――……
あたしは気付いてしまった――……
「関田さん?」
強張ったあたしの顔に気が付いた彼女に、優しく覗きこまれた。
心配そうな、顔。
そんなに優しくしないで……。
「あ。あたしもう行かなきゃ」
いつもなら少しでも彼の傍に居たいと思うのに。
今は二人を見ていられないよ。
あたしはそう言い残し、足早に二人を残して図書室を後にした。
本を借りる事さえ出来ないまま――――。
次の日。
朝学校に着くと、自分の机の中に紙袋が入っている事に気が付いた。
怪しいと思いつつも、中を覗くと、昨日の歴史の本が入っていた。
高宮か、佐倉さん……どちらかが、に違いない。
……ううん
高宮が、なんて……ありえないか。
それはちょっと都合のいい考えだよね。
だって、あたしの事、どっちかっていうと迷惑っぽいし。
昨日のピンク色に染めた頬の彼女の顔が、ふっと、頭を掠めた。
きっと、彼女は高宮の事が好きなんだろう……
それは二人が両想いという事――
胸がぎゅっと締めつけられて苦しい。
もう……この辺が潮時なのかな……。
左手に持っていたいつもの苺柄の袋と一緒に、その紙袋の細い紐をギュッと握りしめた。
「本、有難う」
あたしは、教室に入って来た佐倉さんを見るとすぐにそう言った。
でも、多分顔はきちんと笑えていなかった。
彼女の顔を見たら急に、胸の奥から湧き上がる苦しくて黒い気持ちがあったから。
昨日、あの後二人はどうしたんだろうとか、もしかしたら二人で借りて届けてくれたのかもしれないとか……
そういう考えが急に頭に浮かんだ。
だけど、「え?」と、彼女は一度首を傾げた。
「あ。ううん、ごめんね。
結局借りられないままになっちゃったけど大丈夫だった?
急に帰っちゃったから、あたしも気が利かなくてごめんね」
あたしも彼女のその言葉に一度首を傾げた。
話が通じていない。
と、言う事は……
佐倉さんじゃなく、高宮がわざわざ借りて届けてくれたの?
……そんな事って、ありえる?
だけど。心臓が高鳴る。
もしかしたら、という気持ちが湧きあがる。
どうしよう。嬉しいかも……。
「ごめん!ちょっと用事思い出しちゃった!」
あたしは彼女にそう言い残し、自分の机から苺の袋を掴んで直ぐに3組へと向かった。
理数系の高宮のクラスはあたしの文系の7組と階が違う。
3組へと向かう階段をあたしは1段跳びで走って降りた。
気持ちが早く早くとあたしを焦らせる。
だけど最後の一番下の段で、逸る気持ちに付いていけない足がその一段を踏み外し、あっと思うとあたしは白い天井を仰いだ。
「痛…ぁ……」
馬鹿か?あたし。
登校時間で沢山の生徒がいる中。ホントに無様な格好。
だけど、腰とお尻を強打したあたしはすぐには動けなかった。
それでも倒れたまま、胸に抱えた苺の袋が無事かだけ手探りで確認する。
ああ、良かった。無事。
「何やってんの?オマエ」
その低い声が耳に入ったかと思うと、急に身体がふわりと宙に浮いた。
あたしに触れる、大きな手の感触。軽々と持ち上げるその力強さ。
視界の中に彼が入って、大きく心臓が跳ねた。
「……高宮」
とん。と、音を立てて、あたしは床に下ろされた。
「恥ずかしいヤツ」
あたしの事を見下げながら、冷たい眼差しを送ってくる。
だけど、こーゆートコ。
優しいとか思うのってあたしだけ?
「え……だって。あのっ、有難う」
「気を付けろよ。ちゃんと前見てんのか?
て。オマエ、弁当気にしてるのはいいけど、パンツ見えてたし」
「ええっ!?」
思わず慌てて両手でスカートを押さえた。
だけどその瞬間、高宮はぶぶぶっと噴き出した。
「オマエ、今更じゃん?遅いって。あははは」
て。大爆笑!?
は、恥ずかしい……
何でこんなに格好悪いんだろ。あたし……。
だけど、こんな風に高宮が笑ったの初めて見たかも……。
こんな時にその顔が可愛いなんて思ったらオカシイ?
「あ。そう言えば、本……」
あたしが言いかけると、高宮はぴたりと笑いが止まった。
「色ボケばっかしてねーで、頑張れよ。
オレのせいとか言われたらヤダし」
からかう様にそう言う。意地悪そうな笑顔。
――え。
やっぱ、それって……?
あたしが返事をする前に、高宮はくるりと踵を返した。
大きな背中。
眩しい。
それに。
高宮あたしの言う事信じてないんじゃなかったの?
ヤバい。諦めきれないじゃん。こんなの……。
胸を締め付けてくる甘い想い。
離れていく背中を見つめていると、手に持つ苺の袋を思い出す。
「あ!高宮っ!おにぎりっ!」
あたしが大きな声を出すと、高宮は一度振り向いた。
「オマエ、アイツに気を付けろよ。永井 ケン……」
――ケン?
高宮はそう言うとすぐにまた背中を向け、そのまま歩き出し、行ってしまった。
あーあ。また結局受け取って貰えなかったな。
ケンの事なんて。今はどうだっていいよ。
だって。
今日は何か少し違ったよね?
少し近づけた気がする。
彼女の事、好きなのは分かってる。
彼女も彼を好きな事も……。
だけど。
もう少し頑張ってもいいよね?
もう少し近づけるかな、高宮に……。