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「泣くなよ」
「………」
「そんなにアイツがイイ?」
廊下を歩く歩調がゆっくりになった。
そうかと思うと、ケンはあたしの手を掴んだ。
「痛…っ」
「……?そんな力入れてないけど?」
ケンはぱっと手を離すと、眉間に皺を寄せて不思議そうな顔をした。
何で痛いか、なんて。
こんな後から痛むなんて。
朝の指の火傷。
今更ずきずきと、大きく痛みが指先に走る。
さっきまで感じなかったのに。
「何?指、赤い?水膨れおこしてるじゃん。どうした?」
「……別に。ただの火傷」
「ちゃんと冷やして薬塗ったのかよ?」
足を止めたケンは、あたしの顔を覗き込む。
珍しく、心配そうな顔。
ああ。ケンもこんなトコあったんだ……
なんて、それも今更か。
ちゃんと見ていなかったし、見ようともしなかったのはあたしだし。
「してないけど、平気だよ」
「オマエさ。女だろ」
あたしの言葉に呆れた顔でケンは返す。
そのまま、また、手を引かれた。
今度は優しく、だ。
「保健室、行くぞ」
あたしの手を包み込む、ケンの冷たい手。
その冷たさが、心地良いくらいに感じた。
本当に。
あたしは今迄、何も見てきていなかった……な。
ケンに対しての罪悪感も込み上げる。
それにこんな気持ちの時に優しくされるなんて、何だかまた喉が圧迫されて目頭が熱くなる。
保健室のドアがケンの手で勢いよくスライドされた。
ドアが開かれたと同時に、消毒液の独特の匂いが鼻についた。
保健室には保健医の先生はまだ来ておらず、朝のこの時間、誰もいない室内は静まり返っている。
「何だ。まだいねーじゃん」
「あー、うん」
「中、入る?」
どきり。とした。
声のトーンが何だかさっきと違う。
何となく嫌な予感が走って、あたしは「教室に戻る」と言った。
「……何だよ。オレと二人じゃ不安?」
ついさっきまでの優しい顔付きはなくなっていた。
口の端を少し上げた、いつものいやらしい笑み。
ケンのその言葉の後に、あたしの手を握る掌に凄い力が入った。
ぐっと引っ張られ、保健室の中に力強く引き込まれたかと思うと、すぐにドアも勢いよく閉じられた。
ヤバい……
そう思った時には又あたしの手を握る力がより一層強くなった。
そして、今度は腰をぐっと掴んで、ケンに引き寄せられる。
「やめて、よ」
「何だよ、今更かわいこちゃんぶっても遅くね?」
口の端がまたいやらしく上がった。
目は笑ってないし。
「こんな事したってしょうがないでしょ!?」
「しょうがない?失礼だねぇ。オレ、遥のコト、マジだし」
「だったら余計、こんな事しないでよ!」
あたしはケンの手を振り払おうと力を入れた。
だけど、そんなの無駄な抵抗だと知らしめるかのように、更にケンの腕には力が入る。
「大体さ、あいつら上手くいってんじゃん?高宮と佐倉。
もう諦めろよ。オマエと高宮じゃどうやったって合わねーだろ」
………。
分かってるよ、言われなくたって………
ケンに言われた言葉が頭の中に反響して、一瞬身体が強張る。
その隙に、あたしの唇には強引にケンの唇が押し当てられた。
――嫌!!
だけど嫌だと抵抗する前にすぐにその唇はそこから離れて、今度は耳元に押し当てられた。
「こんなコト、好きでも無い相手といくらでもやってきただろ?セックスだって。
そんな女、高宮が相手にすると思う?」
耳元で囁かれたその言葉は魔法の呪文の様に、あたしの身体を強張らせ、動けなくさせた。
そして力づくであたしは床に押し倒され、背中に感じた痛みと共に、大きな虚しい音が保健室に響き渡たった。
「やめ…てっ」
抵抗しようするあたしの腕は、凄い力で押さえつけられる。
力を入れて押し返しても、びくともしない。
どうしよう。
マジでヤバい。
「やめてってば!!」
そう大きな声を出した瞬間、肉を叩く音と共に、頬に痛みを感じた。
口の中が血の味がする。
「静かにしろよ。遥チャン」
そう、あたしを見下ろすケンの瞳は、冷たく色が無い。
始業のチャイムの音が頭上で鳴り始める。
髪を梳く様に頬から後頭部へと大きな冷たい手で覆われた。
痛みより恐怖の方が強くて、全身から血の気が引く感覚を覚える。
「やめ…て」
「何今更言ってんの?のこのこ付いて来たの、オマエじゃん」
「それは……」
「高宮だって、オマエがこーゆー女だって思ってるよ。だから高宮はお前を選ばないんだよ。
自分自身がよーく知ってんだろ?大体、誰だって良かっただろ?」
頬に伝う生温かい感触がしたのと同時に、チャイムが鳴り終わる。
そうだった……よ。
だけど。
今は……
今は……
「今は違うっ!」
大きな声と共にあたしは右足を蹴り上げた。
「うっ…つ!!」
それはケンの急所にヒットし、一瞬、力が緩んだ。
その隙に、あたしは急いで立ち上がる。
「確かにそうだったよ!
だけど今は自分を大切にしたいの!もう前とは違うの!
高宮が好きだから彼に見合う女の子になりたいの!少しでも頑張りたいし変わりたいんだもん!」
そこから逃げ出す前に、どうしても言いたくなった。
そう言わずにはいられなかった。
こうなった事だって自業自得。
だけど、もう、昔の自分ではないから。
誇れる自分でありたいから。
「オマエって、馬鹿?」
よろめきながらケンが又あたしに近づいてきた。
マジで。逃げなきゃ――……
ケンの手があたしに延びる。
「きゃあっ!!」
あたしの手がケンの冷たい手にまた掴まれて、思わず恐怖でぎゅっと目を瞑った。
だけどその瞬間、保健室のドアが勢いよく開く音と、その声が聞こえた。
「何やってんだよ!!」
聞き覚えのある低い声が大きく響く。
あたしの大好きな声が――……
薄っすらと開いた瞳から見える大好きな人の歪んだ顔が、目の前の男の肩越しから見えた。
「高宮っ!!」
あたしが声を上げたのと同時に、彼の持っていた竹刀が空を切った。
あの時と同じ様に。
大きな音がした後、ケンが倒れこんだ。
その隙に、あたしは高宮に手を掴まれて、ぐっと引き寄せられた。
「馬鹿か!オマエ!何やってんだよ!?」
あまりにもビックリして、あたしは一瞬、声も出ない。
だって。あまりにもタイミング良く現れ過ぎだし。カッコ良すぎるし。
出逢った時と同じ様に、あたしの身体中に電気が走った様な感覚に襲われた。
唸って打たれた部位を押さえるケンに、高宮は吐き捨てるように言った。
「コイツに今後手ぇ出したら許さねぇ!とっとと消えろ!」
「…ん…だよっ」
ケンは苦痛な面持ちでゆっくりと立ち上がる。
そして近くにあったアルミのゴミ箱をガンっと大きな音を立てて蹴り上げると、そのまま保健室を後にした。
あたしはそれを見てほっとしたのと同時に、大きな不安が湧き上がった。
「高宮!試合前なのにヤバいって!」
「は?」
何言ってるの?と言うような顔付きで高宮は眉を顰める。
「ケンが学校に言って、竹刀で人を殴ったなんてばれたら試合出れなくなっちゃう!最後の大会なのに!」
あたしの言葉に、一瞬、高宮は目を見開いて沈黙する。
あれ?何で……?
そうかと思うと、クククっと笑いだした。
「ホント、馬鹿。オマエ」
その言葉と同時くらいに、あたしはふわりと温かいモノに包まれた。
高宮に引き寄せられ、抱きしめられたから。
ええ!?ちょっと……何で!?
「こんな時にそんな心配するか?普通。
人の事より自分の心配しろよ。
まぁそんなトコがいいんだけど」
「え?」
「て、ゆーか。心配かけさせんな」
何?それ……?
「何で?」
「何で、じゃ、ねーよ。分かんねーの?」
又、眉間に皺が寄る、高宮の顔。
………。
「分かんない、よ。佐倉さんは……?
だって。高宮、佐倉さんが好きなんでしょ?
さっきだって、告白されたんじゃないの?」
「つーか。何でアレ聞いて逃げるかな?
佐倉にあんな事言ってる時点で少しは自分に興味あるって気付かない?」
「えっ!?興味!?
わ、わかんないしっ!だって……」
「確かに佐倉の事は好きだった。
だったけど……
毎日オマエが来るようになって、一生懸命なトコ見てたら何だか何時の間にか気になって……」
あたしを包みこむ大きな手の反対の手は、そう言った瞬間、力が緩んだようで、持っていた竹刀が落ちて床に大きな音が立った。
そして見つめるクールなその顔は、赤く染まった。
耳まで真っ赤な、高宮の顔。
床に落とされた竹刀が転がる音が、カラカラと響く。
「とにかく、何時の間にか関田の事、気になってた。
好きになってた事に薄々気が付いてたのに、今迄取ってた態度から素直に言えなかった。
オマエがもしかして本気なのか……って思い始めてたけど、そんな風な態度で余計にオマエを試してた。
ずっと傷付けてごめん。
オレ、こんな嫌なヤツだぞ?それでもいいのか?」
ホントに……?
ホントにホント?
嘘じゃないよね……?
夢でもないよね……?
身体中に込み上げてくる大きな気持ち。
「高宮が、いいの……」
あたしはそう言って高宮の胸に、ゆっくりと顔を埋めた。
温かい胸。
高宮の鼓動が聞こえる。
触れた部分が熱くて。
その心臓の動きが痛いくらい伝わってくる。
身体の奥から湧き上がる、ぽおっと温かくなる甘い気持ち。
こんな温かさを感じたの、初めてだよ……。
何でずっと気付かなかったんだろう……。
好きだという気持ちだけでこんなにも違うという事に。
今迄してきた事が全く意味がなかったことに。
こんな風な気持ち……。
誰かを想う気持ち……。
好きという大きな気持ち。
大切にしたい。
これから。
大事に育てていこう。
ゆっくりと。
二人で……
出来るよね……?
「サボるか?」
「えっ?」
「授業。どっか、行こう」
高宮の言葉に驚く。
真面目な高宮がそんな事言うなんて。
「ダメだよ。テスト前じゃん!」
あたしがそう言うと高宮はまた眉を顰めた。
そうかと思うと、クククっと悪戯な笑顔で笑いだす。
「オマエがそんな事言うとは思わなかったな」
「え。何よ。だって……」
「じゃ、飯食ったら戻るか。」
「飯?」
「腹減った。朝練で。それ、チョーダイ」
「あ」
片手にずっと握られていた苺の袋。
あたしに回されていた手と身体が離れると、その苺の袋が高宮の手で宙に浮いた。
保健室の窓の外は、重たい灰色の雲で覆われた梅雨空から、音を立てて強い雨が打ち付けられていた。
そこからも見える、花壇の薄紫の紫陽花の花。
たっぷりと注がれるシャワーを浴びて、それを受け止めるように活き活きと力強くそこに咲き誇る。
梅雨の暗い空気も雨も跳ね返す美しさ。
やっぱり忘れらない色になったね。
あたしもどんな強い雨に打たれても、負けない強い心を持とう。
凛と。
誇らしく。
あたしの自信作のおにぎりを、美味しそうに頬張る彼を見て、思った。
明日は違うレパートリーにも挑戦してみよう、と。
END
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