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「いい加減、諦めたら?」
「諦められない」
あたしのその言葉を聞いて、彼は『呆れた』という様な表情をすると、小さく溜息を吐いた。
「何度も言ってるケド……」
「うん」
「オマエとは絶対付き合わない」
相変わらず、澄ました様な冷めた視線であたしの事を見下ろしながら、いつもと同じ低くて張りのある声で冷たく言い放つ。
でも、それでもいいのだ。
――好きだから。
何時か振り向いてくれるかもしれないし――。
そんな1%にも満たないかもしれない期待を胸に、毎日この会話を繰り返す。
いつもと同じ。朝登校する生徒が賑わう、彼のクラスの前の長い廊下で。
そして、いつもと同じ様にこの会話の後に、あたしは白地にピンクの苺柄の袋を差し出す。
「これ、食べて」
「いらねーし」
――即答。
これがあたし達の毎日。
でも、その日はいつもと少し違った。
いつもならここで終ってしまう会話。
すぐにくるりと背中を向けられる筈なのに。
だけど彼は、あたしを見つめながら、廊下の窓ガラスに手を付いて言った。
「オマエさ。手に入らないから俺が欲しいんだろ?
コドモがオモチャ欲しがってるのと一緒だよ。
手に入ったら直ぐに飽きるんだよ。ポイってね」
そんなコト――……
そう言葉が出掛かったのに。
彼はその言葉をあたしに言い残したまま、大股で行ってしまった。
……そんなコトないよ。じゃなきゃ何で毎日こんなコトしてるの?
だって、アナタはあたしが初めて好きになった人なのに……。
確かにあたしは今まで沢山のオトコと付き合ってきた。
でもこんなに好きになったコトないよ?
初めてアナタと出逢った時―――
ううん。その言い方だと語弊があるね。あたしがアナタを見つけた時……。
あの時からずっと。
あたしの心をこんなにも占めている――……。
「ンん……」
あたしはその時違うオトコと唇を合わせていた。
校舎の裏にある体育館の横。
春の強い風が、満開の桜の花びらを舞い散らせていたその下で……。
「は…るか……」
押し付けられた生温かい唇は、頬、そして首筋へと徐々に這うように移動してゆく。
鎖骨に唇が落とされた時だった。
悲鳴にも似た掛け声と共に、何かが衝撃を受けた音が鳴り響いた。
「………。
何……?」
あたしは閉じられていた瞳をゆっくりと開いた。
「あー?剣道の試合が始まったみたいだぜ?それよりさ……」
相手の男が腰をぐっと引き寄せてきたけれど、あたしはするりと逃げるようにして、その腕の中から抜け出した。
「おい。遥?」
あたしは声が漏れる方へと徐に歩き出し、開かれている体育館の裏口から中を覗き込んだ。
剣道着の生徒達の中心に、試合中であろう、やはり剣道着に面をつけた生徒が2人―――。
そこには凛とする空気があった。
思わず息を止めてしまう様な。
そしてそこに立つ、剣道着に面、竹刀を構えた背の高いオトコに一瞬で視線を奪われた。
瞬きする事さえ忘れるくらい、何故かその人に瞳は釘付けになった。
その人の周りは他の人と違って見えて……。
違う。
その人しか見えなかったのが正しいのかもしれない。
見えてはいたけど、周りはぼんやりとしていたのだ。
竹刀を構えたまま、彼も相手も殆ど動きがなかった。間をはかっているのだろう。
じりじりと時間だけが過ぎてゆく様な、張り詰めた空気。
それを打ち破るかの様に、腹の底から出たと分かる奇声とも言える声と共に、彼の竹刀が空を切った。
相手選手の面に当たって、清廉とした力強い音が響き渡った瞬間、あたしの身体中にも電気が走った。
そして審判が「一本!」と手を振り上げると、あたしの心臓は激しく高鳴っていて、全身が熱く、下から湧き上がるように火照った。
とにかく、あたしは一瞬にして、恋に落ちたのだ。
面で顔も見えない相手に。
礼の後、面を取った彼を見て、一緒にいた男は言った。
「あ〜、アイツ、3組の高宮だ。
ふ〜ん。剣道部だったんだ」
「高宮?」
「遥は知らねーよな?
高宮 祐(たかみや ゆう)。アイツ地味で目立たねーし」
「高宮…祐……」
あたしは酷く後悔の念が押し寄せた。
2年間も同じ学校にいて、彼のコトを知らなかったなんて――――。
サラサラの黒髪に、クールで細い切れ長の瞳。すらっと鼻筋の通った高い鼻。
線は細く見えるけど、そこに付いた鍛え上げられた筋肉。180cmを超えているであろう長身。
剣道着が彼に良く似合っていた。
面を取った彼の姿に、あたしの心臓は壊れるんじゃないかと思うくらい強く打ちつけていて、身体中にその音が響いた。
「遥、毎日飽きないね〜」
売店のハムサンドを頬張りながら、親友の野口 沙織(のぐち さおり)が空を仰いで言った。
「飽きないよ」
あたしはさらりと答えた。
昼休み。
中庭の芝生に聳え立つ、大きなブナの木の下の木陰。
あの桜の季節から、晴れると日差しがキツく汗ばむ陽気に変わっている。
梅雨の中休みとも言える今日の天気は、湿気も多くてじっとりと熱い。
制服のブラウスが汗でぴたりと背中に貼りついている位。
木に寄り掛かる沙織の横で、あたしはいつもの様に白地にピンクの苺柄の袋からおにぎりを取り出して、それを口に含む。
不格好なおにぎり。少し焦げた甘い卵焼き。
分かってる。
毎日作っても彼に食べて貰えないコトも。
だけど、捨てる気にはなれない。
だってこの中には、あたしの想いがたくさん詰まってる。
いくら下手でも、毎日かかさず作って――……
……多分。
少しづつは上達してるとは思うし……。
「もう、諦めたら?高宮、好きな人いるのも知ってるじゃん」
沙織はそう言うと、いちごみるくのパックをずずっと音を立てて吸い込んだ。
「ほっといて」
「どーしちゃったの?遥らしくない。
いいじゃん。男なんていくらでもいるでしょ?」
「あたしは高宮がいいのっ」
「訳わかんね……あんな冷たいヤツ」
「冷たくなんか、ないよ」
「はぁ!?」
眉を顰めて、信じられないといった顔つきを見せる沙織。
確かに毎日冷たくあたしの事をあしらうけど。
でも、この3か月。あたしはずっと高宮の事を見てきたのだ。
だから、それが彼の全てじゃない事も知っている。
部活の後輩に遅くまで根気良く指導して教えているトコロ。
先生にも信頼があるトコロ。
年の離れた弟がいて、凄く可愛がっていて、よく一緒に遊んであげているコトも。
犬が大好きで、飼っているトイプードルは彼が毎日散歩させているコトも。
そして……あたしのコトも……
変に期待を持たせない様に…って、冷たくしている事だってちゃんと知っているんだから。
それは――あたしの事は、彼の親友、南(みなみ)くんが教えてくれた。
『アイツの事、冷たいヤツだと思わないでくれ。根は優しいヤツだ』って――……
そういう高宮だから、余計に好きになったんだ。
そして……
彼の好きな人も知っている。
彼から直接聞いた。
だから諦めてくれと、何回目かの告白の時に言われた。
高宮の好きな人――あたしと同じクラスの佐倉 美月(さくら みづき)。
料理部の部長で、可愛くて如何にも女の子って感じの子。
ストレートの黒髪が綺麗で、笑うと癒されるくらいの眩しい笑顔をする。
男子にも人気があるのを知っている。スレてなくって、本命にされるタイプだ。
今迄遊んできてばっかりで、付き合う男も本気じゃなかったあたしとは全く違う……。
名前の通り、綺麗で月のように穏やかな優しい人。美月という名がぴったりな。
ああ、こういう子が好きなんだって、分かってるんだけど……。
自分とは正反対のタイプ。
あたしには望みがないって言われているのに等しいのかもしれない。
だから、少しでも彼女に近づきたくて。
彼好みの女の子になりたくって、あたしは毎日彼に渡すおにぎりと卵焼きを作り始めた。
ご飯さえ炊いた事もなくて、炊飯ジャーの使い方さえ知らなかったあたしが。
……一度も受け取って貰えないケドね。
でも。それでも。
少しずつ三角に近づくおにぎりを見ていると、ほんの数ミリでも近づける気がしたんだ。彼に。
「はーるか」
おにぎりを頬張るあたしの目の前に、濃い影が出来た。
芝生に座り込んでいるあたしから、背の高いその男を見上げるのには日差しがキツくて、眩しくて目を細めた。
「ケン……。何?」
ケンはあの時、あたしとキスしていた男。
一応は元彼、って事になる。
そうは言っても、1か月と持たなかったケド。
「今日、暇じゃね?」
「暇じゃないよ」
ケンの言葉にあたしは冷たく言い返す。
こんな時、ふと高宮の事、思い出してしまう。
「何だよ、冷てーな。遥付き合い悪くねぇ?沙織も何か言ってやって」
「ダメ、ダメ。今の遥に何言っても。完全にオカシイね」
………。
オカシイ?
オカシイのは誰?
今迄のあたしじゃんか。
マトモに人を好きになったコトなんてなくて、男なんてただのアクセサリーみたいなモノだって思ってた。
ただ男にチヤホヤされて、イイ男連れている事がステイタスだって。
そっちのがよっぽどオカシイじゃんか。
「はーるか、さぁ?そんなにあの男がイイわけ?」
ケンが腰を屈めてあたしの顔を覗き込む。
僅か数センチの距離で。
気持ち…悪い……。
お互い触れ合う事も普通だったし、身体の関係だってあったのに。
それなのに、今はもう駄目だ。
整っているケンの顔が、余計に受け付けない。
あたしは思わず顔を叛けた。
「そーだよ」
「ふう…ん。そ?」
ケンはそう言って、屈めていた腰を正した。
座っているあたしから見上げる背の高い彼の顔は、逆光でよく見えない。
黒く目に映る顔。だけど、口元は薄く笑っているのが見えて、白い歯を覗かせた。
「じゃあな」
ひらひらと手を振って校舎に向かうケンを見て、あたしは何故か、背中に冷たい汗が走った。
「大丈夫か?ケン……。
目が笑ってないよ?アイツ怒ると怖いから……」
沙織が少し心配そうに言って、落ち着かなそうに立ち上がった。
「………」
ついさっきまで木陰の中にいた筈なのに、何時の間にかその影はずれて、強い日差しがあたしの足をじりじりと照りつけていた。