01
視界の中に、ふと、小さくてきらきらするものが飛び込んできた。
すぐにでも止まりそうなくらいゆっくりと歩いていたあたしは、そこで足を動かすことをやめた。
見上げた暗い空からは、浮かび上がるように白い粒が次々に舞い落ちてくる。
あたしは、握りしめていた掌を上に向け、広げた。
けれど、そこに頼りなく落ちたソレは、あっと言う間に溶けてしまった。
12月の、すぐに消え失せる小さな雪。
今のあたしには、お似合いだ。
落ち込んだあたしの気持ちとは裏腹に、街中はクリスマスムード一色で賑わっている。
こんなすぐに消えてしまう雪でも、皆空を仰ぎ、歓声を上げる。
あたしは逆らうように俯いて、涙で歪んだ道路を見つめた。
あたし、長瀬 花音(ながせ かのん)は、今日彼氏にフラレた。
もうすぐ――クリスマスイブの日に、24歳の誕生日を迎えるっていうのに、なんてザマ。
今日は、特別な日になると思ってた。
だから、飛びきりオシャレもして彼に会いに行った。
買ったばかりのツィードのピンクのワンピースを着て。髪は時間をかけて巻いて。爪の先まで丁寧に手入れをして。
「大事な話がある」
そんなことを言われたら、プロポーズがあるかも、と思ってもおかしくない付き合いをしてきたつもりだったから。
入社した会社の営業部の、直属の上司が――憧れから好きな人に変わって。
それが、念願叶って彼氏になって。
――二年。
何の問題もなかった。
優しくて大人な彼とは、小さな喧嘩さえもなくて。
毎日が楽しくて、穏やかだった。
きっとこの人と結婚するんだろうな、って思い始めた。
ううん。結婚したいと思った。
あれは、今年の夏――。
七月。
まだ梅雨の明け切れていない、曇りの薄ら寒い日曜日だった。
二人で行った、浅草寺のほおづき市。
この日にお参りすると、4万6千日分のご利益があると云われていて、夏の訪れを祝うように境内は沢山の人で埋め尽くされていた。
よしず張りのほおづき屋さんと売店がずらりと道の両端に並び、夏の夜空に賑やかな声が響いていて。
そんな中、小さな男の子がジュースを持って嬉しそうに人の間を走ってきて、近くにいた高校生くらいの女の子にぶつかった。
中身は全部、その女の子にかかってしまった。
ぶつかったときの驚きと、知らない人にジュースをかけてしまった罪悪感と、せっかく買ってもらったものを全部駄目にしてしまったことで、男の子はパニックになったように大泣きしだした。
その男の子を、彼は優しく慰めた。
「大丈夫だよ、一緒に謝ってあげるから」って――。
ジュースでびしょ濡れになって困惑する女の子に、あたしは自分の着ていたカーディガンを手渡した。着ていたカットソーが透けてしまっていたし。
そのすぐあとに男の子のお母さんも現れて、その場が収まった。
見送ったあとで、彼は自分のシャツをあたしの肩に何も言わずにかけてくれた。
肌寒い夜気の中、それが凄く温かく感じた。
――繋いだ掌も。
すぐ横にある、笑顔も。
全部――何もかも包まれたように、温かくて。
そのとき、思ったんだ。
あたし、このひとと、ずっと一緒にいられたらいいな、って――。
彼もきっと、同じ気持ちでいてくれてる、って――。
だから。
あたしたちにとって、今日が忘れられない大事な日になると、信じて疑わなかった。
「俺、受付の藤下優香と結婚することになった」
いきなり言われた言葉に、耳を疑った。
「別れてくれ」
期待とは正反対の残酷な言葉がそこにはあって。
それを瞬時に理解することは出来なかった。
「意味、分かんないよ」
冗談でしょ、という意味で言ったのに、彼の顔はいつになく冷たいものだった。
まるで、拒絶するような。そんな、顔。
そのあと、何を言ったのか、自分でもよく覚えていない。
信じられないとか、いやとか、そういった類の言葉だとは思う。
けれど、彼の気持ちは固まっていて、崩れることはなかった。
呆気なく、二人の話は終わってしまった。
だって――同じ会社に勤めていれば、嫌でも分かる。
受付の藤下優香といえば、ウチの会社の、専務の娘。
結婚すれば、彼の未来は間違いなく拓ける。
ようするに、あたしよりも出世を選んだって、こと。
大事なのは、あたしなんかじゃなく、自分だった。
あたしは、それに気付けなかった。
ただ、それだけ。
また悔しさが胸に込み上げてきて、それと同時に大粒の涙が足元にぽたぽたと落ちた。
まるで身体の奥底から流れ出てくるようで、次から次へと湧き出ては零れ、止まる気配がない。
涙に加味して、苦しさも増していく。
視界が歪み、まっすぐ立っているのかさえ分からなくなる。
と、その途端、身体に大きな衝撃を受けた。
誰かがあたしに勢い良くぶつかったのだけは分かった。
けれど、受け身を取るほどの余裕なんて、もちろん持ち合わせてなくて。
倒れる、と、思わずぎゅっと目を瞑る。
「大丈夫?」
耳の近くで、聞き慣れない男の人の声がした。
あたしの肩を、大きながっしりとした手がしっかりと支えている感触があるのにも気が付く。
どうやら倒れなかったようで。
身体のどこも痛くなく済んだのは、今あたしを支えてくれている人のおかげ――らしい。
あたしは、閉じられていた瞼をおそるおそる開いた。
次の瞬間、吸い込まれたようにあたしの視線は奪われた。
見上げたその人は、とにかく綺麗な顔をしていたから――。
大きいけれどシャープで猫のような瞳に、凛々しい眉。
すっとした鼻梁。
暗い中も艶やかに光る唇。
柔らかそうな色素の薄い髪は、あちこちに緩やかなアーチを描いていて。
背の高い、二十歳くらいの、イマドキの男の人――。
あたしの瞳は、そこから離れることが出来なかった。
こんなときに見とれるなんて――。
そう思うことさえ、頭から飛んでいて。
「あ、ゴメン。
倒れそうだったから、思わず手が出ちゃって」
彼は、あたしからパッと手を離した。
あたしは、ようやく我に返る。
「あ……いえ、すみません……」
右手で涙を拭い、俯いた。
本当に、何やってるんだろ……。
大体、どう考えたって、こんな涙でぐしゃぐしゃ、化粧もボロボロでフラフラ歩いていたらヤバイ人だよね。
その上、見とれちゃうなんて、絶対に変なヤツだと思われてるはず。
それなのに、目の前のその人は、気遣うような声で訊いてきた。
「あの、何かあったの?」
その言葉に思わず顔を上げると、眉を寄せ心配そうにあたしを見つめている。
「大丈夫?」
彼のまっすぐな瞳と優しい声に、急に胸に込み上げてくる何かがあって、また瞳に涙が膨れ上がり、ぽたぽたと滴り落ちた。
「えっ……嘘っ。ちょ……ゴメンっ!」
肩に手が伸びてきて、触れそうになって、それが寸前で止まる。
どうしたらいいのか分からないようだ。
「オレ、怪しいよな?
だけど、変なヤツじゃなくて――!」
慌てふためく彼に、あたしはかぶりを振った。
――違う。
逆だよ。
見ず知らずの人にでも心配して声をかけてもらえたことが、今のあたしには嬉しかった。
そして優しくされたことで、また涙腺が緩んで止まらなくなって――。
でも、言葉が何も出ない。
街行く人々は、彼があたしを泣かせてるとばかりにジロジロと見ていく。
あたしなんかに声をかけたばっかりに、かなり参っちゃっただろうな。
でも、ごめんね。
今はどうにも涙が止まらない。
彼の手が、髪に触れた。
ゆっくりと、頭を撫でられる。
繰り返し、繰り返し。
見守ってくれているかのように。
知らない人なのに、嫌な感じは全くなくて。
そこに流れる空気も、優しく触れる掌も、とても温かい気がした。
だから余計に、あたしの涙は次々と溢れ出した。
どのくらい、そこに二人で立ち尽くしていたのだろう。
それはほんの少しの時間だったかもしれないけど、そのときのあたしには長く感じられた。
それでも彼はあたしの目の前から消えることなく、ただ黙って頭を撫でてくれた。
徐々に落ち着いてきて、自然と涙が止まった。
あたしは、それまで拭うこともしなかったのに、バッグの中からハンカチを取り出して涙の跡を拭き取ると、彼の掌は頭の上からすっとなくなった。
そして、彼は腰を少し屈め、あたしの目線に合わせて言った。
「オレのバイト先、すぐ近くなんだ。
良かったら、来ない?」
「……え?」
「話くらい聞いてあげられるよ。
このまま放っておけないし、お酒飲んだら少しは気が紛れるんじゃん?」
奢るし、と、にっこりと微笑まれる。
――これって、ナンパ?
でも――当然なのかもしれない。
ほんの数十分前にフラレてボロボロの自暴自棄になってる女が、目の前にいるんだもん。
あわよくば――ううん、きっと、簡単に、って思われるのは、おかしくない。
それに、こんな気持ちで、一人で帰る気なんてしない。
彼の言う通り、酔って気を紛らわせたい。
「行く」
「え?」
「お店、連れてって」
あたしの返答に、彼は驚いた顔をした。
自分が誘ったクセに。
けれど、すぐにまた彼は微笑んで、あたしに手を差し出した。
さっきあたしを支えて――頭を撫でてくれた、大きな手を。
「どーぞ」
カワイイ顔。
絶対、女にモテるな、コイツ。
そう思いながらも、あたしは彼の手を取った。
触れた彼の手は、さっき感じていた温かさとは違って、ひんやりと冷たい。
泣いて身体中が火照っていたあたしには、それがかえって心地良かった。
このときのあたしは。
もし、誘われたのが彼じゃなくても、付いて行ったのかもしれない。
そんなことを思うと、神様に感謝しなきゃ……。