07
四時間目の終わりを告げる鐘が鳴った。
現国の教科書とノートを机にしまいながら、あたしは溜め息を吐く。
またどうせ、女子に質問責めに合うから。
何度同じことを訊かれたのか、回数なんて覚えていない。その度に同じことを答えるのにも疲れた。それに、質問されなくったって、色んなひとにジロジロ見られるし。
授業が始まることにホッとして、終わることに憂鬱な気分になるなんて、入学してから初めてだ。これでもし、アイツにキスされたなんて言ったら、どうなるんだろうと思う。
――と、思い出したら、あの感触まで甦った。あたしは思わず唇を掌で覆う。
ああ、もう、本当に最低最悪。
「サワー、購買行くけど?」
身震いしていると、ひなに声をかけられた。涼香も財布を手にしている。
「ゴメン、あたしはいいや。今日はお弁当あるし」
今あんなに人が多い所に行ったら、それこそ注目を浴びそうで怖い。
それに、朝の涼香の言動が奥底に残り、どことなく二人と一緒にいたい気分ではなかった。
「じゃ、行ってくるわー」
涼香は察したのか、ちょっぴり首を竦めて見せてから、ひなと一緒に教室を出て行く。
二人が戻ってくるまで、一人で教室で待ってるのも嫌だなぁなんて思っていると、早速あたしの前に女子が立った。隣のクラスの鈴木さんと楠原さんだ。
「ねー、昨日、蒼生の蹴ったボールが当たったんだってぇ? 災難だったねーっ」
喋ったこともないのに、鈴木さんは馴れ馴れしい口調であたしに話しかけてくる。
「……まぁ」
あたしは答えながら、このひと蜂谷蒼生の元カノだったなぁ、なんて思う。確か、そう。結構前に二人で腕組んで歩いてるの、見たことがある。
「それで、蒼生が家まで送ってたんだってー? びっくりしちゃったぁ。アタシと付き合ってたときだって、アイツ家まで送ってくれたことなんてないしぃ」
そんなこと言われても知らないし。答えようもなくて、愛想笑いする。
……て、言うか、付き合ってる女の子を送るとか、しないのか。
……て、言うか、昨日送ってくれたのは、彼女があたしを送れって言ったからだ。きっと。
「で、さぁ、二人ってさぁ、付き合ってるわけじゃないよね?」
楠原さんが、にっこり微笑んで訊いてくる。話はまだ続くのか……。
「そんなわけないでしょ」
「だよねぇー。て、ゆーかぁ、沢木さんは、蒼生のこと、好きとかじゃ、ないよね?」
「ないない、絶対ない」
うんざりとしながら、けれど答えた。お腹空いたなぁなんて余裕ぶっこいていると。
「じゃあさ、昨日、送ってもらって何もなかったの?」
奥を覗くように目を見つめられる。
あたしはその質問に、一気に顔が赤くなるのを感じた。ヤバイと思いつつも、完全にうろたえてしまったのだ。あのキスを思い出して。
「えー、ちょっと、何、何っ!?」
「何かあったわけ!?」
「や……っ、そうじゃなくて――」
当然のことながら攻められて。どう答えていいか分からない。けれど、赤らんだ顔が急に戻るかっていったらそうじゃない。
「えーっ、何でじゃあ顔赤いわけ?」
「ねえーっ、めちゃ怪しい」
二人の口調も目付きも鋭くなる。
参った、どうしよう。
そんなとき、あの澄んだ声が割って入った。
「蜂谷くんなら、柏木先輩と付き合いだしたみたいだよ」
一斉に声の主へと振り返る。そこにはにっこり笑顔の沢木さんがいた。
「ええっ!? うっそ、マジで!?」
「三年の柏木ぃ!?」
揃えて声を上げる二人に、そうだよ、と、彼女はさらっと答え、あたしの腕を掴んだ。
「沢木さん、先生が呼んでたよ。行こう」
そう言って、彼女はあたしを教室から連れ出した。
この暑い季節に冷たい彼女の華奢な手が、何も言うことなくあたしの手を引いて。あたしも口を噤み、導かれるまま彼女の少し後ろを歩いた。
階段を下りていく。一階まで来ると、ひと気のない昇降口へと向かう。校舎を出たところで、彼女ははっとしたようにあたしの手を急に離して足を止めた。そして振り向いたと同時に深く頭が下げられた。
「ごめんなさい!」
いきなり謝られて、あたしは呆気に取られる。彼女のつむじを見ながら、数秒の間、なんのことだろうと考えた。けれど、理由が解らない。
「沢木さん、何で? 何で謝るの?」
彼女はパッと顔を上げて。眉を寄せた俯き加減の顔で、瞳だけ上目遣いにあたしを見る。
「……だって、楠原さんたちに絡まれてたの、私のせいでしょ? アオとの変な噂が立ったのも……。私が考えなしに、アオに沢木さんを家まで送らせたから……」
「別に、沢木さんのせいじゃないよ」
「でも」
「ホントに! 沢木さん、気にしすぎだよ。全然、沢木さんのせいじゃないから。それに、どうせその前にだって、アイツにお姫様抱っこされたのも皆に見られてるんだし」
あたしの言葉に、彼女はどこか驚いたような顔をして。そして困ったようにはにかんだ。
「……沢木さんは、優しいね」
「……え」
言葉の意味を図りかねていると、ぐうううううう、と、あたしのお腹は盛大な音を鳴らした。昨日といい今日といい、堪え性のない腹に、あたしは真っ赤になった。
「……っ、凄い音、鳴っちゃった」
恥ずかしさを誤魔化すように、舌を出し苦笑いしてみせた。沢木さんは呆れた顔ひとつせずに、にっこりと微笑んだ。
「私のおにぎりで良ければ、食べない? どうせ、いつも食べ切れなくて余らせちゃうの。それに、今日のからあげは自分で作ってきたから、味見してくれると嬉しいな」
「……え」
「私が強引に連れ出しちゃったから、沢木さん、お弁当もお財布も教室に置いてきちゃったでしょ?」
ごめんなさいと、もう一度謝罪の言葉を述べた彼女は、あたしの手を再度取って、石段の木陰へと促した。
まぁいいか、と、あたしは彼女に続いて、石段に腰掛ける。確かに今、教室に戻りたくはない。好奇の目を向けられるのも、件の質問を投げられるのも面倒臭い。
石段はひやりと冷たかった。通り過ぎていく南風も心地良い。青い夏空を見上げると、視界の端の方に、差し出されたおにぎりが映った。
「どうぞ」
「ありがと」
あたしは素直に彼女のおにぎりを受け取って齧り付いた。塩が程良く利いていて、具はあたしの大好きな鮭がたくさん入っている。
「美味しい。コレ、沢木さんが握ったの?」
「ふふっ、ただのおにぎりだけどね。あ、沢木さん、おかずも食べてね」
食べ切れないと言ったお弁当は確かにボリュームたっぷりで、唐揚げと卵焼き、ピックで彩り良く纏められた人参とウインナーと鶉の卵、それからほうれん草の和え物が詰められている。どれも美味しそう。
食欲を掻き立てる醤油の香りを放つ唐揚げを遠慮なく摘まみ上げて、あたしは彼女に言った。
「ね、沢木さんって、名字で呼び合うの、やめない?」
ぱくりと口に放り入れて、唐揚げの味を堪能するあたしの顔を、彼女は動きを止めて驚いた顔で見た。
「……えっ」
「……あ、ごめん。嫌ならいいの。でも、沢木さんってお互いに呼ぶのも変だし、何よりあたし、自分の名字にさん付けで呼ぶのが、うずうずするって言うか……だから、名前で呼んでもいい?」
沢木さんの顔は驚きのまま。けれど、こくこくと頷いた。
「沢木さんがいいなら――っ、あ、ごめんね、えっと……美麗、ちゃん?」
恐る恐る窺うように、彼女はあたしに訊く。
「皆、サワって呼んでるよ。あたしは、末央って呼んでいい?」
よろしくね、 とにっこりと笑顔で返せば、彼女の顔もまた綻ぶ。
「うん、サワ、よろしくね。……って、なんだか照れるね、ふふ……」
そんな風に、互いに微笑ましく顔を合わせたときだった。突如冷めた声が割って入たのは。
「何? それって、友情ごっこ?」
あたしは食べかけのおにぎりを噴き出した。
「……っ、蜂……! ……っ、けほっ、けほけほっ」
「きったねぇなー。吐くなよ」
咽ながら、顔を顰めてそこに立つ男を睨み上げたけれど、止まらない咳の苦しさに涙が出てくる。
ああ、もう、マジでムカツクこの蜂谷って!
「ちょっと、アオ! 失礼でしょ!」
末央が奴を詰った。けれど、しれっとしていて全くこの男は動じない。そこがまたムカツク。
「大丈夫?」
「だいじょ……ぶ……」
細い末央の手が背を擦ってくれて、あたしはようやく咳を治める。もう一度ねめつけた先のその男は、こともあろうかあたしの隣に座り、右手には卵焼き、左手には唐揚げ。口はもぐもぐ動いてる!
「美味ぇ」
「ちょ……っ! 何……」
してるの、の叫びは、再発した咳に阻まれる。もおおお、最悪!
げほげほと咽るあたしを、この男は平然と見下ろして。そして彼女に言った。
「末央、飲み物ねーの?」
「……えっ? あっ、やだ、そういえばない!」
「買ってこいよ、早く。コイツ、苦しそーだし」
何言ってんの! アンタが買ってこいっつーの!
そんな心の声が届かないまま、末央は「待っててね」とあたしに言い残し、慌てて走っていってしまった。
本当に信じられない。
あたしは口元に掌を当てながら蜂谷を見る。
蜂谷は目を細めながらあたしを見る。
「ダイジョブか?」
「大丈夫じゃないし! もう、何なの? アンタ、何様?」
「何様って何? オレ、何かした?」
「アンタのせいで咽たんだし! それなのに何で威張って末央に飲み物買いに行かせるのよ!」
「オレのせいって、意味わかんねー。どーゆーこと?」
オーバーに両手を上げながら、蜂谷は首を傾げた。
「アンタが急に現れるからでしょ!」
そうあたしが言うと、彼は目を剥いて。それから、くくっと笑った。
「へー、それでオレのせいなんだ? まーいーけど。だって、オレ、お前のこと、探してたんだし」
「……え?」
「末央に買いに行かせたのも、二人っきりになりたかったから」
「――!」
突然な意味深の言葉に、あたしは口を噤んだ。
二人っきりって、何を言って……?
驚きのまま、彼を見上げる。――と。
「顔、赤ぇ」
「あっ、赤くなんてないし! 大体、アンタが変なこと言うからっ!」
反射的に反論したけれど、無駄だった。笑い顔は、くっくと声も上げるだけ。
「……ちょ、ちょっと!」
「思い出した? 昨日のキス」
「なっ……!」
何を言ってるのと言う前に、ヤツの手があたしの頬に触れた。
ぴくりとあたしの身体が小さく跳ねる。なのに、それ以上身体が動かない。
夏の光を帯びた明るい茶の双眸が細められ、あたしに近づく――。
あたしは瞳を見開いたまま、やっぱり動けなかった。
跳ね除けられない頬の指。距離が縮まる唇。
またキスされるのかと思った――けれど違った。唇は触れないまま通り過ぎ、耳元に寄せられた。
「末央に近づくな」
低く凄んだ声が鼓膜に響いた。