01

 沢木 美麗――サワキ ミレイ。
 それが、あたしの名前。
 あたしは、この名前が大嫌い。
 だって、どう考えたって、名前負けしてるから。
 名前を見ただけで、どんな子? って期待を抱くのは、自分でも当然だと思う。
 だけど実際は、顔は十人並み、スリムだけど胸はないし、背も中くらい。なんてことない至って普通の子。大概、男子にはがっかりされるし。
 あたしが名前で呼ばれることを嫌がっているからか……ううん、きっと名前と合わないと思っていて、周りの友達も、昔から皆あたしのことは『サワ』と呼ぶ。
 沢木の沢をとって『サワ』――あたしも、そっちのが全然あたしらしいと思う。
 だけど。
 両親や親戚以外にも、たったひとりだけ、あたしのことを名前で呼ぶひとがいる。
 そのひとに『ミレイ』って呼ばれたときだけ、あたしはあたしの名前を好きになれるんだ。




 玄関先に座りこみ、耳を澄ませて10分――ガチャ、と、音が響く。
 続いて、バタン、と。
 コレだけで、あたしは相手が誰だか分かる。
 特長のあるドアの開け方、閉め方。
 きっと、他の人には分からないよ。
「いってきまーす!」
 一度振り向いて、リビングにいるはずの母に向かって大声を上げる。
 母の「いってらっしゃい」という声が聞こえるか聞こえないかの時点で、あたしはもう目の前の玄関のドアを開けていた。
 家のドアが閉まる音で――道路の向こう側にある背中が、こちらにと振り向く。
「美麗」
 大好きな、低い声。
 だけど、朝、こうして彼が呼ぶあたしの名前は、いつも半音だけ音が高くなる。
「おはよう、隼(はやと)」
「うっす」
「隣なのに、朝会うの、結構久し振りじゃない?」
「かもなぁ」
「今日は朝練ないの?」
 知っていて訊く。おばさんから、ちゃーんとチェック済み。だからこうして、出てくるのを待ってたんだから。
「そ。テスト前だしな」
「そっか。ウチも来週からだよ。やだなー……」
 話しつつ、目線は隼の手の下へ。ハンドルを握る、大きな手の。
 あたしの目線に気付いた隼は、くい、と、立てた親指で自転車を指し示す。
「乗る?」
 隼の愛車。高校入学のお祝いに、と。おじさんとおばさんから買って貰った、GTのマウンテンバイク。黒ベースにオレンジの文字とライン。渋くてカッコイイんだ。
「もちろんっ!」
 あたしは、隼からマウンテンバイクを奪い取ると、さっとサドルへまたがる。
 ペダルを踏み込むと、隼の愛車は軽快な車輪の音を立てて進み出す。
「ひゃー、気持ちイイ!」
 夏の朝の日射しを切って、前方から吹き抜けていく風。
 隣を見ると、あたしの漕ぐスピードに合わせて、隼が走っている。
「美麗、もーちっと、ゆっくり漕げよ」
「十分ゆっくり漕いでるよー?」
「去年までのママチャリと違うんだけど!」
「なーに言ってんの? もしかして、部活変わって、身体鈍ったんじゃない?」
「くっそ!」
 その言葉を皮切りに、更に二つの影のスピードが上がる。
 懐かしさと、愛しさと、切なさの合わさったような感情が込み上げてくる。
 去年まで、毎日のように、こうして朝二人で走った。
 朝のトレーニングの一環で、雨以外の日の日課だったのだ。
 中学時代、隼はサッカー部のエースで、10番を背負うフォワード。あたしは、そのサッカー部のマネージャーだった。
 彼――坂下 隼は、あたしの幼馴染だ。生まれたときからお隣同士で。物心がついたときにはいつも傍にいた。
 同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、と、ずっと一緒だった。だから、こうして別々の高校に行くなんて、あたしの中の未来図には予定されていなかった。
 あたしたちの住んでいる横浜市金沢区は、磯子区、中区とともに『横浜臨海学区』で、この学区内の公立高校でもサッカーの強豪と言われる桜南高校に、隼は進学するのだと、周りは誰しも思っていた。もちろん、あたしも。
 だから、同じ高校に行きたいがために、あたしの偏差値じゃ厳しいから、相当勉強を頑張ったのだ。
 なのに、いきなり「ウインドサーフィンをやりたいから」って言い出して、学区外の高校に行っちゃうなんて。
 それでも、横浜市内だったら、同じ高校に行ったかもしれない。
 けど、隼が選んだのは、ウインドサーフィン部があるという横須賀市の端っこの海沿いにある公立高校だ。
 学区外に行く人はいるけれど、わざわざ市も違う、下り電車のずっと先の公立校に行こうという人なんて、滅多にいない。
 そういう高校に行くからには、両親や先生を説得するそれなりの理由が必要になるわけで。
 好きな人が行く高校だから行きたい、なんて、言えるはずもないし、そこまで追いかける勇気も度胸も、あたしにはなかった。
 あたしは、ひとり桜南高校に入学した。
 自分のレベルよりもちょっと上のうちの高校に入れたのは嬉しいけど……嬉しくなかった。
「で、どう? 部活は?」
 あたしは、隣で規則的に息を上げる彼に訊く。
「うん。めっちゃくちゃ楽しい! 最近、ようやくプレーニングが出来るようになったんだ」
「プレーニング?」
「水の上を滑る状態って言えば分かりやすいかな……。とにかく、無重力になったみたいな感覚でさ! すっげぇ気持ちいいの!」
「ふぅん。そっかー」
 何だか哀しくなる。
 あたしの知らない世界。
 小学校の頃からずっとやっていたサッカーを捨ててまで始めた、全く違うスポーツ。
「美麗は?」
「え?」
「サッカー好きだろ? 高校でもマネージャーやらないの?」
 酷な質問。
 あたしは――隼が好きだから、マネージャーやったんだよ?
 隼のことが好きだから、サッカーのこと、一生懸命覚えて。
 そのままずっと、間近で少しでもサポートしてあげられたら、って。そう思ってたのに……。
「やらない。自分でやりたいことが見つかったら、そっちをやりたいし」
 つい、素気ない返答になってしまう。けど、しょうがない。
「そっか。そーだな。その方が、きっといいな」
 隼は、息を弾ませながら、前を向いて言った。
 ――やりたいこと。
 高校に入学して三ヶ月。あたしは、未だ、何も見つかっていない。隼は、もう見つけて、走り始めているのに……。
 道に行き交う人が随分と増えて、駅が見えてきた。金沢八景駅。
 自然ともう、ペダルを漕ぐ足も、隼の走るスピードも、緩まっている。
 せっかくの楽しい時間も、そろそろオシマイ。改札をくぐったら、あたしは上り電車、隼は下り電車のホームへと分かれる。
 あたしは、自転車を降りた。
 今、隣にある距離は、ほんの50cm。
 たったそれだけの距離が、随分と遠く感じる。
 あたしたちの距離は、中学の頃よりも離れてしまった。
「すっごい汗……」
 制服のシャツの袖で汗を拭う隼を見て言った。
 隼はこちらを向く。
「すげー暑ちぃ」
「ちょっと待って」
 あたしは足を止め、鞄からタオルを出した。そして差し出す。
「はい」
「いいの?」
「なーに言ってんの。一緒にお風呂まで入った仲でしょ? 隼に遠慮なんてされたくない」
「こんな場所でその言い方、知らない人に誤解されますけど……」
 と、言いつつ隼はニッと悪戯っぽく笑って、あたしからタオルを受け取る。
 こんな顔が好き。その汗を拭う姿も。
 見ているとドキドキしてきて、顔が熱くなった。
「オマエも顔真っ赤」
 言われてドキッとする。
 あたしは咄嗟に、パタパタと仰ぐように左手を動かした。
「……あ、暑いから、ね」
「そりゃあ、夏だし? 夏休みもあとちょっとだもんなぁ」
「だね。隼は今年、やっぱり部活三昧?」
「だろーな」
 隼は答えつつ、あたしが右手で持っていた愛車のハンドルをさりげなく奪う。そして、使ったタオルを空いたばかりの手に押しつけてくる。指先がちょっとだけ触れて、またもやドキッとする。
 さっさと駐輪場に向かってまた歩き出した隼を、あたしはタオルを手にしたまま、慌てて早足で追う。
「そーいやさぁ……美麗の……」
 横に並ぶと、ふいに隼が言った。
「ん? 何?」
「え、あー……」
「なぁに?」
 歯切れの悪さが気になる。それに心なしか、頬が赤い気がする。それは、走ったせい?
「……いや、つーか、うーん……」
「何、何、何!?」
「や、うん。もーすぐ、夏休みだなぁ」
「うん?」
 何か誤魔化してる? と思うと、隼が言った。
「今年も花火行くかぁ?」
 驚いて、足が止まった。
 嘘、ホントに?
「行く!」
 思わず、大きな声になってしまう。
 だって、それって、二人で、ってことだよね?
 隼は何も気にしていない様子で、駐輪場に愛車を停めた。
 金沢八景の、花火大会。
 ――昔は。毎年、近所の公園で、コーラとアイスを手に一緒に見たけれど。中学に入ってからは、部の皆で集まって見に行くようになってしまった。卒業して、今年は――。
「やっぱ、うちの近所の公園で見るの?」
「コーラとガリガリ君持ってなー」
「……小学生かっつーの。まんまじゃん!」
「いやいや、オレらの必需品っしょ?」
「隼だけだから!」
 そう突っ込みつつも、隼らしくて。それでもいいと思ってしまう。ううん、それがいいと思ってしまう。
 隼は首を竦めて笑って見せると、愛車に施錠し、その鍵を外しながら言う。
「今年はー、混んでるけど、海の公園かシーパラでも行って見るか?」
 ――海の公園か、八景島シーパラダイス。
 心臓が勢いよく動き出す。鼓動が、身体中に響いて。
 だって。それって、デートみたいじゃん! 嘘みたい! でも、嘘でも夢でもない!
「うんっ!」
 元気よく答えると、隼は楽しそうにニッと笑う。
 あたしたちは、どちらともなく、改札に向かって歩き出した。

 

update : 2012.02.02(11.07.05〜11.07.10)