エピローグ
頭の中が、砂嵐でもあったようにざらざらとしていて。
その砂を脳みそごと、眠りの渦へと引っ張られているような感覚。
重たくて、瞼が開かない。
あたしはどうにか手を伸ばした。
そこにある身体を引き寄せる。
そして抱き締める。
温かな肌。
安心する香り。
けれど、それがすぐに奪われた。
あたしはもう一度手を伸ばす。
人肌はなかなか見つからず、シーツの上で掌を徘徊させる。
――見つけた。
柔らかな感触。
ん?
柔らかい?
物凄く疑問に思ったところで、目が覚めた。
瞼を開いた途端に目に入ったのは、眠っている菜奈の顔。
おもいきり胸に触れている手はそこから飛び退き、声も上げそうになった。
その途端、電撃のような激痛が頭の中を駆け抜けた。
「……っ痛」
頭が――割れるように痛い。
額に手を当てながら、上半身を起こした。
菜奈の身体のすぐ横には、海斗くんが寝ていて――その隣には、ミカが寝ていて――そのまた隣には、韮崎さんの元部下でもあるミカの恋人、長谷川さんが寝ていて――。
この妙な光景は何だっけと、目を瞑り、しばし頭痛の波と共に考える。
そう――これは、二日酔いだ。
結婚式のあと、レストランで二次会をして、そのあとまだ飲み足りないって、葉山は店も少ないし遅くまでやってないから、ウチに来て――飲んで――くたんくたんに酔っぱらって、そのまま雑魚寝しちゃったんだ。
昨日――。
光とあたしは、あの葉山のホテルにあるチャペルで式を挙げた。
両親と数名の親戚に、仲の良い友人だけを招待したささやかなものだ。
離縁したとは言っても、光の養父母も出席してくれた。
アーチを描く前面のガラスは天井まで伸び、溢れるほど眩しい陽光が差し込んでいて。
その先に映るのは、青い色だけ。
まるで海の上に浮いて。空に祝福されているようにも感じて。
重厚で落ち着いたこげ茶色の木の床と椅子。
潔癖と純真さを表すような白い壁、バラとリボン。
波の福音。
水平線へと伸びるバージンロードを、あたしは純白のドレスのトレーンを引いて父と歩いた。
そして、永遠の愛を誓い合ったのだ。
――光と。
都内の一流ホテルでやる披露宴のような派手さはないけれど、そんなことよりも、あたしにとっては最高の式で、思い出となった。
青い海と空の元でしたキスは、一生忘れることはない。
きっと、きっと、ずっと。
……それにしても。
と、菜奈とその隣の海斗くんの寝姿を見下ろす。
この二人って、なんやかんや、ほんっと仲がいいよね……。
菜奈の顔はこちらを向いているけれど、海斗くんの身体にはぴったりくっついていて、その上、手を握られながら寝ている。
こういうの、羨ましいって思ってた。
凄く凄く羨ましかった。
……あれは光と出逢った頃だ。
でも今はそんなこと、全っ然思わないんだから!
だって、だって、だって、あたし、幸せだもん! めっちゃめちゃ!
「……て」
辺りを見回した。
肝心の光がいない。昨日からの、愛しの夫。
あたしは痛む頭を押さえながら、立ち上がった。
暗い部屋の中を浮かび上がらせるのは、ロールカーテンの隙間から入り込む光。
今、何時なんだろう、と思いながら、寝ている皆の身体を踏まないようにして歩き、そっと部屋を出た。
短い廊下の突き当たりを曲がり、階下に向かう階段を下りた。
頭に響かないように、ゆっくりと段につま先を落としていく。
踏み板は、たまに木の軋む音を立てる。
古い家だから、仕方ない。
葉山に住むと父に言ったら、不動産をやっている父の友人が、格安の優良物件を見つけてくれたのだ。
古いけれど、4LDKあって、バス停はすぐ傍、駐車場は二台。
それに狭いながらも庭があるし、日当たりも良好だ。
仕事に行くのには不便だけど、それでもどうしても住みたかった。
「……があったんだ」
階段の踏み板から一階の床に下り立ったとき、声が耳に入った。
キッチンのほう。
「悠里さん、今の仕事を辞めて、イタリアに行くって」
――相川さんの、声。
あたしはその場で足を止め、思わず息をひそめた。
イタリアに……?
「美術史学を勉強しに行くんだって。お爺さんとは、物凄い喧嘩したってさ。
それでも、何だか楽しそうだったよ」
その相川さんの報告の一拍あとに、光の声が言った。
「そうか」
穏やかな声だった。
どこか、彼女の可能性への期待を込めたような。そんな声。
少し沈黙が続いたあと、相川さんが言った。
「そう言えばさ、韮崎の会社はどう? 社長業は順調?」
「まぁまぁかな」
「経営コンサルティングって、スゲエ神経擦り減りそう……」
「何の仕事でも同じだろ?」
「うーん、まーなぁ……。
でもさ、その職種を選んだのって、やっぱ、佐藤拓馬に対抗してだろ?」
何で拓馬?
光は、中小企業はもちろんのこと、大企業も相手に、コンサルティングをしたいからって。
いつか、東和重工も、と。
――対等な立場で。
「バーカ」
光がそう言ったあと、くっくと声にならない笑いを二人がしているのが窺えた。
ようやく話の雰囲気が変わった模様。
これで顔を出すことが出来ると、あたしはキッチンに入って行った。
「おはよう」
声を掛けると、途端に二つの顔はこちらを向く。
無愛想な顔と、対照的に明るい笑顔――の方は、もちろん相川さん。
「あー、おはよう、瑞穂ちゃん。
二日酔い、平気?」
「うん……頭痛い」
「大丈夫? 結構皆に飲まされてたもんね。
こっち、座んなよ」
と、相川さんは椅子から立ち上がり、ダイニングテーブルから新たな椅子を引いてくれた。
あたしはそこに腰を落とすと、向かいの光と目が合った。
そこでやっと微笑してもらえる。
でも、こういうところが好き。
あたしも、つい、にっこり微笑んじゃう。
「光たちは、いつ起きたの?」
「30分くらい前かな。
皆、まだ寝てる?」
「うん、まだグッスリ。
二人は二日酔い平気なの?」
「まぁ、そこそこに」
光が答えたところで、あー、と、いきなり相川さんが思い出したように声を上げた。
二人で相川さんを見ると、彼は腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がる。
「俺、腹減ったし、ちょっとパン買ってくる。
葉山の有名なパン屋、確かここの近くだもんな。
韮崎家にお邪魔したときには、絶対そこで買う! って思ってたんだよ」
「え、なら、あたしが行ってきます」
「いいよ。瑞穂ちゃん、頭痛いんでしょ?
適当に皆の分も買ってくるよ」
「でも……」
「いーから。
実は、この辺、散歩してみたいんだ」
相川さんはニッと笑うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
思わず、光と顔を見合わせる。
完全に、気を使われてるな、これは。
「相川さんって、相変わらずだね」
「まぁな」
「そこがいいところなんだけどね。
って言うか、天然な性格の良さだよね。
でも何故か彼女が出来ないのが不思議……」
「………」
誰か紹介してあげようかなぁ、なんて真剣に考え込んでいると、光は椅子から立ち上がった。
そしてあたしの方へとゆっくり向かってくる。
あたしは座ったまま光を見上げると、手が伸びてきて、椅子ごと抱き締められた。
「せっかく二人きりにさせてもらったから」
「え」
「瑞穂って、意外とニブイ」
ニブイ?
まぁいいか、と、光は渋い顔を見せてから、キスを落としてきた。
まずは啄ばむように軽く。
少し角度を変えてもう一度。
次に唇が合わさったときには、お互い一気に熱が上がったように深いモノに変わる。
甘美な動きで舌を絡ませ合い、優しく、けれど貪欲に求めた。
二日酔いの頭痛さえ、甘い痺れに変わる。
愛してる――。
今、目の前にいる彼のことを。どこまでも。
今、こうしていられることが幸せだって。
頭も、心も、身体も、あたしの全部が、そう言ってる。
あたしは、そこにある身体に、しがみついた。
と――いきなり、じゃかじゃかと、暗い音楽が鳴り出した。
ダースベイダーのテーマ。
昨日帰って来てからテーブルに置きっぱなしにしてあった、あたしの携帯電話からだ。
大好きな唇が、離れていってしまう。
抱き締められている腕も。
「もー、こんなときに邪魔するかなぁ」
完全に光の身体が離れてから、あたしはぶすくれて、テーブルの上の携帯電話に手を伸ばした。
この着信音の相手は、ひとりしかいない。
「はぁい。おはようございます、係長。
昨日は、式にご出席して下さり、ありがとうございました」
『その言い方やめてちょうだい!
てか、それどころじゃないから!』
石田さんは電話の向こうで吠える。
ジーンとあたしの脳内に響いて、思わず目を瞑る。
「も、もうちょっと小さい声で喋って下さい……。
あたし、二日酔いなんですから……」
『二日酔い!? 上等! そんなの吹き飛ばしてさっさと支度して!』
「支度って……今日は日曜日の筈ですけど……」
『アナタの可愛い部下が大ミスしたのよっ!』
「……山下くんが、またやらかしたんですか?」
指で眉間の辺りを揉みほぐしながら訊き直す。
電話が鳴った時点で、何となくそんな気がしてたけど。
4月に入社したばかりの山下くん。
同じチームに配属されて、プロジェクトのリーダーであるあたしが仕事を教えてる。
覚えは悪いし、とにかくミスが多くて、その尻拭いは結局あたし。
……なんだけど。
ウチの社食が変わって。社食だけじゃなく、店舗の料理の評判も上々だし、喜んでる社員は多いから、たまにそのことで声を掛けられたりするんだけど。
山下くんは、この発案者があたしだと知って、あたしのことをめちゃめちゃ尊敬している上に、かなり懐いてるもんだから、何だか憎めないのよね……。
……て。
『アイツ、横浜店とのアポイントの日付けが、明日の10時の予定だったのに、今日の10時にしてたみたいなの! まだ来ないって、もーカンカンよ!』
石田さんの怒声が耳の中を突き抜ける。
ありえないでしょ!
何でそんなミスするのよ!
「それで先方とはどうなってるんですか?」
『平謝りしたわよ!
取りあえず、時間をずらしてもらったから、急いで来てちょうだい!
資料はこっちで揃えておくわ! 向こうの駅で合流しましょ!』
「え、ずらしてもらったって、何時ですか?」
『11時半よ!』
壁の時計を確認する。
……10時20分。
無理でしょ! 無理なんですけどっ! 間に合いませんけどっ!
『そんなわけで、急いでね!』
石田さんの電話は、そこで慌ただしく切れた。
て、言うか。もちろん反論なんか出来る筈も、する気もない。
あたしは携帯電話を睨みながら溜め息を吐くと、椅子から立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
と――ぽん、と、光の手があたしの頭のてっぺんで跳ねた。
「うん、いってらっしゃい」
温かい笑顔と言葉。
あたしの元気チャージ。
些細なことだけど、応援して見守って支えてくれるひとがいるって、それを感じさせてくれる。
それだけで、もっともっと、頑張ることが出来る。
そして、あたしも――彼を支えられるひとになりたい。
あたしに、仕事の楽しさややりがいを最初に教えてくれたのは、光だ。
一時でも、同じことを目指した。
今は、それぞれに違う仕事になってしまったけど、あたしはこの仕事が好きだ。
それを光も認めてくれている。
だから、手は抜かない。
絶対に。
あたしは背伸びし、もう一度光の唇に軽く触れる。
「元気、こっちもちょうだい?」
笑ってみせると、光もくすっと笑う。
「頑張って」
「うん!」
返事をすると、あたしは頭痛を吹っ飛ばして洗面所に行き、顔を洗って歯磨きをし、超特急のメイクをして、髪をひとつに整えた。
階段を駆け上がってウォークインクローゼットのドアを開ける。
胸元に控えめなフリルのついた白のブラウスに、ハイウエストにタックの入ったネイビーのスカート。引っ掴むようにして中から出して、これまた超特急で着替える。
ミルクティーベージュのバッグに中身を詰め替え、持参する資料をざっと再確認。金曜日のうちに纏めておいて良かった、と思う。
また階段を急いで降りると、玄関に向かう。
バッグと同じ色のパンプスを合わせ……。
「よし」
玄関の姿見で、くるんと回って、自分の姿をチェックする。
「いってきます!」
あたしは、光に聞こえるように大きな声を上げ、勢いよく玄関のドアを開けてそこから飛び出した。
END
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