チェックアウトした後、朝食を軽く食べ、何をする訳でもなく街の中をぶらぶらと歩いた。
クリスマスイブで休日という事もあってか、どこもかしこも混み合って、人の波に飲まれそうだった。
派手すぎるくらいの飾り付けが、昨日までは鬱陶しささえ感じたのに。
涼太と一緒にいると、何故かそんな事は感じなかった。
いつもなら目にも止まらない筈のディスプレイや商品も、足を止めては二人で感想を言い合った。
そこに通り過ぎていく時間は、とても穏やかで楽しく、昔に戻った気分だった。


「沙穂。見て、ほら」

デパートの雑貨売り場を眺めていたあたしに、涼太は売り物のスノーボールを差し出した。

受け取ったスノーボールは、思ったよりもずしりと手に重さが圧し掛かった。
覗き込んだ球体のガラスの中。小さな雪だるまの上に、白い雪が止むことなく降り続いている。


「これ、雪降ってる事にならない?」


涼太は少し首を傾げて子供のような笑顔で言った。


「なるわけないじゃない」

「ちぇ〜。やっぱ駄目だよな〜」

「ズルは駄目。本物の雪じゃないと」


そう返したけど。
頭の片隅に『可能性』を考えた。

ちらちらと目に入るスノーボールの雪。
またあの光景が蘇る。
あたし達に降り注いだ大粒の雪を。

それを振り切るように、固く瞼を閉じて首を振った。

―――ある訳ない。
そんな可能性。


小さく息を漏らしてから閉じていた瞼を開くと、その先の人物が目に入って急激に身体が固くなる。
視線さえそこから外せず、微動だにしないあたしに、涼太は不思議そうに覗き込む。


「どうした?」


そして答えられないあたしの視線の先へとそのまま目を這わせると、涼太の動きもぴたりと止まった。

会った事も無い筈なのに。
それなのに涼太は、一瞬で視線の先の相手があたしの恋人だと悟ったようだ。

小さな男の子と綺麗な奥さんと、笑顔で楽しそうに歩くその姿は、理想の家族そのものに見えた。
「おとうさん」と呼ぶその高い声だけが、あたしの耳に届いて頭に反響して、他の音が入らなくなる。

コンコースをこちらに向かって歩いてくる彼と、一瞬目があったけれど。
それは本当に一瞬で、あたしの横をその笑顔はすり抜けていった。

何事もなかったように、ざわめきが耳に戻ってくる。


涼太は何も言わずあたしの手を取って、彼と反対方向へと歩きだした。
ぐいぐいと強引に引かれる腕に、少し痛さも感じたけれど、あたしは黙ってその後を歩いた。
引かれた手は本当に温かくて大きくて。
こんな時に一人じゃなくて、一緒にいたのが涼太で良かったと心の底から思えた。


連れて行かれた先は、大きなビルの中にある映画館だった。
時間が合って席も空いていた、人気のない恋愛映画。
席に着くと暗幕は直ぐに開いた。

硬い椅子に寄り掛かると、我慢していた大きな溜息を長く吐き出した。
すると、すぐに膝の上の掌に温かさを感じた。
強く握られた掌はやっぱり温かい。
だけど真っ直ぐにスクリーンに瞳を向け、こちらを見ようともしない。
それが涼太の気遣いなんだと気付く。

陳腐な映画のせいなのか、彼のあんな姿を見たせいなのか、それとも涼太の優しさのせいなのか―――……いつの間にか頬に温かいものが伝わっていた。
その涙は次々と零れ落ちていく。

だけど涙と一緒に、何かががあたしの中から流れ出た気がした。





映画が終わった頃にはすっかり陽は落ちていた。
街の景色は、目線の先のどこもかしこも色とりどりの電飾を点して、昼間の街とは姿を変えていた。

白く煙るように上がっていく息の先と一緒に空を見上げる。
澄んだ空気の先の見上げた空は、薄く雲が掛かっているくらいで、小さな小さな粒子のような星が散りばめられていた。

奇跡など起きる筈もないのは一目了然で、その輝く星を見つめる目を思わず細める。

そしてぽつりと言った。

「……帰る」

ゆっくり動いていた足がぴたりと止まり、涼太は怒ったような、呆れたような表情を見せた。


「約束したろ?今日雪が降ったら運命を信じるって。お前が言ったんだろ?」

「降るわけないじゃない!」


握られていた手を勢いよく振り解く。
だけどすぐに腕をぐっと掴まれた。


「お前が幸せになりたいって思わなきゃ、奇跡だって起きないよ」


涼太はあたしと同じ目線に高い背を落とし、真っ直ぐに見据えてそう言った。
そしてそう言い終わると、掴まれていた腕はすぐに開放される。


「どうしていいのか、分かんないのよ……」


それは本心だった。

曖昧な関係を断ち切りたいのに断ち切れずにいる自分と。
涼太の好意に寄り掛かりたいとも思えてしまう弱い心がそこあって―――

ぐらぐらと、温かい方にと引き込まれているのは確かだった。
だけどそこに踏み切るには勇気がいるのだ。
慣れ親しんだものを捨てて、新しいものに移る勇気。
そして都合良く幸せを掴めてしまうかもしれないという、罪悪感にも似た気持ち。


あたしはくるりと、背中を向けた。


「待ってるよ、ここで。今日が終わるまで。約束だから」


背中からその言葉が降ってくる。
だけどあたしは振り返る事も返事をする事もせずに、前へと歩き始めた。





どのくらい経ったのだろう。
あたしは公園のベンチにずっと座っていた。
時折、楽しそうに腕を組んで通り過ぎるカップルが目に入る。

冷たい外気に晒された身体は芯から冷え切っていた。

風が立ち並ぶ葉のない桜の木の枝を鳴らして、それと共に、ふうっと、深い溜息を吐き出す。
ようやく時間を確認しようと、バッグから携帯を取り出した瞬間、手の中のそれが鳴り出した。


―――涼太!?


そう思って慌ててディスプレイを確認した。

『西崎 順二』

ふっと、声のない笑みが浮かぶ。

何で涼太だと思ったのだろう。
今のあたしの携帯の番号なんて知る訳ないのに。

そう思うと、ふふふっと、自虐的に声まで出た。
そしてそのまま通話ボタンを押す。


『何だよ、楽しそうだな』

あたしの笑い声を聞いてホッとしたのか、彼の声は調子良く語尾が上がった。

さっき、何事もないように通り過ぎたくせに。
演技ではない、楽しそうな家族との時間を見せつけたくせに。
調子の良い男……。


「そうね。楽しいわ」


あたしがそう答えると、電話越しに煙草の煙が吐き出される音が聞こえた。
そして一呼吸置かれると、彼が言う。


『さっき、沙穂の横にいた男は……誰なんだ?』


つんと、その言葉が頭に響く。

自分を棚に上げて。
謝るより前に、あたしを責めるのね。
それとも、男といたんだから自分の事もいいだろうとでも言いたいの?


冷たい夜風がびゅうっと吹きつけた。
その風が通り過ぎると、少し間を置いてあたしは答えた。


「恋人よ。あなたとはもう二度と会わないわ」


そう言って電話を切った。

それは感情的なものではなくて。
後悔も、寂しさも感じなかった。

携帯を握りしめて、ぎゅっと目を瞑り、空を仰ぐ。
ふうーっと、一呼吸つくように大きく息を吐き出すと、ゆっくりと瞼を開いた。
目に映る空はさっきと変る事は無く、澄み渡った夜空だった。

―――それでも。

携帯をバッグに滑り込ませると、あたしは走り出した。





奇跡なんて起きる筈がないと分かっているのに。
その確率がたとえ1%未満でも。
0.1%さえなくても。

それでも涼太に今すぐ会いたいと思った。
会って「ありがとう」と伝えたかった。
あたしの一歩を踏み出す勇気をくれたのは涼太なのだから。

この年になってこんな風に走るなんて。
太腿もふくらはぎも既にパンパンで、進める足は時折縺れる。
それでも必死に前に進める。

こんな日にいい歳した女が、人混みを掻き分けて凄い形相で走っているなんて。
明日の話題をさらうかもしれない。
それくらい形振り構わずにあたしは走った。

口の中は鉄の味がして、胸は息を吸い込む度にずきずきと痛んでも、足を止めなかった。
ようやくさっきのビルが見える。

大きなガラス張りのエントランスが見えるところまでくると、急に不安が押し寄せてきた。


さっきからもう、2時間近く経っている。
もしかしたらもう帰ってしまったかもしれない……。


走って痛む心臓を、緊張が更に早鐘を打ちつけさせ、痛めつける。

あのビルの前の交差点の赤信号を、逸る気持ちで待っていると、どこからか声が聞こえた。


「沙穂!」


その声と共に、あたしが会いたいと願った相手が現れる。

少し驚いた顔を見せた涼太は息を切らせて、白い息を絶えまなく空へと上げながらあたしに近づく。

だけどほっと息を吐く暇も、名前を呼ぶ暇も無く、あたしは腕を引かれてまたすぐに走らされた。


「え?涼太っ?何っ!?」

「行けば分かる!」

後ろも見る余裕などないように、力強く腕を引いて走る涼太。


いったい、どうしたの!?


「何所に行くのっ?」


息切れして、そう聞いた一言さえ苦しかった。


「いいから走れ!」

「えっ!?」


訳も分からず走らされ、辿り着いた大きなビル。
急かされたせいか、入口の大きなガラスの回転ドアが、ゆっくり開くのさえもどかしく感じた。
ドアの先の広いホールは、中央の吹き抜けに、何メートルあるんだろうというくらいの圧巻の大きさのツリーが飾られ、その周りには取り囲むように沢山の人がいた。


「凄い…」


そう呟くように言って、ツリーを見上げると、隣の涼太はようやくあたしに顔を向けた。


「約束守れよ?」


柔らかく、そして優しくその顔は微笑んだ。
あの時の少年のような微笑みで。


―――約束…って……?


そう聞き返した言葉は、大きな鐘の音で掻き消された。


―――リンゴーン、リンゴーン………

重厚感のあるその大きな鐘の音と一緒に、わああぁっと、大きな歓声も上がった。


―――何……?

そう思った瞬間、自分の目の中に飛び込んだ光景に、一瞬目を疑った。

ひとひら。
ふわりと白く小さなものが目の前を過った。

あっと思うと、それは次々に天から舞い降りてくる。

人々の感嘆の声が煩いくらいなのに。
それなのに、それはスローモーションのように、ひとつひとつが音も無く柔らかにゆっくりと花びらのように落ちてくる。
―――小さな小さな雪。


「う…そ……」


大きく瞳を見開く。
だけどまぎれもなく、本物の雪が目の前にある。


「これも奇跡の一種だろう?人工雪だけどな」


そう言った目の前の笑顔さえ、降り注いできた沢山の雪が視界の邪魔をした。


「15分間、人工雪を降らすクリスマスのイベントだよ」

「これも奇跡に入るの?」

「奇跡だよ。この近くにいなければ降る事なかっただろ?」


涼太はそう言うと悪戯っぽく微笑む。
何だか最初からこの奇跡を信じていたみたいな顔つきだ。


「ずるいなぁ……」


そう言ったけど。
本当にずるいのはあたしだ……

この奇跡に、本当に身を委ねてもいいの……?


喉に大きな塊のようなものがせり上がって、目頭が熱くなり、視界は徐々に霞んでいった。
霞んだ先の光景と、あの日の雪が重なり合う。

ふと伸ばした先の掌の上に、ぽつぽつと舞い落ちては、体温ですぐにその雪達は消えていく。
まるで本物の雪だと主張しているようだ。

だけど。
心からは絶対に消える事の無いこの雪。

すぐ隣の指先が触れたかと思うと、どちらからともなく、その手を固く握り合った。


――――やっぱり神様からのプレゼントだったのかもしれない。


握り合った反対の手の指の腹で涙を拭う。

そして。
髪に、肩に、白い雪が降り注ぐ彼の笑顔に、あたしも微笑み返した。





END



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 update : 2007.12.20