消えない雪

夢を見た。
あの時の夢……

幸せで。
ただ、隣にいてくれるだけで心が温かくなる、そんな遠い昔の夢を。




ゆっくりと開いた瞼のすぐ先には、その夢と同じ人の顔があった。

規則的に小さく立てられた寝息。
気持ち良さそうにそこに眠る涼太(りょうた)を、そのまま見つめた。

少し少年っぽさを残した寝顔は、あの頃とあまり変わってないな、と思った。
だけどすぐに、ううん、変ったな、と思い直す。

あの頃の線が細く、まだ少年だった彼とはやっぱり違う。
薄っすらと髭の生えた顎や、筋張った喉仏。緩いパーマのかかった柔らかそうな黒髪に、がっしりとした筋肉のつく腕や胸。
そこには大人の彼がいた。

あれからもう10年近く経っているんだ。
あたしも涼太も全く別の人生を歩んでいて、違っているのは当たり前の事だ。


ふと、視線をずらすと、安っぽい蛍光色のデジタル時計の表示が目に入った。

12月25日 09:15

――――もうこんな時間……
チェックアウトはすぐだ。


遮光カーテンが引かれた小さな窓は、そのほんの少しの隙間から朝の光を漏らしていた。
その光でぼんやりと映し出される薄暗い部屋を、目を凝らすようにして見渡す。

奥には最近入れたばかりのような大きな液晶テレビに、通信カラオケの機械。
その前には、黒の合皮のラブソファーに小さなサイドテーブル。テーブルの上には、昨日飲んだワインの瓶とグラスがそのままになっている。
大きなボウル型の洗面台の斜め前辺りには、この部屋に不似合いな小さな白い冷蔵庫が置かれ、静かな空気に微かなモーターの音を立てていた。


一通り見渡した後、鏡張りになっている天井を見上げた。
如何にもラブホテルといった丸いベッドに、布団を被った裸のあたしと涼太がそこに映っている。

それを見るとつい何時間か前、身体を絡めながらこの鏡に映った自分達の浅ましい姿を思い出して、思わず長い溜息が吐き出された。

何でこんな事してしまったのだろう。
いくら寂しかったからといって。

そう深い後悔が押し寄せる。


――――クリスマスイブ
そんな特別な日に、偶然にも会ってしまったせいだ。きっと。


あの時。
たった一度の彼の浮気が許せなくて、終わってしまったあたし達。
あたし以外の女性とそんな事をした彼に、嫌悪感が込み上げて仕方無かった。
まだ、子供過ぎたのだ。
それを知ってしまった後、もう身体を重ねる事は出来なくなってしまった。
まるで汚いもののようにしか思えなくなってしまったんだ。

それなのに今のあたしと言ったら、妻子ある男ともう3年も関係が続いている。
『愛しているのは君だけだ、妻との関係は紙切れ一枚だけだ』
そう言いながら、あたしを縛り続けるアイツ。
こんな特別な日でさえ、一緒にいる事は許されないのに。

昨日偶然に涼太に逢ってしまった事は、神様のクリスマスプレゼントなんじゃないかとも思った。
純粋で穢れ無い真っ白な気持ちを持っていた相手―――。
駆け引きとうわべばかりの大人の恋愛に疲れたあたしに、思い起こさせる温かく懐かしい気持ち。
『今、幸せなのか?』と訊く涼太に、『うん』と答えた筈なのに。
瞳からは勝手に透明な液体が流れ出ていた。

今、彼女はいないと言った涼太に、あたしは甘えてしまったのだ。
ただ、この虚無感を……空っぽに乾き切った心を潤して欲しくて。


久しぶりに重ね合わせた肌は、子供の戯れだったあの頃のものとは違っていた。

手で、足で、唇で、舌で、身体全部の五感を使って、快楽をとことん追求する男女の営み。
忘れていた筈なのに身体は覚えていた。相手のウィークポイントも全て。
そしてお互いの寂しさを少しずつ埋め尽くすように、あたし達は何度も何度も昇りつめた。

あの頃のあたしが一番嫌いだった汚い部分。
愛のない、ただの快楽と捌け口。

だけどどうしてこんなにもその行為は、気持ちを満たしてくれるのだろう。
そしてどうして別れたこの昔の恋人に、心地良ささえ感じてしまうのだろう。
「沙穂(さほ)」とその唇から囁かれる自分の名前さえ愛おしく感じるほどに、身体以外の全ても包み込まれたようだった。




当り前のように、あたしの首元に絡められた彼の腕を眺める。
あの頃もこんなふうに、いつもこの腕枕で眠り込んだな、と思い返す。

ゆっくりとその腕を外すと、目の前の瞳が開いた。


「おはよう」


起きたての少し掠れた声で涼太が言った。


「…おはよ……」


そうハッキリと言い終わる前に、あたしの唇は塞がれる。
触れたと同時に差し込まれる生温かい舌を、どちらからともなく絡め合う。
吸い込むようにその感触を確かめながら、何度もお互いに角度を変えて食す。

じわりと、身体の奥底から何かが滲む感覚がした。
安心するようなホッとするような心地良さと一緒に、甘い疼きも込み上げる。

這うように涼太の唇が耳の下へと移動され、胸元を大きな掌で覆われると、あたしは小さな声でそれを拒否した。


「……ダメ」

今更だ、とも分かっていながら、自分の暴走を止めたかった。


涼太は眉を少し寄せ、怪訝そうな顔をして見せる。

「何で?」

「もう、これっきりにして……」

少し俯きそう答えた。

これ以上はもう、何だか怖い気がした。
この心地良さから抜け出せなくなるんじゃないかと思ったから。

あたしにとっても、涼太にとっても、寂しさを埋めるだけのただの一夜限りの戯れに過ぎないのに。


「沙穂……俺は偶然とは思えないからな」

「え?」

「昨日再会した事」

「何…言ってるの?」

「覚えてる?昔した約束。雪の中で」


――――雪の中で……

さっき見たばかりの筈の夢がまた、フラッシュバックした。

あの時の約束………




高校3年生のクリスマスイブ。
夏から貯めたバイト代で行った、初めての二人きりの北海道旅行。

真っ白に広がる新雪の中に、埋もれるように二人でふざけて寝転がって。
手を繋ぎながら、暫く降り注ぐ雪を眺めていたんだった。

黒っぽいグレーの低い雪雲から、ゆっくりと舞い落ちてくる大粒の雪達。
幾つかの結晶が絡み合ってひとつになって降り注ぐなんて、関東に住むあたし達には初めての経験で、それは大きな感動だった。
そして下からその様を眺めているのは、とても神秘的で美しく飽きることがなかった。
澄んだ冷たい空気が、その場所だけ切り取ったように無音で包み込んで、別世界に二人だけ連れていかれたような気さえした。

背中も髪も、足の爪先も、雪の温度に体温を奪われて冷え切っている筈なのに。
繋がれた掌からは、満たされる気持ちと共に、熱を持っているのを感じていた。


黙ったまま空を見つめて数分が過ぎ、引き合せたかのようにすぐ横の顔を見合わせると、やっぱりお互いに声のない笑みが零れた。

そして、涼太はその笑みをすぐに消して真面目な顔をしたかと思うと、あたしに向かってぽつりと言った。


「結婚しような」

と。


驚いた。
驚いてすぐに声が出せなかった。

ただ瞳を大きく見開いて、瞬きをする事さえ忘れて涼太の事を見つめ返した。


「勿論、すぐじゃないよ。
だけど、一生横にいる相手が沙穂だったらって思って。
今、どうしてもその気持ちを伝えたかった」


そう言った涼太の顔は、少し照れくさそうに微笑んだ。

大きく波を打つ様に心臓は動いて、下から突き上げるように熱い気持ちが込み上げた。


「キザ……」


本当は涙が出そうな程嬉しかったのに。
照れ隠しにあたしはそんな風に言ってしまった。


「何だよ。沙穂、言ってたろ?25歳までには絶対絶対、結婚したいって。
相手がいなかったら可哀想だから俺が貰ってやるって言ってんの」


唇を尖らしてムキになった涼太に、あたしは寝そべったまま抱きついた。


「約束」


呟くように言ったあたしに、涼太は唇の片端を上げた。


「約束」


涼太がそう答えると、すぐにそのままその唇であたしの唇は塞がれた。




モノクロの色で断片的に思い出されたその記憶。
忘れる筈がない純粋な思い。

だけど。
それはとうに過ぎ去った昔の思い出でしかない。


「そんなの、昔の約束でしょ?
それに残念ながら、もう約束の年なんて過ぎてるわ」

そう言いながら自嘲する。
だけどどうしてあたしの胸は高鳴るのだろう。
そしてこの奥底から込み上げてくる想いはいったい何……?


「お前と別れてから、確かに何人もの女と付き合った。
だけどずっとずっと心の奥にお前の事があって、それは消える事はなかった。
昨日会った事は偶然なんかと思えない。
お前がこの年まで一人でいてくれたのは、約束を果たすためなんじゃないかって思えた」


真剣な眼差しをあたしに向ける。
あの時と同じ、真っ直ぐで澄み切った瞳。

あまりにも綺麗なその瞳に歪んだあたしが映っていて、それが自分の中の汚さを映し込んでいるように思えた。
そんな自分に嫌悪感が込み上げる。


「何言ってるの?あたしが今どんな人間か分かってるでしょ?
人様の家庭を不幸にするような事、平気でやってるのよ?
昔のあたしとは違うわ」

「幸せじゃない事、認めただろう?それは罪悪感も含んでるからだろう?
お前にだって幸せになる権利はある筈だ」

「そんな風に言って貰えるような人間じゃないってば!」


つい感情が高まって語尾が強くなったあたしを、涼太はぎゅっと抱き寄せた。
頬に触れる素肌から、涼太の心臓の音が響く。


「お前はお前だ。俺が幸せにしてやる。
クリスマスに再会できたのは運命だよ」


そう言う涼太のぎゅっと閉じ込められた腕の中は、やっぱり懐かしくこんなにも心地良い。
そしてその甘い言葉が、どうしてこんなにあたしの心を揺さぶってときめかせるのだろう。

そのせいか、つい言ってしまった。


「もし……」

「え?」

「今日、あの時みたく、雪が降ったなら……あたしもその運命を信じるよ」


天気予報は快晴。
雪なんて降る筈がない。

そんな奇跡があるのなら、その運命に身を委ねるのもいいのかもしれない。


ほんの少しの沈黙の後、「約束だ」と涼太は小さく答え、抱きしめられた腕に更に力が入った。


 update : 2007.12.20