01

品川から新宿に向かう朝の山手線。
通勤ラッシュの時間帯。
いつもと同じ、車窓の変わらない景色。
ほんの数センチも腕を動かすことも出来ない、乗車率200%の犇めき合う車内。

あたしの身体には、びったりと前後左右、誰か知らない人の身体が押し付けられている。
この時期特有の、汗ばむじっとりとした気持ちの悪い肌が触れ合っていたって、文句の一つだって言えない。
ヘビースモーカーのきっつい臭いが気分を悪くさせたって、鼻を抓むことさえ出来ない。

あーっ。気持ち悪いっ。

だけどひたすら我慢、我慢!


それでも仕方なく、毎日この山手線の一番後ろの車両に乗る。


これがあたしの毎朝。日常。


工藤 菜奈(くどう なな)。
22歳。
所謂、普通のOL。 





品川〜大崎〜五反田〜目黒……

ああ。次はやっと恵比寿……。渋谷に着けば降車する人も多い。
このびったりと動けない状況から、人が入れ替わるだけでも何となく気分は変わる。

サラリーマン達に囲まれて、窓の外の景色を見ることさえままならない。
それでも、ちらちらと人の隙間から、いつもの見慣れたビルの景色が目に入った。


『次は〜恵比寿〜恵比寿〜。間もなく恵比寿に到着致します……』


車内にあの独特のアナウンスが流れた。
どの時間帯に乗っても、全く同じトーンのこのアナウンスは、ありきたりな変わらない日常を沸々と感じさせる。

そうかと思うと、すぐに電車は恵比寿駅のホームに入り、ドアが左右に開かれる。
今日は割とドア近くに立っていたお陰で、ドアが開く度、多少の人の入れ替わりがあってまだマシな方だ。

降車客から乗車客に、あたしの周囲は少しだけ替わった。


お。
カッコイイ……じゃんっ。


恵比寿駅から乗り込んであたしの目の前に立った、背の高いスーツ姿の男の人。
こんなに格好良い人にお目にかかれるなんてかなり珍しい。

身体が密着されても、これだけ格好良ければ、気持ち悪いオヤジなんかより全然マシ!

思わず視線が奪われて、見とれてしまった。
あたしの真上にある顔は、首をかなり上げないと見えない。
だけどそれでも凝視してしまうくらい、整った顔立ちだ。

色素の薄い、細い線の柔らかそうな髪。
大きいけど、きりりとした少し茶色い瞳。
鼻筋の通った高過ぎない鼻に、綺麗な顎のライン。


甘いマスクという言葉がぴったり……かも。


そう思った途端、ばちり、と視線が合わさった。

ヤバい。
完璧に凝視してたのバレバレだよね!?


だけどあたしは驚いたせいで、そこで瞳が見開いてしまって視線が外せなかった。

だって、吸い込まれるようにそのブラウンの瞳があたしを見つめているんだもん。


思わず誤魔化すように、引き攣った口の端を意味もなく上げて微笑んだ。


な、何やってんの!? あたしっ!


心の中で自分に突っ込みを入れた。

そうかと思うと、どきりと大きく心臓が跳ね上がった。

だって。
その目の前のイイ男が、あたしに微笑み返したから。
すっごい、極上の笑顔で。


どうしよう。
めちゃめちゃカッコイイ……。


心臓は大きく跳ね上がっただけじゃ済まなくて、早鐘を打ち出した。


だけど……この先ってどうすればいいの?


何だか余計、視線を外せなくなってしまう。


………。

……って。アレ……?

何だか、お尻がもぞもぞするし……。


目の前の笑顔に気が集中していたせいで、今更ながら気付く、お尻の感触……。

如何にも骨っぽい大きな男の掌が、あたしのお尻を輪を描くように撫でている。
そうかと思うと、フレアースカートを穿いている下からその手はまさぐりながら移動し、素肌に触れてきた。

太腿に感じる生温かい指の感触。


ちっ、痴漢!?
信じらんないっ!

この男っ! イイ男と思ったあたしが馬鹿だったっ!
ただの痴漢男じゃないのっ!


あたしの目に映るその笑顔は「どうだよ、気持ちイイだろ?」とでも言っているかのように見えてきた。


ムカツクっ!
何なの!? その余裕!


今度は思いっきり上目遣いで睨みを利かせた。

それなのに、余裕すら感じる不敵な笑みを浮かべる。


こ、このぉ〜!


その瞬間、電車がガタンと大きく揺れた。
乗車率200%のその車内は、人垣が皆同じ方向に揺れ、あたしもその波に押されて足もとがふらついた。

あっ、と思うと、彼の手があたしの腰に回されたのが隙間から見えた。


「このっ、痴漢男っ!」

電車が揺れて、人波が動いた一瞬の隙。
あたしは、全く動かすことの出来なかった右腕を素早く引き抜き、目の前の男の横面を思いっきり引っぱたいた。

大きな音と大きな声が静かな車内に響き渡って、全員と言っていい程の乗客の視線を一斉に浴びた。

だって。
その瞬間は頭に血が上って、恥ずかしいとかそんな事考える余裕もなくて。
手と口が勝手に動いちゃったんだもん!


目の前の顔は、何が起きたのか理解出来ていないようで。
目を見開き唖然と口を開けている。


何よ! 何か言ってみなさいよっ!


『渋谷〜渋谷〜』

また独特のアナウンスが響き渡って、渋谷駅構内に電車は入り出した。


「はぁ?」


乗客達も注目する中の彼の第一声はそれだった。
何言ってんの? とでも言いたげな馬鹿にした声。


何よその声っ! ムカツクっ! 痴漢のクセに!


「触ってるじゃないっ! あたしの腰に手があるでしょ!?」


あたしは更に睨みを利かせて言った。
車内もざわめく。

腕を動かすことの出来ないこの状況で、あたしの腰の部分に触れられた手。
言い訳したって逃れられない状況じゃないっ!


「これは今電車が揺れて、アンタが倒れ掛かってきたから支えてやっただけだろ!」


悪びれもなく反論する男に、なーんだ。というような空気が流れる。


信じらんない!


「ちょっとっ……」

腰の前にお尻も太腿も触ってたじゃない! と。そう言おうとしたのに、ホームに到着した電車のドアが開かれ、無情にも人波に押されてあたしも彼も渋谷駅に投げ出された。

同じ車内にいたサラリーマンもOLも、『全く関係ありません。出勤で急いでます』そう澄ました顔付きで、皆早足に素通りして行く。


もうホントに信じらんない! 東京の人間って何で皆こんなに冷たいのよ!
こういう時って、誰か痴漢を捕まえてくれるんじゃないの!?


背の高いその男を見上げて、再度睨みつける。


「あなた……ねぇっ」


だけど、文句を言おうとすると、それをその男が遮った。


「つーか。もう行っていい? オレ仕事なんだけど」

「は?」


思わずそれしか言葉が出ない。


信じらんないっ!
この期に及んでソレ!?


「痴漢のクセに何言ってるの!」


あたしが声を荒げると、彼は、はぁ? とでも言いたげな顔をまた見せた。

『痴漢』という言葉に反応してか、こんなところで言い争ってることが気になってなのか、ホームにいる人達はちらちらとこちらを窺う。


「だから言ってるだろ。支えてやっただけだよ!
何で痴漢とか言われなくちゃなんねーんだよ! ふざけんな!」

「その前に触ってたじゃないっ!
お尻と太腿! ニヤニヤ笑いながら!」

「触ってねーし!
オマエがオレに見とれて笑いかけてくるから、仕方なく笑い返してやったんじゃねーか。」

「見とれてる……って」


すぐにその先の言葉が出ない。

くっ、くやしいっ!
確かに見とれちゃったわよ!
だけどっ。


「痴漢にそんな事言われたくないわ!」


あたしが怒鳴ると彼は一度黙った。


あれ? 何!? 何で黙るの!?
何か調子狂う……。
てか。何か言ってみなさいよっ!


そうかと思うと、一度小さな息を、ふう、と吐き出す。


「悪いけど。オレが仮に痴漢だったとしても、アンタみたいなオウトツのない色気のねぇ女なんてご免だね」

「なっ……!」


なにぃ〜〜!?


怒声が上がる前にあたし達二人に向かって、おばさんと駅員さん二人が駆け寄って来た。


「こっちこっち!」

「痴漢ってあなたですか!?」

「ちょっとお話伺いたいんでこちらに来て下さいっ!」


駅員さん二人は彼の腕を左右からガッチリ掴んだ。
あたしも急な展開に何が起こったのか分からず、ただその様を見つめるだけ。


「ちょ、ちょっと待って下さい! オレは何も――!」

「皆そう言うんだよね。いいからちょっと来て下さい!」

「違うって!」


無理矢理引きずられるように連れて行かれる彼。
あたしは何だか他人事のようにあんぐりと口を開けて傍観してしまった。
何事だ、とばかりに駅構内の人の注目を浴びる。
反対側のホームからもざわめきが聞こえそうなくらいの注目度だ。


「あなたも一緒にお話訊かせて下さい」


あたしにも駅員さんからお声が掛かると、駅員さんと一緒にいるおばさんがあたしの手を取った。
どうやら彼女がわざわざ駅員さんを呼びに行ってくれたみたいで。
可哀想にというような同情の顔付きであたしに言った。


「大変だったわねぇ。痴漢なんて女の敵よねぇ?」


そう言いながら、ぎゅっと、あたしの手を両手で包み込むように握る。
そしてあたしの背中をぽんと押し、行け、と促す。

あたしは「ありがとうございます」と頭を軽く下げ、なされるがまま、駅員さんに付いて行くしかなかった。


だけど……。


――ああ。完全な遅刻だな……。
朝から全く、ついてない……。


怒りと変わって、そんな思いが頭の中を占領し始めていた。







それからこってり、30分近く話し合った。
駅員さんに、すぐに鉄道警察へ引き渡すからそっちで話を……と、駅構内の相談所に案内された。

彼の名前は大野 海斗(おおの かいと)……らしい。
別々の机で個別に話をしていたのに、彼が大きな声で怒鳴って言っているのが聞こえた。
どうも、尋問のような訊かれ方に腹を立てた……っぽい。

職員さんの攻め言葉に、とにかく、「痴漢なんかやっていない」の一点張りだった。

そう言い続けられると確かに……腰に回した手しかハッキリと見てない……と自分自身の自信も薄れてくる。

口が悪くてムカつくけど……。
もしかしたら本当にやっていないのかも……と、不安と後悔と恥ずかしさが途中から押し寄せてきた。

だけどあたしも引くに引けない状況に陥ってしまっていて。
なかなか、「もういいです」の一言が言い出せなくなってしまった。

結局「被害届を出しますか?」と訊かれた時に、「もし本当に痴漢じゃなかったら嫌ですし、もういいです」と答えて終わった。

自分でも物凄く後味は悪かった。

本当にこの人が犯人なのか、違うのか分からなくなっていたし。
違っていたら申し訳ないし。









「は〜ぁ。完全なる遅刻。参ったな。
痴漢疑惑で捕まって遅刻しました……なんて言えねーし」


相談室を出ると、大きな溜め息を吐きながら、開口一番に彼が言った。

疲れた、と言わんばかりにネクタイを少し緩める。

スーツのジャケットを脱いで、シャツにネクタイ姿の彼。
肩幅もあってがっちりした身体は、何かスポーツでもやっていた感じ。
緩めたネクタイに、首元のボタンを少し外したシャツから覗かせる首は、太くて男っぽい。
薄い色のシャツが日焼けした肌に映えて、年は近いと思うのに、雰囲気は大人っぽい。

背も高くて甘いマスクの彼は、やっぱり目立って格好良いと思う。


これで黙ってれば本当にイイ男。
……なんだけど。


「あたしだって遅刻なんですけど」

「アンタが原因なんだからしょーがないだろ。こっちはとばっちりだよ」
「とばっちりって……。
だって仮に痴漢してなくても、腰に手を回したのは事実じゃない!
痴漢と疑われたっておかしくないわよ!」

「支えてやったって言ってるだろ!
感謝されるのならおかしくないけど、何だよアンタのその態度!」

「それはこっちのセリフよ!
それにアンタアンタって言わないでよ! あたしにはちゃんと名前あるんだからっ」


睨んで彼を見上げた。

ふーんと澄ました顔付き。
ちょっと考えてる?


「………。
えーと。何だっけ? ナナ?」

「呼び捨てしないで下さい……」

「おっまえなぁ〜。ほんっと可愛くねぇ女!」

「あなたに可愛いって思われても仕方ありませんっ」

「埒があかねぇ……。
もーいいわ。早く行けば? 会社」

ああっ。もうホントにムカツク男っ!


「じゃあ!」

あたしは、ふん、と。顔を叛けながら新宿方面へのホームへと歩き出した。


ホントに朝からツイてない。
会社にも遅刻するって電話しなきゃ……。


小さく溜め息を吐き出すと、バッグから携帯を取り出し、ホームへ向かう足を一度止めた。

すると、横にまたあの男、大野海斗がいて、ばちりと目が合って驚いた。


「ちょ……何付いてきてるのっ?
信じらんない! 今度はストーカー?」


あたしの言葉に、彼は一度眉間に皺を寄せて顔を顰めてから、はぁ、と、小さな溜め息を吐く。


「アホか? オレ新宿に行くのにホームこっち」

「だからって後ろ付いてこないでよ!」

「別に付いて行ってる訳じゃないんだけど。
つーか……アンタってマジで自意識過剰だな……」 


がーん。
自意識過剰!?

ム、ムカツク!
ホントにコイツってっ!!


「タクシーで行くからいいわ。同じ空気も吸いたくねぇ」


あたしが怒りに震えて言葉が出ないうちに、彼は捨て台詞のようにあたしにその言葉を投げつけて踵を返した。


なっ、何!? 何よそれっ!!


あまりの怒りから手は震えて、あたしは持っていた携帯電話をぽろりと落とし、まだ買って3か月のソレを壊した。


本当に最悪な1日の始まりとなってしまった――。

update : 2007.07.04