隙間を埋める方法
微かに届いた高い音で、浅い眠りが途切れた。
どこから聞こえてくるんだろう。
小さく歌うような、鳥の声。
ぼうっとしながら、重い瞼をこじ開けた。
目を閉じたときは青白い月明かりしかなかった暗い部屋は、すみれを思わせる明るい薄紫色になっていた。
白いカーテンも同じ色に染まって、天井にその柔らかい影を波打たせている。
身体を動かさないようにほんの少し首を捩って、数十センチ前にある顔を眺めた。
痺れた腕の上にある、しっかりと瞼が閉じられた小さな顔。
規則的に息を漏らす、薄っすらと開いた唇が可愛いな、なんて思う。
……夢、じゃないよなぁ。
何度、この手で触れたいと思ったか。
抱き締めたいと。
ずっと。
逢えなかった時間は、一緒にいた時間よりも長くて。
たまに、葵と過ごした日々は、夢でも見ていたんじゃないか、とも思わされた。
うん。
これは、現実だ。
今、腕の中にある重みも、感じる体温も。
ホンモノだと、幻ではないと教えてくれる。
身体の奥から、じわじわと温かい何かが広がっていく。
満たされた気持ちというのは、こういうモノだと。
それを教えてくれたのも、葵だ。
何も知らない顔で気持ち良さそうに眠る葵の全てが、愛しくて堪らない。
数時間前には確かめるように何度も触れた、曲線を描く身体も。
すっと長い首に浮き立つ筋も。
固く瞑った瞼の先から伸びる長い睫が落とす影も。
少し赤みの差した滑らかな頬も。
枕の上に広がる細くて柔らかい髪の一本さえも。
愛しくて、愛しくて。
寝顔が可愛いって、じっと見てたなんて言ったら、コイツ、怒りそうだよな。
悪趣味だ、なんて言いそう……。
想像したら、思わず、ふっ、と笑ってしまった。
その途端、身体が揺れたせいか「ん」と葵は寝ながら眉を顰めた。
あ。面白い。
眉間に寄った縦皺に人差し指でそっと触れた。
次の瞬間、何が起こるとも知らずに。
いきなり頭の中に星が飛んだ。
小さないろんな色をした星が。
「……ってぇー!!」
至近距離から繰り出された顔面パンチ。
マジでコイツ、信じらんねぇ!!
あまりの痛さにそれをやった張本人の頭の下から腕を引き抜き、打たれた部分を押さえて飛び起きた。
「……んー?」
あ。起きた。
可愛い声、出してんじゃねえよ!
「……潤、何してんの?」
床にうずくまっているオレに、葵はまだベッドに横になったまま、寝ぼけた声で言う。
何やったか、全く気付いてないな、コイツ。
「何って……。
今、葵……オレに何したか分かってんの……?」
「え? 何?
あたし、何かしたっ?」
がばっと、ベッドから飛び起きる音が聞こえた。
オレは顔を押さえていた掌を、ゆっくりと外してそちらを向いた。
「寝ぼけて顔面パンチ。
スゲー至近距離から」
「嘘ぉっ!?」
「ホントです……」
「ええっ!? 嘘だっ!!」
「や。だから、ホントなんだけど……」
驚愕した顔はすぐに歪む。
そして今度は、みるみる泣きそうになって俺に近づいた。
床に座り込んでいるオレに、葵はゆっくりと腰を屈めて手を伸ばしてくる。
「ゴメン……!
痛かった、よ、ね?」
「当たり前じゃん。
オマエ、寝相つーか、悪い、とか?」
「自分じゃ分かんない……んだけど」
「誰かに言われたコトねーの? 親とか、香織ちゃんとか」
「………」
葵はそこで黙り込んで少し首を傾げた。
険しい顔で考え込んでいる。
コイツ……今、昔の男とのこととか、思い出してねーか?
つか、考えてんだろ! 思い出してんだろ!
やめてくれよ!
初めての二人の朝なのにさ!
マジで信じらんねぇ!
「もー、いい」
「ごめんって」
「オレ、死にそう……」
違った意味でも。
マジで。
手に入ってしまった途端、酷く大きな独占欲が次々と湧いて出てくる。
自分はこんな女々しい奴だったのか、なんて初めて知った。
項垂れていると、葵の手が柔らかく髪に触れてきた。
「ゴメンね。
ね、今日、お休みだし、ベッド買いに行こっか? 大きいヤツ。
あたしのシングルだと、二人じゃ狭いし」
「何?
オレと毎日一緒に寝たいから?」
ちょっと意地悪を言ってやる。
下から覗き込むようにしてニッと唇の端を上げると、葵は目を見開いて、みるみる頬を赤く染めた。
そして、一旦目を逸らしてからもう一度上目遣いにオレを見て、ぽつりと言った。
「そーだよ」
「え?」
「一緒に寝たいよ、毎日」
頬を膨らませながら、葵が言った。
「だって、やっと、逢えたんだし、また一緒に暮らせるんだし。
あたし達って……」
昨日から夫婦でしょ? と。
昨日、たった二人で挙げた式の後、その足で区役所に向かった。
婚姻届の用紙は、葵が記入する部分のみ残してあって、あとは既に記入済みの物を用意してあった。
証人欄には勿論、敬太と香織ちゃんの名前が書いてあって、葵は、あたし一人に秘密だったなんて、と、少しだけ膨れていた。
そう。
もうずっと、二人でいられる。
オレ達は、本当の家族になった。
何だよ……。
そんな可愛いコト言うなよ。
そんな顔で。
それなのに、それ以上のコトを言わせたいオレ。
「ふぅん。そーだよな、狭いと十分暴れられないもんな?
昨日、結構凄かったけど?」
意味有りげに笑ってやると、予想どおり葵は赤い顔で手を振りまわす。
「あ! もう! そういう意味じゃないし!」
面白れー。
年上のクセに。
最初に逢ったときも、海で押し倒そうとしたらムキになって怒るし。
スルー力が足りないっつーか、なんつーか。
そういうところが、またいいんだけど。
からかったときの反応が、また面白い。
……琴線にめっちゃ触れてくる。
オレをわざと叩いてくるそのか細い腕を掴んで、くつくつと笑った。
つか。笑いが止まんない。
「いらねーよ」
「は?」
「大きいベッドなんて、いらねーよ。
オレ、マジで葵に殺される」
「えええっ?」
葵は素っ頓狂な声を上げてから、唇を尖らせて落ち込んだ。
「それって、別々に寝るってこと?
殴ったのはあたしが悪いけど、わざとじゃないし……」
そう言いながらすぐ目の前で下を向いて、もう一度上目遣いでオレの様子を窺ってくる。
そんな葵の姿に、また笑いたかったけれど、今度は堪えた。
わざと、誤解するような言い方をするオレって、結構Sっけあるのかな、とか思う。
一緒に寝たくない、の意味じゃないんだけど、な。
ダブルベッドなんかにしたら、広くて逆に落ち着かない。
寂しくって死ぬ、って意味。
ずっと離れてたんだから、隙間なんて作りたくない。
狭い方がいいよ、今は。
ぴったりと、くっついていたい。
安心するんだ。葵の体温を感じていると。
眠れなかった夜が嘘みたいに、すっと自然に深い眠りへと吸い込まれていってくれる。
僅かな隙も、いらない。
ひとつのモノのようになりたい。
開いていた時間を取り戻すように。
そう本当のことを言ったら、今度はどんな顔を見せてくれるのか。
取りあえず、目の前の尖った唇を頂いた。
突然合わせた唇に驚いたようだけど、全然嫌がっている様子もない。
そのまま柔らかい感触を確かめながら、掴んでいた腕を引き寄せて、細い身体を抱き締める。
――パンチのお礼をしながら、そのことを言うとしよう。
END
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