ジューシー
愛するひとと一緒ならば、いつでも幸せだけれど。
たとえば、こんな時間が好きだ。
今、こうしている時間。
すぐに触れられることのできるくらい傍で、静かに爪へネイルの色を乗せる時間。
なんてことのない『時』だけれど。
他の男のひとの前では出来ないことで。
それでいて、見られて恥ずかしいものでもない。
そんなところが、実に二人の関係を表しているようで。
「何か、楽しそうだな」
足の親指の爪へ細い刷毛をゆっくりと入れるあたしに、光が言った。
「楽しいよ。ネイル大好き」
手を止め、顔を上げ、微笑んで答える。
ここのところ忙しくて、サロンにも行く暇がなくて。
少し時間が空いた寝る前に、自分でやることにした。
プロのネイリストほどの出来栄えは望めないけれど、自分の手で丁寧に綺麗に彩っていく作業は、それはそれで楽しいのだ。
「ちょっと俺にも塗らせてみて」
「え?」
「面白そう。やってみたい」
「いいけど……」
若干不安。
中途半端に塗りかけのままのあたしの爪が、どうなるのか。
けれど、あたしは光に蓋の開いた小瓶と、その刷毛のついた蓋を手渡した。
半透明のオレンジ色のネイル。
ついこの間、夏っぽいこの色に一目ぼれして買ったのだ。
光は、ゆっくりゆっくり慎重に、あたしの爪の上で刷毛を動かし始める。
なんだかこそばゆい感じ。
「結構難しいな」
「でしょ?」
「女って凄いかも」
「でしょ?」
「でも、確かに意外と面白い」
そう言いつつ、真剣だ。
そんな光を見ている方が、あたしにとっては面白い。
光は、フローリングに両膝を付き、前屈みで、あたしの足の爪に、オレンジ色のネイルカラーを滑らせる。
すぐ目の前には、光の頭があって。つむじが見えた。
頭のてっぺんにぽつんとある小さな渦。
何だかとても愛しくて、触れたくなって、あたしは手を伸ばした。
柔らかくしなやかな髪を、作業の邪魔にならないようにそっとかき上げる。
やっぱり、幸せだ。
「瑞穂」
「うん?」
「南の島に行こうか」
「南の島?」
突然の提案に訊き返すと、光は手を止めて顔を上げた。
「結局忙しくて新婚旅行に行ってないし、仕事がひと段落ついたら、どこか行きたいと思ってたんだ。
瑞穂の爪を見てたら、南の島、って思って」
「爪?」
「何だか、ジューシーな甘いカクテルの色みたいだろ? 南国の海に似合いそうな」
とろけた笑顔で光が言う。
「行くっ!」
「うん」
「ねぇ、光」
ん? と、訊き返してきた体勢の無防備な唇に、あたしは自分の唇を落とした。
光は突然のキスに少し驚いたようだったけど、すぐに順応して返してくる。
あたしからしたキスなのに、まんまと先導を奪われてしまう。
お互いに夢中になって唇を貪る。
床の上の手に、光の掌が重なる。
指が絡まってきて、あたしも同じように絡めた。
キスの深さに比例して、身体の力が抜けていく。
カタン、と、小さな音がした。
何かと思って、舌を吸いながらも薄く目を開けた。
床にネイルの瓶が倒れた音だった。
フローリングの上に、オレンジ色の液体が広がる。
あたしの身体の内側にも、同じように甘い液体が、熱くじんわりと広がっていく。
南の島のカクテルより、こっちの方がずっと、甘くて。
それでいて切なくて、ジューシーだ。
息切れするほど熱のあるキスをして、お互いの唇が離れると、光が汚れた床に目を落として溜め息を吐く。
「やっちゃったなぁ」
「やっちゃったねぇ」
「片付けなきゃな。
瑞穂、爪、平気か?」
爪――どこか変な場所につけたり剥げたりしてないけど、見事に中途半端。
あたしは「ん」と、両足を差し出して、現状を見せる。
光は、半分塗られていないあたしの足の爪を見ると、立ち上がった。
「ネイル、零れちゃったしな。
今塗ったやつは落として、違う色のを塗り直すしかないな」
言いながら、光はチェストの上のティッシュ箱を取りに行く。
そして、すぐに床を拭き出す。
あたしはそれを隣で見ている。
「だね。しょーがない。でも、今日はもう、ネイルやーめた」
「何で?」
動かしていた手を一時止めて、光が不思議そうにあたしを見る。
「だって、塗ったら乾くまで時間かかるし。我慢出来ない。
だから片付け早く頑張ってー」
背中からがばっと抱きついて乗っかる。
体重全てかけちゃう。
「こら、瑞穂。重い。これじゃ片付けられないだろ」
「やーだ。離れない。
我慢出来ないって、言ったでしょー?」
「我慢って、そっち?」
問われて、あたしは、ふふふっと意味深に笑ってみせる。
「ね、光、ハワイ? グアム? フィジー? プーケット?
贅沢に、モルディブもいいかな」
「……そんなに休暇取れるのか?」
「さあ?
でも、今は、先にこっちの海ね」
床にある大きな手に、自分の手を添え、指を這わせた。
南の島よりもずっと近い――甘い愛の海に、溺れさせてね。
END