ほほえみ。

もう、二度と会いたくなんてなかった。
ずっとそう思っていた。
私の事を裏切った二人になんて。

それなのに何でよりによってこんな所で会ってしまうんだろう。


まるで海の中にいるかのように錯覚させてくれる、水槽のトンネル。
大きなエイや亀までも、私の頭上の青い大海原を気持ちよさそうに泳いでいる。

私は仕事に行き詰まるとここに一人で来るのだ。
30歳にもなる女が一人で水族館に来るなんて、傍から見るとおかしいかもしれない。
お客の殆どが家族連れかカップルなのだから。

だけど、ここに来て魚たちを見ると心が落ち着くのだ。
特にこの大きな水槽のトンネルは、まるで私のことを包み込んでくれる海のように感じるから。
いつも一人きりで頑張っていて辛くても、ここにいると一人じゃない気がするのだ。
それなのに今は。
目の前にいる二人の姿を通り越して、その背後のガラスに映る後姿が見えると、余計に自分が今一人なんだと感じさせられた。


「美奈子、元気…だった?」

窺うように真由は私に薄く微笑んでそう言った。
5年ぶりに目にした真由は、あのときよりも少しふっくらとして落ち着いた母親の顔になっていた。

「うん。
子供、いくつだっけ?ああ。そっか、4歳か」

真由と手が繋がれた小さな男の子に視線を落として答えた。
言葉を発した後、少し意地悪な返答だったな、なんて思う。


「浩太、ごあいさつして」

「こんにちは」

にこりと微笑む幼い笑顔。
その笑顔があの人とダブる。

―――コウタ。
コウタっていうのか………。

私のことを見上げるその子は、かつて私が愛した男をそっくりそのまま小さくしたようだった。



私と浩司と真由は大学の同級生だった。
私と真由は親友で、浩司は恋人だったのだ。20歳の頃から5年間。
たまに喧嘩はしたけど、仲良くやっていた。
私も浩司も何かあるといつも真由に相談して。
3人はそんな関係だった。
就職して仕事が楽しくて忙しくなってなかなか会えなくても、お互いに理解して上手くやっていた。
25歳を迎えるころには、結婚の二文字だって考え始めていた。

でも。
そう思っていたのは私だけだったのだ。
気が付いたときには真由は浩司の子を妊娠していた。
二人がいつの間にかそんな関係になっていたなんて、これっぽっちも気付いていなかった。

思いもよらなかった展開に、私はどうする事もできなかった。
ただただ目の前で両手をついて謝る二人に、罵声を浴びせる事くらいしかできなくて。

だけど許せるはずなんてなく、それから二人とは縁を切った。

そして仕事に打ち込むしかなかった。
それしかできなかったんだ、あのときは。

おかげで今は外資系金融機関のスーパーバイザーで、男まさりにお金を稼いでいる。

仕事は大変だけど楽しいし、やりがいもある。
だけどそれが幸せかって言ったら、そうじゃない。
あのときの傷を埋めようと、忘れようと、しゃかりきに働いてきたけど。
所詮、幸せなんてお金じゃ買えないんだ。
いくらお金があったって、高級なものを身にまとったって、目の前のこの家族の温かさに比べたら、塵みたいなものだ。


「美奈子、今Sバンクのスーパーバイザーなんだってね。凄いよね」

真由が少し嬉しそうに言った。
昔と変わらない柔らかな微笑み。

何でそんな顔、できるのよ?

「何で知ってるの?」

「佐和子から聞いた。今でも仲いいんでしょ?
美奈子の事はずっと気になってて……」

「気になってて、って……」

佐和子も大学の同級生だった。
あの時の私の相談に乗ってくれたのも佐和子で、今でも友達だ。
だけど、真由と連絡を取っていたなんて、一度も聞いた事がない。

「私たち、美奈子に酷いことして……。もしかしたら立ち直れないんじゃないか、って、心配してた。ずっと。だけど合わせる顔なくて。
だけどこうやって美奈子が頑張ってるって聞いて、凄いなって。
私、昔から美奈子のこと憧れてたし尊敬してた。何に関しても一生懸命で、そつなくこなして。明るくて皆の中心で。
何も取り柄のない私は美奈子と友達だって、自慢だったんだ」

「何を今更……」

思わず口から出る言葉はそれしかなかった。
呆れたような顔つきをして見せて、私は真由を見つめ返した。

だけど見つめる真由の顔は辛そうに歪んだ。
そうかと思うと、私を見つめていた瞳は伏せられ、クリーム色のタイルの床に落とされた涙の粒がそこに弾かれた。


何で泣くのよ?

気持ちがざわざわとする。
真由のその顔を見ていられなくなって、私も視線を逸らした。

私たちの今の空気にはそぐわない、美しい色の魚たちが優雅に目の前を流れていく。

「ママ、なかないで」

浩司に少し似た、舌っ足らずな高い声が聞こえた。

私は驚いて勢いよくその声の方へ振り返った。
「みなこもよしよししてあげて」
そう聞こえたからだ。

美奈子…って、言ったよね?今……


「ママね、みなこのしゃしんみるといつもないてるの」

そう言って私のことを見上げる小さなからだ。
その瞳はあの人の瞳を思い返す、真っ直ぐなもの。

「いつもって…何……?」

その瞳に目線を合わせるように、私はしゃがみこんで目の前の小さな手を掴んだ。

「ママ、よくみなこのしゃしんみるんだよ」

「浩太!」

これ以上言うなと言わんばかりの声で真由が咎める。

そして手で涙を拭うと、小さな声で私に向かって「ごめんなさい」と言った。


―――写真を見て泣く?
なによ、それ。

ずっと、苦しんでたって事?
5年間も?


屈んでいる私から見上げる真由は、そこに立つのに何故か小さく見える。

そこから視線を移して、目の前の浩太をまた見つめると、握りしめた小さな手は、これ以上ないくらいの力でぎゅっと私の手を握り返してきた。

黒いビー玉のような大きな瞳に、歪んだ顔の私が小さく映し出されている。


「ボクね、みなこにずっとあいたかったんだ。
だって、ママとパパがね、だいすきなおともだちっていってたから」

あの瞳が細く三日月の形になって、くしゃくしゃの顔で私に笑いかける。
純真で穢れのないその微笑み。

ぎゅぎゅぎゅっと何かが胸に押し寄せる。

許せるはずがないとずっと思っていたのに、私はどうしてこんな気持ちになってしまうんだろう。

大切な何かを落っことして、ずっと忘れていたような。

あのとき、大好きだったという気持ちは確かにあったのに。


私は同じようにてのひらに力を入れてぎゅっとその手を握り返した。
温かくて柔らかな感触に包み込まれる。


「そう。私も会いたかったわ」

そう言って目の前の瞳に微笑みを見せて、その手をぱっと離すと立ち上がった。
急に手を離された浩太は不思議そうに私を見上げたけど、そのままくるりと背中を向けた。


「美奈子……」

そこに立ち尽くして私を見つめる真由を見ずに歩き始めた。


「今度おもちゃ買ってくわ、コウタ」

そう言って前を向きながら軽く手を振った。

「美奈子…っ!
ま、待ってるっ!」

涙が入り混じった真由の声が背中越しに聞こえる。
それでも私は振り向かない。


だけど。
次に会うときはきっと、笑顔で迎い入れたい―――


今日こんな風に逢わなかったら、私たちはずっと平行線のままだっただろう。
ずっと、二人を恨んだままだったろう。

苦しかったのは、私だけじゃない。

小さな手とあの瞳が、私の汚さを少し剥がして軽くしてくれた。


群れをなすイワシが横から私を追い越していく。
天に広がる小さな海を少し見上げてから、足を速めて魚と同じように真っ直ぐに前を向いて人波を泳いだ。



END

update : 2007.10.25