ENDLESS
指輪を買いに行こう、と、パンチの復讐をたっぷりとされたあと、ぐったりとして動けないあたしの耳元で潤が言った。
ベッドではなく、結婚指輪。
――昨日。
あんなに用意周到であたしの前に現れたくせに、なぜか結婚指輪だけがなくて。
結婚式の儀式の一つであるリング交換が出来なかった。
潤は、二人でつけるものだから二人で選びたかったと言っていたけれど、結婚式で指輪がないって、ちょっと驚いた。
いや、うん。驚いたって言っても本当にちょっと……ちょこっとだけ、ね。
だって、今こうして潤と一緒にいられるだけで、幸せだから。
結婚式って昔からの憧れや夢はあったけれど、それがどうとか、そんなことは霞んでしまうくらいの大きな気持ちで満たされてるから。
それに……。
あたしは絡め合った指の、左から二番目の付け根に視線を落とした。
花の形にカットされた大きな大きなダイヤモンド。
七色の光を次から次へと作り出し、あたしの指を華やかに輝かせている。
「ねぇ、潤?」
あたしのすぐ隣を歩く、濃い色のサングラスをしてキャップを深く被った潤を見上げた。
街中どこもかしこも混雑して人だらけだ。
こんなところに引退したばかりのジュンがいると気付かれたら大変なことだけれど、意外と見つからないらしい。
「ん?」と、潤はこちらを向いて口元を緩めた。
あたしは、肘の高さまで潤の手ごと上げて指輪をみせる。
「コレ、高かったでしょ……?」
「んー、まぁ……」
「まぁって……いくらぐらい?」
「ソレ、訊くかな」
「だって、気になるもん」
うーん? と、潤は首を傾げる。
「三千万くらいかな」
「さ……っ!」
三千万!?
あまりにも驚いて、それ以上の言葉がとりあえず止まった。
呆気に取られたままのあたしに向かって、潤はぶぶっと吹き出す。
「葵、口開いてるし。変な顔っ」
「だって――!
何よその金額! 信じらんないっ」
「こういうのって、給料の三ヶ月分とかよく言うじゃん。
つか、三ヶ月分までいってないし」
「そういう問題じゃなくて!」
「あんまり高すぎる仰々しいヤツだと、葵、引くかなーとか思って、そのくらいにしたんだけど。
それこそ受けとんないだろ?」
「当たり前よ!」
「つーか、嬉しくないの?」
「嬉しいけど――でも」
「贅沢すぎる」と、あたしの声色を真似た声と自分の声が二つ重なった。
またもや呆気に取られる。
あたしの性格を見越しているらしい。
昨日久し振りに再会したばかりの、あたしの夫は。
「だってさー、一緒に暮らし出したら、どうせ葵が財布の紐握るんだろー?」
「……そーかもしれないけどっ」
「オレの金あったって、しょーがないじゃん。
トラック買おうとか、借金に充ててくれってオレが金渡したって、どうせ葵は受け取んないだろ?」
「そうだけど……」
それは絶対に貰えない。
ウチの借金を、潤の持っていたお金で完済させるなんて。
「今迄稼いできた金と、区切りをつけたかったんだよ。
だから、少しだけ残して、あとは全部院長のトコに寄付した。
これからは、結城潤で頑張るからさ。
オレの昔の名残、葵が持っててよ」
目元の隠れた潤は、口元をきゅうっと引き上げた。
そんなことを言われたら、もう何も言えなくなってしまう。
本当に、潤は何でもお見通しらしい。
あたしは、指輪に目を落とした。
キラキラと輝くダイヤモンドは、潤自身だった。
潤は、繋いでいる手をぶんぶんと数回縦に振ると、「行こ」と、また歩き出した。
あたしも引っ張られて、そのまま歩き出す。
その勢いがつきすぎて、前から来た人とぶつかりそうになると、繋いでいた手はパッと離れ、肩を引き寄せてきた。
おかげで、ぎりぎり誰にも当たることなく済んだ。
「そんなわけでさー」
そんなことも、何事もなかった様子で潤が言った。
「結婚指輪はそんなに高くないヤツね。
オレ、もう金ないしね」
冗談めいた言い方。
けれど、あたしが、高いものは最初から選ばないって、分かっていて言っている。
本当に、あたしと一緒に選びたいと、そう思っているから、買わないでいてくれたんだよね。
「もちろん」
あたしは、離れてしまった手をもう一度掴んだ。
街中で最初に見つけた宝飾店に、あたしたちは入った。
百貨店でも、高級ブランド店でもない、ウインドウには『SALE』のポップが貼られた一般的な宝飾店だ。
「いらっしゃいませ」
母くらいの年齢の女性店員が、にこやかに声をかけてきた。
胸元には、宝飾店の店員らしく、ダイヤモンドの一粒ネックレスが燦然と輝いている。
あたしの指のものと比べてしまうと随分と小さく感じられるけど、それでもあたしには手の届かないくらい高級そうに見える。
「結婚指輪を探しに来たんですけど」
「あ、はい。こちらになります。
もう、式はお決まりなんですか?」
「昨日だったんです。
でも、まだ指輪がなくて」
「まぁ! そうだったんですか!
それはおめでとうございます!」
店員は大袈裟に驚いて見せてから「こちらにどうぞ」と、カウンター近くのショーケースに案内してくれた。
厚いガラスの向こう側に、大きい輪と小さい輪で対になったシンプルな指輪が、不規則でいて計算された角度で整然と並んでいる。
「こちらのデザインが人気ですよ。女性用の方にだけ小さなダイヤモンドが入っているんです。
あとは、こちら……スタイリッシュなフォルムがオシャレですよ。
好きなルースを埋め込むこちらのタイプなんかも人気ですね」
よく舌の回る店員の説明を、潤はうんうんと真剣に聞いている。
商品をひとつずつ出してもらっている潤の横で、あたしはショーケースの中に見入っていた。
――あ。コレ。
「コレがいい」
あたしは、ショーケースの中の一対のリングを指差した。
「えっ、コレ?」
店員からあたしの指の先にあるリングに目を移した潤は、素っ頓狂な声を上げた。
「うん。あたし、コレがいい」
「え……だってさ、確かにそんなに高くないヤツって言ったけど、いくらなんでもコレ、安すぎじゃね?」
潤の言うとおり、赤で70%offと値段訂正されたそれはひとつ三万円で、結婚指輪の相場にしたら安価だとは思う。
「値段じゃないの!
ホントにこのデザインがいいの!
ほら、ちゃんとプラチナだし!
すみません、この指輪、ちょっと見せてもらっていいですか?」
店員にケースから出してもらい薬指に嵌めてみると、それは潤のくれた花の指輪にもしっくりと似合った。
三千万円と、三万円の、指輪。
まるで、あたしたちみたい。
売れっ子俳優のジュンと、借金を背負った花屋経営の普通の女。
でも、それはそれで、本人さえ良ければいいのだ。
「ほらね。重ねづけしても合うでしょ?」
「合うけど、せっかくの記念なんだし、もう少しいいものの方がいいんじゃね?」
「あたしはコレがいいの」
「まぁ……葵がどうしてもそれがいいなら、別にいいけど……。
オレも、そういうシンプルなリングって好きだし」
潤も渋々ながらも納得してくれたようで、あたしはにっこりと微笑み、店員さんに言った。
「じゃあ、この指輪でお願いします」
どこまでも丸く終わりのない愛を示すエンゲージリング。
そんな意味を含んだリングに、何も飾りは必要ない。
だって、もう、あたしたちに障害はいらないから。
だから、あたしはコレを選んだ。
なだらかな丸みを帯びた、けれどそれ以上は何の飾り気もデザイン性もない、どこまでもシンプルなリングを。
サイズの確認や日付と名前の刻印等、スツールに腰掛けてゆっくりと話を進めていき、思ったよりも時間がかかるなと感じた頃にようやく支払いの運びとなる。
「潤の分は、あたしが払うね」
「いいよ。そのくらい、オレに払わせろよ」
「だって、あたしが買いたい」
「いいってば」
と。
潤はあたしを制すると、先に封筒から一万円札を数枚出し、会計トレーの上にぽんと載せた。
「もう……」
そう溜め息を吐いた次の瞬間、目が釘付けになった。
潤の手の中の封筒に。
角が折れて微妙にしわくちゃな、どこにでも売っている普通の茶封筒。
そこに、見覚えのある字。
――『潤へ』と。
見間違えるはずがない。
だって、それは、あたしの字だ。
あのときの。
潤がいなくなる前に渡した、潤のお給料。
「潤……まだ持ってたの……?」
「簡単に使えるわけねーじゃん。
オレの、初めての給料」
潤は拗ねたように答えた。
そういえば、初めて作った花も、あたしにくれた。
潤は、そういうひとだ。
あたしのことも、花屋の仕事も、どれだけ大切にしてくれているのか、また思い知らされる。
目頭が熱く痺れ始めて、堪えるために、あたしは奥歯を噛み締めた。
店の自動ドアを潜り外に一歩踏み出すと、うららかな午後の陽が暖かく感じた。
ビルの合間の、春の日差し。
アスファルトには、二つ並んだ影。
目の前を、沢山の人が行き交う。
さっきよりもずっと、通行人の量が増えた気がする。
隣の潤は、キャップの位置を深めに直した。
「潤、ありがと、ね」
足を止めたまま、見上げて言った。
潤はこちらを向いて、照れくさそうに口元を上げた。
サイズ直しと刻印の仕上がりは、一週間後。
すぐにつけられないのは寂しいけれど、それはそれで手元に届くのも楽しみだ。
「買い物して帰ろっか」
と、歩き出すと、潤がやっぱり納得がいかないように言った。
「で? 指輪、どんな意味があんの?」
「え?」
「何か意味があって、アレにしたんだろ、どうせ」
「ひ、み、つー」
わざとらしく、区切って答える。
別に秘密でも何でもないけど。潤の反応の方が面白そうだし。
「何で秘密なんだよ。
つか、そんなこと言っていいの?
夜、じっくり、聞かせてもらうからなー」
潤は、今度はにんまりと唇の端をいやらしく上げた。
意味有り気に。
あたしは対抗して、いーっと、歯を見せてやった。
「今度はあたしの番でしょっ」
「は?」
「たっぷりお礼しながら、話してあげる」
意地悪に微笑むと、潤は呆けたように薄く唇を開いたままでいる。
意外とジャブに弱いんだよね、コイツってば。
あたしはくすくすと笑いを漏らしながら、潤のまだ裸の薬指を握った。
きゅっと。
もう離れないように。
END
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