CROSS
「オレ、佐々木に告白された」
「……うん、知ってる…」
彼の次の言葉が零れ落ちる前。
唇が動きかけた瞬間に、あたしはソレを自分の唇で塞いだ。
触れた瞬間、頭の中が真っ白く濁る。
音楽と歓声と拍手がすぐ近くで大きく響いているのに、唇が合わさっている間だけは何故か鈍く耳鳴りの様に聞こえるだけの気がした。
その瞬間だけは触れた唇だけに意識が集中している様だった。
柔らかい彼の唇。
最初で最後のキスを……
忘れられないキスをあたしにちょうだい……
唇が離れるほんの一秒前、流れ落ちた粒がそこに伝わり、涙の味がした。
―――文化祭最終日。
ついさっきまで赤く染まっていた西の空は、その美しい色から既に薄暗い濃紺に塗り替えられていた。
ファイアーストームがその夕焼け空の代わりに轟々と音を立てながら真っ赤に大きくそり立っている。
そのファイアーストームから少し離れた校舎の昇降口前。
ドアの段差に二人で腰掛けていた。
生徒達は点火されたばかりの大きな炎に魅せられて、ここにいるあたし達の事なんて誰も気付かないし、気にも留めない。
『文化祭最終日。ファイアーストームが見える場所で誰にも見られずキスするとその二人は結ばれる』
ウチの生徒なら誰でも知っているジンクス。
気持ちが通じ合えなくても。
あたしの事が好きじゃなくても。
絶対に忘れるコト、出来ないでしょう?
秋が来る度にきっと思い出してくれるでしょう?
この位の意地悪、許してよ……。
驚いた顔付きで、トモキはあたしを見つめる。
薄っすらと開かれた唇は今直ぐにでも何か言葉を発しそうなのに、それを抑止している様に見えた。
あたしも黙ってその顔を見つめる。
ほんの少しの沈黙。
それをトモキが掠れた声で破った。
「ユミ?何でだよ…?
オマエが好きなのは高橋先輩だろ?」
その言葉に、あたしの瞳からは涙が又膨れ上がった。
好きだと思い込んでいたの……。
その気持ちが憧れだってあの時は気付かなかったのよ……。
だけど、そう。
あたし達はそういう関係だった。お互いの相談相手だった。
あたしとトモキは特別仲が良かった訳でもなかった。
それまで話をした事も無い、ただのクラスメートだった。
憧れていた高橋先輩の事が少しでも知りたくて。少しでも近づきたくて。
先輩と同じバスケ部のトモキに声を掛けたのが始まりだった。
『ねぇ、高橋先輩の事、教えて欲しいの』
いきなり校舎裏に呼び出されて告白されるとでも思っていたのか、その時かなり面喰った様な驚いた表情を見せた。
瞳を伏せて少し上を向き、何か考えた様な仕草をしたかと思うと、トモキはあたしに言った。
『…いいけど。オレにも女の気持ち、レクチャーしてくれる?』
『うん、いいよ。誰が好きなの?』
『……。隣のクラスの佐々木 美紀』
佐々木 美紀――と言えば校内では有名な美少女。
憧れている子は少なくは無い。
線が細くて、モデルみたいなスタイルに整った顔立ち。大きくてきりりとした瞳が印象的で。
その上成績も良くて、才色兼備とは彼女の為にあるような言葉だ。
『あたし別に彼女と友達でも仲が良い訳でもないよ?』
『いいんだよ。ただ、オレって疎いから女ってどういうのが好きかとか気持ちとか理解できねーし……。
そういうのとか、とにかく相談に乗って貰えればそれでいい』
『うん。そんなの全然いいよ。でも、出来るだけ協力するね』
そうやって、あたし達はそこから急速に仲良くなった。
二人だけで話す事も多くなったし、一緒に先輩へのプレゼントを買いに出掛けたりもした。
二人でいる事は自然だった。
気も合ったし、トモキには何でも話せた。
とにかく、一緒にいて楽しかった。
そしてあたしは何時の間にか気が付いたのだ。
先輩に対する気持ちはただの憧れだという事に。
トモキが好きだという事に――――
だけどそんなあたしにトモキは平気で瞳を輝かせながら彼女の事を話すのだ。
「やっぱ可愛いな」とか、「今日は少し話をした」とか。
だからあたしも先輩の事はもういいと言いづらくなってしまった。
言ってしまったらあたし達のこの関係が崩れてしまう気がしたし。
だからフリをしてたの。
先輩のコトを好きなフリを―――……
あたしがトモキの事を好きだと言ったら、こんな風に二人で会えなくなってしまうでしょう?
大きく胸は痛むのに。
それなのにそんな選択しか出来なかったの。
だけど。
とうとうその均衡が崩れてしまう日が来たのだ。
さっき聞いてしまった噂。
クラスの男の子達が教室で騒いでた。
『佐々木がトモキの事、呼び出したって』
『マジかよ?うわ〜ショックだな』
呼び出した……
それはやっぱり告白する…って事なんだろうと直ぐに分かった。
だって。
見てれば分かるよ。
あの日から何ヶ月間も。
トモキだけじゃなく、彼女の事も目で追っていたんだもの。
トモキを見つめるその瞳が友達に向ける物では無いという事なんて。
あたしとトモキが二人でいるところを見た嫉妬の眼差しだって。
…女の子なら、分かるよ。
だけどその事をあたしもトモキには言えなかったの。
少しでも長く二人でいたかったんだもの。
「ユミ、何で泣くんだよ……?」
「……だって」
「だって…って、何だよ?訳分かんねーよ」
トモキは少し苛ついた様に両手で頭を掻きむしった。
そして下を向いて、はぁ。と小さく息を漏らす。
「好きだから、だよ。
先輩はただの憧れだよ。あたしはトモキが好きなんだよ」
その項垂れたトモキの頭の上からあたしはそう言った。
最後の方は少し声が上ずっていた。
又、涙が溢れ出す。
―――あたし達の関係はこれで終わり。
もう、今迄の様には出来ないよ……。
関係を崩したのはあたし。
それでも、この気持ちを忘れて欲しくないの。
ここにあたしがいた事を覚えていて欲しいの。
我儘だってちゃんと分ってる。
トモキは顔を上げた。
驚いた顔。
ああ。あの時と……
初めて二人で会話した時と同じ顔……。
その見開いた瞳であたしの事をじっと見つめる。
「それはオレのセリフだろう?」
―――え?
その声が聞こえたかと思うと、あたしが声を上げる前に唇が塞がれた。
何が起こったのか、一瞬分からなかった。
あたしは目を閉じることさえ出来なかった。
押し付けられた柔らかな唇は、一度角度を変えて蝕む様にもう一度そこに落される。
熱を帯びた様な熱い吐息とその唇。
だけどやっぱりあたしはビックリしすぎて瞳を閉じる事を忘れていた。
ただ、その唇の感触と熱い吐息だけを感じていた。
ひんやりとしたトモキの頬と鼻先が軽く触れたかと思うと、唇が離される。
二人の顔の間に白い息が上がった。
その合い間からトモキの少し目を細めた切なげな顔が見える。
「もう、我慢出来ねーからな……」
トモキはそう少し掠れた声で言って、大きな手であたしの涙を拭った。
秋の夜の冷たい空気で冷え切ったその指の感触が、手が離れた後も火照ったあたしの頬に痺れた様に残る。
「佐々木…さんは……?」
「断ったに決まってるだろ?
オマエこそ、オレが好き…って、いつからだよ?」
「分かんない……気が付いたら、だよ」
あたしがそう言ってトモキの顔を見つめると、ふっ、と笑顔を見せた。
「オレも……。遠回りし過ぎたな」
そう言いながらトモキは立ち上がった。
そしてあたしに手を差し出す。
「ホント、だね」
あたしも笑みが零れて彼の手を取った。
その手を掴むと、冷たい大きな掌がそっと包み込むようにあたしの手を握り返してきた。
温かく、くすぐったい様な甘い気持ちが胸に込み上げる。
さっきまでの緊張が嘘の様だ。
「今日のコト、一生忘れられねーな」
前を向いたままトモキは呟いた。
見上げた横顔。
瞳にはあの赤い炎が映し出されている。
その赤く染められた横顔が凄く眩しく見えて、あたしは思わず目を細めた。
そう。
仕向けたのはあたし。
一生忘れられないキスを――――……
「…うん。忘れられないでしょう?」
そしてあたし達は、温かく燃え盛る赤い光の方へとゆっくり歩き始めた。
END