甘い雫

「紗枝(さえ)の彼氏、昨日駅前に出来た新しいイタリアンの店で、総務のオンナとご飯食べてたよ。
あの二人は出来てる、って、噂立ってるの知ってる?」


目の前に座る、会社の同僚の美和(みわ)が渋い顔をしながら言った。


どうもさっきからオカシイな、と思ったのよ。
妙にそわそわしちゃって。
なかなか切り出せなかったんだろうね?


「そう?」

「そう、って。アンタね!他人事みたいに!」

「ご飯くらい友達だったら一緒に食べるでしょ?」

「あのねー」


美和が呆れたように大きな溜息を吐き出した。

あたしは運ばれてきたばかりのアイスコーヒーにガムシロップを落として、ぐるぐるぐるぐる、いつまでもストローで混ぜ合わせていた。
胸に渦巻く気持ちと一緒に。

あたしだって、そんな事を聞けば、勿論イライラだってする。

だけど。
怒るかっていうと、もうそういうところはとうに追い越してしまった気がする。

女と食事、なんて。
アイツにとっては『浮気』のレベルになんて、到底達しない。

付き合って1年。
その間に何度そんな噂話を聞いたことだか。


いっつも明るくて周りに人が集まってて。

背が高くて顔も良くて。
仕事も出来る。

おまけに、女の子皆に優しい。

女が放っておかない、ってヤツ。


あたしの彼氏――雅哉(まさや)はそんな男だ。

付き合う前から分かってたコトだし。
それでも好きになっちゃったんだからしょうがない。

だけど、最初の頃はもっとずっと優しかったと思う。
週末の度に何処かに行って、美味しいモノ食べて……

だけど、最近そんなコトした?
最後に一緒に外食したのいつだっけ?

ドタキャン多いし、たまに待ち合わせしたって遅刻してくるし。
電話したって出ないことも多いし、コールバックもない。
メールさえ滅多に来やしない。


疲れちゃったのか、諦めちゃったのか。
あたしは雅哉にいちいち言わないし、追及もしない。

だって、怒るだけ無駄なパワー使う気がするし。
雅哉曰く、『友達』に、いちいち目くじら立てるのなんて、ウザがられるの分かってるし。

何でもない振りしてやり過ごしたほうが楽、って。
そう思っちゃったんだ。



……そう思ってたのに……



いつもは女友達や同じ課の子に何を訊いても「そう?」で済ませられたのに。
実際、女と二人でいるところを目の当たりにしたら、それは違った。

金曜日の会社帰り。
美和と会社近くで夕飯を食べて駅に向かうと、雅哉と例の総務のオンナがいた。
楽しそうに口元を綻ばすオンナが、雅哉とふざけ合って、店から出てきたところだった。

よくよく見ると、その店は宝飾店で。
二人のすぐ後から、見送りをするために女性店員が出てきた。
店員は、如何にもその店で二人が購入した小さな小さな紙袋を胸の前に掲げて、「どちらがお持ちになりますか?」という声が聞こえてくるような仕草で、雅哉と彼女の顔を微笑みながら交互に見る。

――そして、その紙袋を、雅哉が受け取った。


ガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃で。
どうにもならない気持ちが身体の底から込み上げてきて。

吐き気までした。


何で一緒にいるのよ?
何で笑ってるのよ?
何で、横にいるのがあたしじゃないの――!?

あたしはそんな風に、アクセサリーなんて買って貰った事なんてないのに―――




次の日の土曜日。
何事も無かったように、あたしは雅哉の部屋を訪れる。

そして、いつものようにあたしの作った夕食を食べて、レンタルのDVDなんか見て。

ソファーで横に並んでそれを見るあたしの手に、雅哉の手が重なったかと思うと、自然と唇が触れて、もう片方の手がするりとカットソーの裾から肌に滑り込んでくる。

――当り前のように、肌を重ね合わせる。

――いつもと変わらない週末


それなのに、苦しい。
息が出来ないくらい。

身体が重なっても、気持ちまでは重なってくれない。



「ねぇ、あたしの事、スキ?」


ベッドの中。
疲れ果てて天井を仰ぐ雅哉の顔を覗き込んで訊いた。


「は?何、急に」

「何、じゃなくて。言って」

「………」


暗がりにテレビの明かりがちらちらと揺れ動いて、映画の中の流暢な英語が響く。

雅哉はあたしの質問には答えず、ゆっくりと顔を近づける。
そして、唇が重ねられる。


――ズルイ。

ホントに、ズルイ……


聞きたい言葉はいつだって言ってくれない。
――好きだから、言って欲しいのに。
誤魔化してばかりで。


週末、会って。
あたしの作ったご飯を食べて。
身体を合わせて。
――それで、オワリ。


それでもいいって思ってた。
好きだから。
一緒にいられれば、って。
癖のように他の女の人と会っても、あたしが我慢すればいいや、って。


でも、やっぱり違う。
本当は他の女の人となんて二人きりで会って欲しくなんてないし。


もっと愛が欲しい。
愛されてるって、確認したい。

これじゃあ足りないよ。
喉がカラカラで、干からびちゃうよ。
どっぷりと甘い水に浸かる位、愛が欲しいよ――――


触れていた唇が離れていくと、雅哉はすっとベッドから立ち上がった。


「送る」

「………」


――それだけ?

用が済んだらオシマイ?

もしかして、あたしって勘違いしてた?
彼女なんかじゃなかった?

何処かに特別に連れて行ってくれる訳でもないし。
会って、ご飯作ってくれて、掃除もしてくれて、エッチしたら帰ってくれる、ただの都合のイイ女?


昨日の光景が脳裏を掠めた。


アクセサリーなんて高価なモノ、あたしは貰った事が無い。
それなのに、他の女に買ってあげるなんて、やっぱりそれはそういう意味なのかもしれない。


もう、駄目……

やっぱり、もう限界……

あたしは、もっと、自分を大切にしてくれる人がいいよ……
優しくされたい。愛されたい。


悲しいよりも、情けなくて悔しくて、目頭が熱くなった。


だけど、泣いてなんてやらない。
絶対に。


「来週の土曜日、渋谷のハチ公口で、18時に待ち合わせしよ」


あたしはベッドから動かないまま言った。


「は?どうしたんだよ、急に」

「たまには何処か行きたいし」

「別にいいけど」

「絶対っ、だよ?約束の時間に遅れないでよ!」


強い口調でそう言うと、雅哉はシャツを翻しながら羽織り、眉を寄せて苦笑いした。








――約束……したのは訳があった。

外で待ち合わせをしたのは、別れの『お膳立て』をしたかったから。
このまま別れる、って言うなんて、何にも無いあたしにとっては、あまりにも悔しかったから。

めちゃめちゃ高級な料理を奢らせて、綺麗な夜景を見て、ムードを盛り上げて、「別れよう」って言って怒らせてやろうと思った。

少しは痛い目見ればいい。
あたしが今迄どんな気持ちでいたか、ちょっとくらい分かればいい。

そんな風に、約束までの一週間、頭の中で色んなプランを考えて思い描いたのに。

とびっきり綺麗に身支度して、約束の場所に行かなきゃならないのに。

それなのに。
頭は割れそうに痛み、意識は朦朧とし、視界が歪む。

ピピピと。軽快な電子音が鳴った。
のろのろと脇から体温計を引き出す。
ぐにゃりと曲がりながら見える文字は、38.9――


……嘘でしょ?


縺れた足で、そのままベッドに倒れ込んだ。
冷やりと頬に柔らかく当たる布団の感触が気持ちイイ。


……もう。知らない。
もう、いいや。

行けないなら行けないで、待ち合わせ場所でずっと待ってればいいよ。
いつもあたしがそうしていたみたいに。
いくら待っても来ない気持ちを味わえばいい。

もう、知らない……


計画は行われる前にぶち壊れた。
だけど、そんな風な結末があたしらしいのかもしれない。


そう思うのと同時に、意識が遠のいていくのが分かった。





暑い……

肌に纏わりつくみたいに、布がビッタリと張りつく感触がして気持ち悪い。
喉はカラカラに乾いて、内側から焼けつくように痛む。

ふ。と。
額に何かひやりと冷たい感触がした。
気持ちイイ……


まどろみの中、頭の片隅で何かが聞こえた気がした。
優しく奏でるような、耳にすうっと入り込んでくる何か。


薄く開いた瞳から、ぼんやりと歪んだ雅哉の顔が映る。


「夢……?」


掠れた声が唇から洩れた。

こんな時にやっぱり雅哉が思い浮かぶなんて、やっぱりあたしは重傷なんだ。


「へーきか?」


低い声がハッキリと聞こえて、あたしは目を見開いた。


「雅哉!?」


咄嗟にがばっと上半身を起こす。


「何で雅哉がいるの!?」

「何で、って。今日約束したじゃん?」

「だって、待ち合わせ!」

「時間になっても来ないし。電話もないし。
真面目なオマエがこんな日に来ないなんてオカシイなぁって思って。
すぐに紗枝んちに向かった」


オカシイなぁ……って……
待ちぼうけしてくれたんじゃないの?

やっぱり計画丸潰れだ。


はぁ。と。
大きな溜息が出て、頭も垂れる。


「汗かいてる。
着替えたほうがいいんじゃね?」


ほら、と、あたしに向かってタオルを差し出す。


「――……」


だから。何で。
こんな日に限って優しいのよ。
別れるって決めた筈なのに。

気持ちは大きく揺らぐ。
それと一緒に、視界も歪む。


あれれ?

ぽたり。と。
白いシーツの上に濃い染みが出来た。


「……何で泣く?」

「だ、だってっ。雅哉が優しいから」

「何だよ、それ?」

「優しくないから別れてやる、って思ったのに……っ」

「こんな日に何言ってんの?」

「こんな日って何よ!?」


俯いていた顔を上げて、下から雅哉を睨んだ。

でも、涙が邪魔をして、やっぱり顔は歪んで見える。


「別れてやるとか、言うなよ……」


雅哉の声が響くと、ふわりと抱き締められた。

甘い匂いがする。雅哉のいつもつける香水の香り。
いつもの、匂い。

胸がきゅっとする。


……ズルイ、ズルイ。


苦しくなって、固く瞼を閉じた。

ふと。
肩に回された手が緩められる。
それなのに身体は雅哉に包み込まれている。

首と、胸元に、急に冷たい感触がした。


……何?


目を開けて、確認する。


「……何?コレ……」

「何、って。オマエに似合うと思って」


胸元の冷たい感触の正体は、ハートにカットされた大粒のピンクトルマリンのネックレスだった。


――だから、何で、別れようって思ったこんな日に――……


「今日オレ達、付き合って丁度一年だろ?」


優しくあたしに向かって微笑む雅哉。


え?嘘?一年?


「忘れてた……」


あたしがそう呟くと、雅哉はきょとんとした顔をする。


「忘れてた?
今日何処か行きたいって言ったのは、一年の記念日だからだと思ってた」

「……違う」

「違うって何?」


雅哉は眉を寄せて、怪訝そうな顔であたしを覗き込んで続ける。


「まさかマジで忘れてたワケ?」

「だって……」

「だって、何?」

「見たんだから、先週総務の子と一緒に宝飾店から出てくるの」

「だから、ソレだろ?」


と。飄々とした顔であたしの胸元を指差す。

肌に浮き立つ、ピンクのキラキラしたハート。


それは、あたしの為に他の女と一緒に買いに行ったって意味?
それって、すっごく失礼じゃないの?


「何で一緒に買いに行くのよ!?あたしの事、誘ってくれればいいじゃん!
それに、美和も一緒にご飯食べてるトコ見たって言ってた!」

「だって秘密にしたかったし。一応」

「だからって……!」


彼女の為に他の女とアクセサリー選びに行くわけ?


「仕事帰り、ショーウインドウでたまたま見掛けてさ。
紗枝に似合いそうだなーって思って。
だけどソレ、スゲエ高くてさ。
店で悩んでたら、たまたまその総務の高木に会った。友達がその店で働いてるんだって。
で、社販で買ってもらえるって言われてさ。
お礼に食事くらい奢ったけど……。
昨日は社販してもらって届いたソレを、店に一緒に取りに行ってもらっただけ」

「社販……?」

「そう。
どうしても紗枝にはソレ、って思ったんだけど。
値段的に厳しいなーって感じだったから、助かった」


助かった……って。
微妙な気持ちだ。

それなのに嬉しい気持ちが込み上げてしまう。
そんなの飲み干してしまう程。

だって、紗枝に似合いそうとか言うんだもん。


だけど、後には引けなくなっていた。


「で、でもっ。
いっつも女の人とご飯行ったりするでしょ?あたし、ホントは嫌だったんだから!
あたしはいつも家で作るばっかりで!たまにはお洒落なお店で食べたいのに!」

「オマエ、そーゆーの何も言わないから、女友達と会っても全然平気なのかと思ってた。
それに、外食より紗枝の作る飯のがいいし。
つか。紗枝の飯がいい」

「どこにも連れていってくれないし!」

「休みの日くらい紗枝と家でゆっくり過ごしたい」

「電話もメールもくれないじゃん!」

「そーゆーの苦手。すると会いたくなって我慢出来なくなる」

「我慢って……」


簡単に返される返事。
しかも、あたしが言われて嬉しい事ばかり。
調子だって、いいし。

何よ、何よ……


「じゃあ、約束の時間に遅れてくるのは?」

「それは……オレが悪いな。完全に」

「好きって言ってくれないじゃん!この間だって……!」


ぽんぽんと返されていた言葉は、そこで一瞬止められる。
ほんの少しだけ沈黙が流れて、眉を歪めた雅哉が口を開く。


「言わなくても分かるだろ?」


好きにきまってる――……
その言葉の終わりが雅哉自身の唇で飲み込まれた。

激しく押しつけられた唇。
少し開かれた隙間から雅哉の舌が割って入り込み、絡められる。

熱く。
そこから雅哉を感じる。


ぽつりと。
一粒、零れ落ちた甘い雫。

砂漠に落ちた甘い水は、簡単に沁み込んでいって、今度は溢れ出して泉になる―――


カラカラのあたしの心は、いとも簡単に潤って溺れそうな程溢れてしまった。


そんな風に、あたしの心を乾かすのも、潤すのも。
出来るのは、雅哉一人だけ。


何も分かってなかった。
あたし一人で馬鹿みたいに卑屈になってた。

ちゃんと訊けば、雅哉は答えてくれた筈なのに。
訊かないまま、被害者ぶって、勝手に傷付いてた。


別れてやる、って言われてもおかしくないのはあたしの方だ。



お互いの感情が絡み合う、長いキス――――
何度も角度を変えて、お互いを確かめ合う。

気持ちと一緒に、涙も零れ落ちていく。



二人の唇が離れると、こつりと額と額が当たり、間近で見つめられる。

ゆっくりと、頬を雅哉の指の腹が撫でていく。


「もう、別れるとか言わねーよな?」

「……はい」

「言いたいこととか、溜め込まないで自分の気持ち言う?」

「……はい」

「オレの事、スキ?」

「……スキ、デス」


――形勢逆転……。


だけど。嬉しい。
初めての、お互いの本音。


「このままオレに風邪移しちゃえば?」

と。
雅哉が胸元に輝くピンクのハートの脇にキスを落とす。


また、ぽつり。と。
甘い雫が落されて、そこから波紋を作りながら身体中に広がる。


「一緒に熱出す?」


あたしはふわふわの頭でそう答えて、彼の首に腕を回した。




END

update : 2008.05.30